ひかりあれ

つるよしの

光、あれ

「香織ちゃんの人生に、光ありますように」


 いつも別れ際には、梢さんは私の頭を撫でながらそう言った。いつもいつも。

 それはもう、慣用句のように。

 

 梢さんは、気がついたらそばにいた。

 物心ついた時にはすぐそばにいた。


 今、考えても、奇妙な関係だったと思う。お姉さん、と呼ぶには歳が離れすぎていて、おばさん、と呼ぶにはまだ若い年齢、そして距離感。


 だから私は梢さんを「梢さん」と呼ぶしかなかった。もちろん、隣に住んでいたのだから、苗字を知らないわけはない。だけど、「武島さん」と呼ぶのはなんだか他人行儀な気がしたから、私は梢さんを「梢さん」と呼んだ。

 だけども「梢ちゃん」と呼ぶほど馴れ馴れしくしてはいけないとも、思っていた。



 教会でのミサのあとには必ず焼肉に行った。

 それまで焼肉屋になんて行ったことなかったから、あれは小学校三年生の頃だっただろうか、初めて行った時の私のはしゃぎっぷりは相当のものだったと思う。


「焼肉屋さんの火って、すごく強い! 肉、秒で炭になっちゃうー!」

「そうだよ。だから急いで食べなよ、香織ちゃん」


 梢さんはそう微笑みながら、甲斐甲斐しくトングを操り、私のために忙しなく肉を焼いてくれる。私のすることといえば、ただ網の上から箸で焼けた肉を拾うだけでよかった。


「私、カルビっていうお肉が気に入りました。すごく美味しい。もっと食べたい」

「あはは、構わないよ。そこのタブレットから好きなだけ注文していいからね」


 肉を焼く炎に照らされる梢さんの顔は、なんだかいつも楽しげだった。七輪越しの梢さんとの会話はいつもより賑やかに弾む気がした。

 それはもう、ミサの時よりも、うちの玄関先で「やさしいかみさまのお話し」と題されたパンフレットを片手に教義を私に語るときよりも、よっぽど。


 だけど私はそのことを梢さんに言うことはなかった。口にしてはいけないことだという意識が、どこかにあったからだ。それに、それを言ってしまったら、梢さんはひどく自分が恥ずかしくなるだろうし、それになによりも、こうして梢さんとお肉を食べることもなくなってしまうだろう。


 私は馬鹿な子どもだったけど、それくらいの真実には気づいている程度の馬鹿ではあったのだ。



 父と母は梢さんのことをよく思ってなかったと思う。

 それはそうだ。なんだか怪しい新興宗教の集まりに娘を始終引っ張り出す隣人の女など、快く思えるわけはないだろう。

 だけど結局、両親は梢さんと私の関係を黙認した。それだけ我が家はお金に困っていたのだ。共働きで私を構う余裕も、外食に連れていく余剰もない家庭にとって、梢さんの存在はむしろありがたいものだったのだ。


 それでも両親はたまに、私に言った。


「あまりあの人の言うことを、本気にしちゃだめだよ」


 私はそのたびに笑って、こう答える。


「分かってるって。当たり前じゃん」


 そんな我が家でのやりとりを、梢さんは察していたのだろうか。梢さんはミサからの焼肉遠征の後、私を家に送り届けながらも、必ず門の前で別れを告げる。

 それでも梢さんは私にそのとき、いつも、髪を撫でながら、こう言うのだった。


「じゃあ、おやすみ、香織ちゃん。香織ちゃんの人生に、いつも光ありますように」


 そう私に囁く梢さんの目はいつも優しかった。

 夜の住宅街を照らす街灯の明かりは、梢さんの柔らかな表情を、たしかに鮮やかに映し出してくれていた。



 ミサでの私の受けが良いと、梢さんは焼肉のあとに、ケーキをご馳走してくれることもあった。

 それで私は張り切って、ミサの時の問答を頑張るようになった。

 とはいえ、これに私はたいした苦労を必要としなかった。私は梢さんとの長い付き合いから、どのように振る舞えば、教会にいる周りの大人が喜ぶかを完璧に学んでいたから。


 だから私にとって、教会でのやりとりはゲームのようなものだった。

 点数の代わりに、大人たちから「祝福のシャワー」と呼ばれる賛辞の濁流を受け止める、それだけのことにすぎない。

 もっとも、そのゲームを楽しめたのも梢さんあってのことだ。やることをやれば、ちゃんと彼女は私を焼肉の後に、美味しいケーキを食べさせてくれる。

 その報酬は毎回、確実に私に払われていた。

 


 さらに私は、このように梢さんに「おねだり」をすることすらあった。


「梢さん。私、行きたいカフェがあるんです」

「えっ、どこ? 近くなら構わないよ」

「カフェモロゾフ。洋菓子屋のモロゾフの、直営カフェ」

「でもモロゾフって神戸のお店じゃなかったっけ?」

「うん。でも最近、関東にもできたらしくて」


 そういうわけで、私たちは東京にできたばかりのカフェモロゾフに行くことになった。たどり着いた店舗は、神戸の老舗洋菓子屋直営らしく落ち着いた雰囲気で、店のあちこちにさりげなく設置された間接照明がなんともハイソであった。


 私はメニューを手にするやお目当てのスイーツを探す。

 モロゾフ名物のカスタードプリンが食べたかった。しかし、フルーツてんこ盛りのパフェも捨てがたい。


 迷った挙句、私は「カスタードプリンパフェ」をチョイスする旨を梢さんに告げる。そして伝言ゲームのように、梢さんがウェイトレスにそれを伝えるのを、にこにこと見守る。


 ウェイトレスも、他の店では見られないような、丁寧で上品な所作と佇まいだった。梢さんのボサボサにもつれた長い髪と、崩れかけた化粧とは対照的だと私は思ったが、もちろんそれを口に出すことはなく、やってきたパフェを口に運ぶ。


「美味しい!」

「よかった、来た甲斐があったわ」

「梢さんも、パフェ食べればいいのに」

「いいのいいの、私はコーヒーだけで。甘いものあまり好きじゃないの」


 梢さんはそうコーヒーカップを片手にややぎこちなく笑った。だから、私も微笑み返す。

 でも私は知っている。梢さんはカフェモロゾフのような洒落たお高い店でなければ、私と一緒にケーキを食べたかったであろうことを。


 帰り道、梢さんが「ちょっと待っていて」と言い残して、街角のATMへと駆け込んでいく背中を、私は黙って見送った。


 とくに思うことはない。


 思うことがあったとしたら、その日食べたカスタードプリンのあまく、冷たく柔らかい、つるんとした舌触りのことだった。私は梢さんを待つ間そのことを思い出して、雑踏のなかで、暫し恍惚とさえしていた。



 そして、私が高校二年生の夏のことだ。

 教会からの帰り道、私たちの頭上を大きく花火が弾けた。それで私たちは、ちょっと寄り道して、花火大会を見て帰ろうと言うことになった。


 蒸し暑い夜だった。花火大会会場のそばには、百円ショップがあったので私と梢さんはそこで飲み物を調達することになった。

 梢さんがレジに並んでいる間、私は店内をうろうろとする。そして見つけた品をふたつ手に取り、会計中だった梢さんの買い物かごに突っ込む。


 店から出て、私は颯爽とそれを手に取り、びりびりと袋を破り中身を出す。


「このカチューシャ、光るんです」


 そしてもうひとつのカチューシャも、ぽきり、と折って発光させ、梢さんの手に押しつける。


「梢さんも着けましょうよ。せっかくですから」


 そのとき、梢さんは眉を顰めた。

 梢さんは僅かながら嫌そうな顔をしたのだ。


 それは梢さんのささやかな抵抗であったのかもしれない。梢さんはもう知っていたと思う。私は教会に大人しくついてくるだけの、信心などこれっぽちも持ち得ない、愚かな子どもであるということを。

 私が梢さんとともに行動する全ての理由は、信仰心などとはまったく別のところにあると。


 そのことを示すように、険しい表情のまま、梢さんはちいさな声で私にこう言った。


「香織ちゃん。私はイヤ」


 だけど私は畳み掛けるように声を放る。できるだけ楽しげな、無邪気な声音で。そうすれば梢さんが断れないことを私は知っていたから。


「そんなこと言わないで。せっかくのお祭りなんだもん」


 そうして私は無理矢理、下世話に輝くカチューシャを梢さんの頭に着ける。

 相変わらずボサボサの白髪交じりの髪に、蛍光オレンジのカチューシャは映えるわけもなく、梢さんはまるで、魔法少女になり損ねた中年女のように見えた。


 私はそのことに、すこし、心が痛む。


 その気持ちを隠すように私は自分のカチューシャを弄りながら、梢さんにこう声を掛ける。


「ほら、梢さんと私、おそろい」


 すると、梢さんは弱々しく微笑んだ。そして、視線を夜空に投げる。花火大会はいままさに最高潮を迎えており、闇のなか、連続して色とりどりの光の花が咲いては散っていた。


「きれい」

「きれいだね」


 どちらからともかく呟いた言葉も、交差する光と闇の狭間にいつしか消えてゆく。


 その花火大会の日が、梢さんと外出した最後だった。

 梢さんを見た最後でもあった。



 数日後、私の元に警察がやって来た。

 聞けば、梢さんが職場の金を横領した罪で、逮捕されたのだという。献金のノルマをこなせなかった末のことです、と刑事は私に述べた。


 せっかく来てくれたのだからと、私は包み隠さず梢さんとの日々を教えてあげた。刑事は呆れていたけど、まったくもって当然のことながら、私が罪に問われることはなにも、なかった。



 ――神は「光あれ」と言われた。すると光があった。*

 

 梢さんのいつもの言葉が、旧約聖書の「創世記」の冒頭の一節に由来すると知ったのは、大学生になって受けた一般教養の宗教学の授業でのことだった。


 ――神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。*

 ――神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。*


 私は思わず失笑してしまった。

 インチキ新興宗教の伝道者だったというのに、私に掛けていた言葉の源流がよりによって旧約聖書の一節だったなんて。これが笑わずにいられるだろうか。


 とはいえ、思い返せば、私と梢さんの時間はいろんな光に彩られていた。


 カルビを焼く七輪の炎。

 住宅街への夜道を照らす電灯の光。

 カフェモロゾフの間接照明の灯り。

 蛍光オレンジに発光するカチューシャ。

 夜空を飾る大輪の花火。


 今、私に降り注ぐ光は、キャバレーの天井の安っぽいシャンデリア。

 酒を作りながら私は思う。あのうさんくさい輝きもまた、誰かの光なのだろうかと。


 梢さん、あなたの暮らしは光に満ちていますか?


 たとえ雑居房の窓の隙間から漏れる陽が、今のあなたの光でしかなかったとしても、それは眩しく梢さんの日々を照らすものだと私は信じます。

 それに、私は私で、あなたが祈ってくれた光とは別の煌めきのもと、今日も生きているのです。


 私はたしかに、あなたの願い通りに、光とともに生きているのです。

 

 ねえ。満足でしょう、梢さん。

 だから、今度は私が祈る番です。

 

 ――梢さん。あなたの人生に、光あれ。




 ※*=『旧約聖書』より引用

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