第8話

 今日も外は猛暑日もうしょびの予報。午前中から日差しは強く、セミの声がうるさいくらいに聞こえている。


 勇真は学習机に向かって、宿題のプリントに取りかかっていた。

 約四十日間の夏休み。おぼん期間はやらなくてもいいように減らしたって先生は言っていたけど、数えたら三十枚はあるし、毎日一枚はやれってこと? 他にも宿題はたくさんあるし、小学生はじゅくや習い事でも結構忙しいんだぞ。


 鉛筆を鼻と上唇うわくちびるの間にはさみ、勇真は窓際まどぎわの飼育ケースを見た。ちょうど飼育ケースの真ん中にいたヒカリと目が合った。しかし、プイとヒカリはおしりを向ける。長い尻尾しっぽがピシとげ茶色の砂をねた。せっかく進化したのに、ちっともカッコよくない態度だ。


「なんか、ヒカリが変だな……」

おこっているのではないのか?》

 机のはしっこに置いている灰色の玉カミサマが、ゆらゆらとゆれながら言う。勇真は、鼻の下ではさんでいた鉛筆を落とした。

「ヤモリもおこったりするの!?」

《生き物なのだから、そんなこともあるわい。犬や猫だっておこったり喜んだりしているじゃろ?》


 確かに、お隣の和田わださんちの黒猫クロタは、しょっちゅうフギャーッておこってるし、友達の大翔ヒロトの家の犬ラッキーは、遊びに行くたびにブンブン尻尾しっぽを振って喜んでいる。でも、犬や猫はおこってるのも嬉しいのも、ちゃんと表現するから分かるんだ。

 ヒカリはずっと同じ表情に見える。ヤモリにはまぶたがないし、口もパクパクするだけだ。それでは、何考えてるのかなんて分からない。

 そもそも、ヤモリなんて何か考えてたりするのかなぁ? そんなに色々考えてないんじゃない?


おこってるんだとして、それってやっぱり、昨日霧吹きりふきを忘れたから?」

《さて、どうかのぅ?》

 むう、と勇真は口をゆがませて玉をにらむ。学びをサポートするって言いながら、カミサマはこうやってもったいぶってばかりだ。母さんといい、カミサマといい、簡単に答えを教えないなんて意地が悪い。勇真は、ため息をついた。


「もういいよ。元気になったんだし。これからは霧吹きりふきを忘れなければいいんでしょ」

 めんどうくさくなって、考えることを止め、勇真はイスの背もたれに体重をかけて、うーんと腕をばす。ヒカリが死んでしまったら自由研究の計画がパーになるかと心配したけど、カブトエビと違って、ヤモリは生命力が強いようだ。

 なんとか予定の三十日間生き延びてもらいたい。

 すると、おしりを向けていたはずのヒカリがチラリとこちらを振り向いてから、かくに帰って行く。いつもならシャシャシャと素早く移動するのに、今日はのそのそと歩いて行く。


「やっぱり変なの」

《はああぁぁ……》

 カミサマの深い深いため息が聞こえて、勇真は玉を見た。机のはしにあった玉は、コロコロと転がって、イスに座った勇真の前に来て止まる。


「カミサマ?」

《おぬしには、ちぃ〜とサポートしてやろうかの》

「え?」と声を出すと同時に、玉はパッと明るく銀色の光を放った。そのまぶしさに目を閉じた勇真は、しばらくしてゆっくりと目を開ける。

 ……開けたはずだった。でも、暗い。


 え? 何で? ここどこ?

 今、部屋にいたよね?

 窓からし込んでいた夏の日差しを探して、立ち上がってキョロキョロとした勇真の耳に、声が届いた。


『ぼく、強くてカッコいい、怪獣かいじゅうみたいなヤツに育って欲しいな!』


 布団の中で聞いたみたいに、とてもこもった声だったけれど、これはの声だ。あの時、カミサマに“ナゾタマゴ”から生まれるものがどんな風に育って欲しいかと聞かれて、ぼくが言った言葉。

 それは確かにぼくの声だったけど、ぼくはそれを聞いて、なんだか力がいてきた。ウキウキした。よし、強くてカッコよくなるぞーって、気合いが入った。

 なんだ? これは、本当にぼくの気持ち?


 次の瞬間しゅんかん、パァッと目の前が明るくなった。ぼんやりと人影が見えたと思ったら、すぐにはっきりとした映像に変わる。こちらをのぞき込んでいる男の子。あれは、ぼくだ。

 見回せば、透明とうめいのプラスチックのかべが周りを囲んでいて、ぼくはげ茶色の砂の上にいた。

 ふと、思いつく。もしかして、これはヒカリの視界なのではないだろうか。

 ぼくは今、ヒカリになっているんだ。


『……この子、ぼくのヤモリなんだな』


 またの声がした。なんだか胸がフワッとなった。


『光……。“ヒカリ”にする』


 名前っ! 特別なものをもらった! 何てステキ!

 ムズムズして、ふわふわして、じっとしていられない気持ちになる!

 これは、ヒカリの気持ち? ぼくが名前をつけて、ヒカリはこんなにうれしかったのか。


 のどがかわいて、透明とうめいかべに付いた水をめた。

 水入れの水は、舌でめ取ると周りや体に散ってしまうし、すぐにぬくもっておいしくない。かべに付いた小さな水は、一口ずつ飲めて、新鮮しんせんで、気分がいい。それに、透明とうめいかべごしに水を飲むのを見るが楽しそうで、うれしくなるんだ。

 が学習バックをもって、部屋を出て行く。ガラーンとした部屋に、一匹ひとりで残される。


 なんだろう……、うう、さみしいな。

 しばらくすると、が戻って来た!

 ああ! うれしい! ねえ、また上手に水を飲むから、見て、見て!


 クルクルと視界が回る。


 が近付くたび、目が合うたび、ヒカリの胸はフワッとして、ほかほかして、ピカッとなって……。

 ヒカリはこんなにも、飼育ケースの中からぼくを見ていたのか。ぼくのことを、こんなにも好きで。知らなかった。ぼくは全然、ヒカリのことを知らなかった……。


 あの日、ぼくは霧吹きりふきを忘れた。ヒカリはのどがかわいて、とてもしんどかったけど、が帰って来るのをじっと待っていた。おなかも空いたけど、ふやけたごはんが多くて新しいごはんはひとつしかない。

 ぼくはヒカリの視界で、ずっと部屋のドアを見つめていた。が帰って来て、霧吹きを忘れていたことに気付いてくれるのを、ずっと待ってた。

 ヒカリはが好きだから。それも理由だ。でも、それだけじゃなく、ヒカリの世界はこの飼育ケースの中だからだ。飼い主のが開けてやらなければ、すぐそこにある霧吹きりふきにすら手は届かない。

 飼い主を待つしか、ヒカリに出来ることはないからだ。


 早く。ねえ、早く。

 待ってるよ。ちゃんと、待ってる。

 待ってるから、早く帰って来て、見つけてよ……。

「ごめんな、すぐ水をやるからな」って、きりいて。お願い……。


 待って、待って。そして、ようやく帰って来たは言ったんだ。


『ヒカリ、元気出せよ。……ヒカリが死んだら、また自由研究が出来なくて困るんだから』


 ガンッ


 大きな音がして、頭が、体のあちこちが痛んだ。そして、映像がゆがんだ気がした……。



 気が付いたら、ぼくは、学習机の前に座っていた。ジージーと、大きなセミの声がひびく。

《勇真や、ヒカリの声が、聞こえたかの?》

 机の上で薄灰色うすはいいろの玉がゆれて、カミサマが言った。すずしい部屋の中なのに、勇真はいつの間にか、たくさんあせをかいていた。心臓が、ドク、ドクと音を立てているのが分かる。


 窓際に置いた飼育ケースを見れば、かべにペタリと片手をついたヒカリが、くりくりとした目の中で、縦に開いた瞳孔どうこうをキュッと細くしてこちらを見上げていた。

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