目連尊者

祐里

夜行

「今年は……」

『大丈夫だよ』

「帰れんのけ」

『光雄、来るだろ?』

「ええと、八月……十一日? 日曜け?」

『そりゃまあ、そのあたりが一番いいだろ』

「ん、わかった。黒い服用意しとけ」

『黒い服かぁ』

「んや、ま、そんな気にしなくていいけども、一応な」

『俺は気にしないしな』

「きゅうり、用意しとくから」

『はは、お袋の漬物は美味いから』

「んあ? 今はそうでもねえよ、あの子が……」

『んなこと言うなよ』

「ああ。心配すんなて」

『そんなこと言っても、もう年だしなぁ。本当は肩でも揉んでやりたいところだが』

「いいて、気にすんな。じゃ、な」

 そう言うと、母親は固定電話の受話器を置いた。


 尊雄たかおは実家のある町へ行く夜行バスの中、左側一番前の席で眠っていたのだが、消灯中に目を覚ましてしまった。

 もともと浅い眠りだったため、眠気はすぐにどこかへ行ってしまった。暗闇に慣れた目に映る、運転席を隔離させるためのカーテンは少し開いている。床には制帽が転がっている。そして運転手が、制帽の角張った部分を頭で潰すように倒れている。

「……おい、何を……」

 尊雄は小さな声を出したつもりだったが、ほとんど音にならず、車内の闇に漏れた息として溶けていく。バスは問題なくスムーズに高速道路を走行している。運転手が倒れているにもかかわらず。

 何かがおかしい、何かが――そう意識的に考えた瞬間から尊雄の心臓は鼓動を速め、全身の筋肉が緊張する。心臓の音が大きく、ドクン、ドクン、と頭蓋骨に響く。尊雄はシートベルトを外して席を立ち、運転席の方に恐る恐る足を踏み出した。一歩、また一歩と近付いていくと、同じ顔の運転手が同じように手袋をつけ、ハンドルを持っている。

 ふと尊雄の耳に、歌う声が細く届く。運転席に座っている人物がご機嫌で鼻歌を歌っているのだ。追い越し車線の車が途切れ、本人の満足げな声は尊雄の耳を不快な音として襲い始める。

 はっと何かに気付いた尊雄は、ここでアクションを起こしてはいけないと考え、そろそろと物音を立てないよう戻り、席に着く。それから、祈る。どうか無事に目的の地へ到着しますようにと、必死に、懸命に。

――俺は……そうだ、あの時、痛みもなく――

 バスは何事もなく尊雄の目指した目的地へ到着した。人が多く集まっただだっ広い広場はまだ慣れない場所だが、盆の時期だからか明るい賑やかさがあり、心の底から安堵する。これで母親も安心するだろうと、尊雄は薄く笑みを浮かべた。

「でも心残りはあるな。最後に女性と話したのいつだっけ……三ヶ月前の、保険の契約で生命保険会社のおばちゃんと、だったか。うわ、俺、本当にモテなかったな……孫の顔は光雄に託すしかねえわ……」


「今年は……」

『……今年は、帰らないとね。もう一年経つんだな……』

「帰れんのけ」

『うん、大丈夫、帰るよ』

「ええと、八月……十一日? 日曜け?」

『そうそう、その日。昼過ぎになるかな』

「ん、わかった。黒い服用意しとけ」

『黒い服って……あ、尊雄兄さんの初盆だから法要するって言ってたね』

「んや、ま、そんな気にしなくていいけども、一応な」

『わかった、持って行くよ』

「きゅうり用意しとくから」

『精霊馬か……。そうだ、法要にかかった金額いくらだった? 僕が持つよ、母さん大変だろ』

「んあ? 今はそうでもねえよ、あの子が……」

『あっ、そうか。保険金の支払い、母さんになってたんだよね』

「ああ。心配すんなて」

『んじゃ母さんの好きなお菓子でも買っていくよ』

「いいて、気にすんな。じゃ、な」

 そう言うと、母親は固定電話の受話器を置いた。

「俺はきゅうりがなくても来られるから、漬物にでもしとけばいいのに」

 尊雄の言葉は、誰にも届かなかった。

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目連尊者 祐里 @yukie_miumiu

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