うるむ夏

ぱのすけ

うるむ夏

 こぬか雨に紫陽花の青さが匂い立つ。

 昼過ぎから降り始めた雨は夕刻を過ぎても止みそうにない。

 降る音さえもない小雨が、踏切を待つ優花の傘を柔らかく滑っていった。


 カンカンと単調に鳴る踏切の警報音を切り裂いて電車が通り過ぎて行く。

 

 巻き起こる風に煽られて宙に舞い上がりかけた傘の縁から、咲き誇る紫陽花の茂みがちらりと覗いた。

 その根元に寄り添って立つのは痩せ細った一対の足。土と埃に塗れた足は全くの赤裸足だ。


 所々、爪のはがれた足を眺めて優花は思う。

 あぁ、今年も出るんだな、と。


 優花が “それ” を初めて見かけたのは1年前。今日と同じように梅雨時の陰鬱な雨の日だった。


 朗らかに笑い合った友人達と別れて1人行く帰り道。自宅近くの小さな踏切脇でそれはひっそりと佇んでいた。


 色褪せて黄ばんだ白いワンピース。

 骨の形がくっきりと浮かび上がった首は悄然と垂れている。恐らくは女性なのであろうが、うつむいた顔はぼさぼさに伸びた髪に隠れて全く見えない。


 降る雨に傘もささずに立ち尽くす様は明らかに異質で、しっとりと湿る周囲の風景から完全に浮いていた。

 優花はしばらく足を止めて女を眺めてから、恐々と反対側の端に立った。

 

 早く渡ってしまいたいが、折悪しく遮断機は降りている。いつもは、ぼぅっと聞き流している警報音が今日ばかりは不吉な余韻で辺りに響き渡っていた。


 ……人間、だよね?

 傘の影から反対側の女を窺う。

 女は両腕をだらりと重そうに垂らしたまま微動だにしない。風体は不気味であるが有り得ない様子ではない。

 常識的に考えれば、精神的に不安定な人がふらふらと彷徨っている。そんな所だろう。


 でも何かがおかしい。

 優花の直感が囁く。

 息を潜めて女を窺う優花の後ろを車が一台通過して行った。夕闇漂い始めた薄暮をヘッドライトが明るく照らして行く。その一条の光は女も鮮やかに照らし出して去って行った。


 ……あれ?

 

 優花は違和感を感じて首を捻った。

 警報音が掻き消えて、遮断機が上がる。

 優花はそそくさと早足で踏切を渡って行った。あんな不気味な人間からは一刻も早く離れたい。


 渡りきった背後で再びかぁん、かぁんと警報音が鳴り始める。帰宅ラッシュを迎えたこの時間はひっきりなしに電車が通過する。


 女は渡って来ていない。

 そのことに安堵しながら踏切前の坂を上り始めた時、不意に先程感じた違和感が強烈に甦って来た。


 ヘッドライトが女に当たり、紫陽花の茂みの影が地面に落ちる。

 ……あの人の影は? 影はどこかに写っていた?

 ぞくっと悪寒が全身を駆け巡る。


 思わず振り返った先で女は相変わらずそこに佇んでいた。

 二重に降りた遮断機の向こう。紫陽花の茂みの脇に立つ女を点灯し始めた街灯がちかちかと照らす。

 その足元に影はなかった。

 

 紫陽花脇の女はその日以来、いつ通ってもうなだれてそこに立っていた。

 紫陽花の花が終わり、向日葵が線路脇で揺れ始めても。暑さと生気にむせかえる夏にあっても女は、色のない空虚さをまとって立ち尽くしていた。

 盛りを過ぎた向日葵がびっしりとついた種の重みに負けて下を向き始めた頃。女はいつの間にか消え失せていた。


 そして今年も女は現れた。紫陽花にそぼ降る雨の中にひっそりと。

 一体何の未練があってそこに立っているのか。その因果はよく分からない。

 分からないが、ただ立っているだけの女はいつしか優花の中では景色の一部と成り果てていた。少し風変わりな巡る季節の一部だ。


 優花は傘をさしたまま、片手で器用にスマホをいじりながら遮断機が開くのを待つ。画面をせわしなくスワイプして画像を眺めている間にもう一両電車が駆け抜けて行った。


 寄せる突風に今度も傘が煽られて、飛沫がぱらぱらと顔に当たる。

 優花は顔を顰めてスマホを持っている方の手の甲で飛沫を拭った。軽く頭を振って張り付く髪を払う。その拍子にふと視線が反対の端に流れた。


 女の足の向きが変わっていた。

 紫を含んだ青い紫陽花は相変わらず雨にうるんでいる。しかし、その脇に佇む女の爪先は優花の方に向いていた。


 どうして? なんで? 

 反射的に女を見る。女もまた優花を見ていた。垢で固まった蓬髪の間から覗く濁った目が優花とかち合う。


 目を合わせちゃいけない!!

 本能的な恐怖を感じて慌てて優花は前を見た。

 傘を持つ手が震える。右側から痛いくらいの視線を感じる。

 遮断機はまだ上がらない。


 心の焦りが優花の足を小刻みに揺らす。

 かちかちと鳴る歯をぐっと噛み締める優花の前を乗客を満載にした電車が通過して行った。日常の溢れた平和な車内を恨めしく見上げる。


 早く、早く、早く開いて! 


 ぷつん、と警報音が消えて遮断機が上がる。

 優花は遮断機が上がりきることさえ待てずに、ダッと線路に飛び出した。レールに足を取られてよろめきながらも一心不乱に駆け抜ける。

 

 もう少しで渡りきる。

 ほっと気が緩んだ瞬間、ぐいと優花の腕に骨ばった感触が食い込んだ。

 

 え?!と驚いて振り返る。

 女のざんばら髪がすぐ間近に迫っていた。青黒くなった手が優花の腕を掴んでいる。氷とは違った異質な冷たさに全身が総毛立つ。


「え? ちょっと……!」


 慌てて女の手を振り払おうとするも女の力は凄まじく、その場から動くことができない。

 カン、カン、カン。

 無慈悲に警報音が鳴り響き、遮断機が順番に降りて行く。


「やめて、放して! なんで! ずっと立っているだけだったのに!!」

 

 傘で女を滅多打ちにするも、女は微動だにしない。それどころかますます優花の腕を掴んだ指に力をこめてくる。


 ぷぁぁん!と電車の警笛が響いた。

 ヘッドライトがもがく優花を鮮やかに照らし出す。


「いやだぁぁ!!」

 渾身の叫びと共に傘を打ちこむ。優花の手から傘がすっぽ抜けて宙高く舞って行った。薄青い生地に小花の散った傘が風に乗りふわりと雨空に上がる。

 その時、一瞬だけ女の力が緩んだ。


 優花は素早く腕を引きはがすと、くるりと体の向きを変えて両手で女の胸をついた。女の体が離れる。優花は慌てて後ずさった。

 突き飛ばされた女の体が向こう側へと飛んで行く。乱れた髪が風に乗って女の顔が露わになった。


 女は笑っていた。

 にたり、と悪意に歪んだ狂気の笑みが尾を引いて、ブレーキ音を上げながら通過する電車の向こうへと消えていく。


 警報音が再び、ぱたりと止んだ。

 踏切の反対側には誰もいない。さぁぁと煙る雨に紫陽花がぽつりと濡れている。

 風に乗って飛んで行った優花の傘が、ころころと無邪気な様子でレールのすぐ脇に転がっていた。

 

 少し離れた場所から誰かが走って来る気配がする。


「おーい!」

「大丈夫か!!」と声が聞こえる。

 不意にがくがくと足が震えて、優花はその場にへたり込んでしまった。

 

「よ、よかった……」

 

 呟きが洩れた途端に生還した実感が湧き上がって来て、優花は大きく息を吐いた。

 へたり込んだ地面が濡れているのも、スカートがそぼ降る雨に湿って行くのも気にならない。ただ無事だったという喜びだけが優花の心を大きく満たして行く。


「よかった……!」


 未だ震える両手を地面について立ち上がろうとする。  

 その肩にトン、と後ろから手が乗った。首筋に毛先が当たるこそばゆさが走る。

 鼻先を生臭い腐臭がかすめ、耳元でふうわりと空気が揺れた。



「ねぇ」

                 (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うるむ夏 ぱのすけ @panosuke

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説