第3話

 巨漢はピッケルをくるりと一回転させた。透を見つけて椅子を蹴散らして追いかけてくる。

「うわあああっ」

 透は体当たりするように開きかけた自動ドアの隙間を抜けて、もと来た道を走り出す。背後で喧噪が大きくなった。自動ドアが開いて、巨漢が追いかけてくる。息をするのも忘れて全力で走った。


 もしかしたら、助けてくれようとしているのかもしれない。そんな期待は皆無だった。あの巨漢は獲物を見つけて嬉々として追う狩人だ。竜弥の姿が奴と重なり、身震いする。

 竜弥に捕まったらどつき回されるか、川に突き落とされるか、思えば可愛いものだ。巨漢に捕まれば、あのピッケルを脳天に突き立てられる、恐怖に全身の血が凍り付く。


 ああ、どうしてこんな場所に迷い込んだのだろう。どうして人の姿が無いのか、あの巨漢は一体何者なのか。どうして自分がこんな恐ろしい目に遭わなければならないのか。答えのない問いが酸素の欠乏した脳内をぐるぐると駆け巡る。

 透は白い軽トラの影に隠れ、やり過ごす。獲物を見失った巨漢はピッケルを構えて周辺を彷徨いている。ガスマスクから不気味な呼吸音が漏れ、透は必死に息を止める。やがて諦めたのか、巨漢は軽トラを通り過ぎ、闇夜に消えた。


 透は古民家の縁側から和室へ逃げ込み、障子を閉めた。和室はまだ新しい畳の匂いがした。柱時計が鳴り、腰を抜かしそうになる。時間は夜八時だ。家に帰らないと怒られる、逃げ出したかったはずの日常を思い出して泣きたくなる。


 薄い板張りの床が軋む音がした。透は心臓が跳ねる音を聞いた。

「おい、静かに」

 声を潜めて手招きをするその顔を見て、透は目を見開く。

「竜弥、どうしてここに」

「わからねえ、気が付いたら古い駅舎にいた。ピッケルを持った大男に追い回されてここに隠れた」

 竜弥はトンネルを抜けて自分を追ってきたのだろうか、見上げた執念だ。しかし、そのせいでこんな目に遭っている。それはいい気味だと思ったし、心強くもあった。


「あいつは何なんだ」

「知らねえよ。親父は鉱山で働いてたけど、あんな格好だった。あれは鉱夫だ」

 鬼成鉱山は何年も前に閉山している。それなのに、鉱夫の格好をしているのも、ガスマスクを被ったまま山里を彷徨いているのも不気味だ。

 障子に影が映った。先端のするどいピッケルを手にして庭先を行き来している。竜弥は唇に指を当て、声を出すなと合図する。

 しばらくして諦めたのか、巨漢の影は遠ざかっていった。月の光が障子越しに差し込む蒼い部屋で透と竜弥は膝を抱えている。


「ぼくを突き出すのかと思った」

「そんなことしたら見つかって一緒に殺されるだろう」

 竜弥は醒めた笑いを浮かべる。殺される、という言葉に心臓がぎゅっと握りつぶされるような気がした。

「こんなところにきて、巻き込まれて馬鹿じゃないの」

 普段は恐ろしい竜弥に透は軽口を叩く。この状況だ、巨漢よりも怖いものはない。


「俺だって好きで来たんじゃねえ」

 竜弥は忌々しげに頭を掻きむしる。手に生暖かいものが触れた。恐る恐る手の平を見ると、真っ黒に染まっている。血だ。

「なんだよ、これ」

 竜弥は血塗れの手を見つめて震えている。

「奴にやられたの」

 透は竜弥の後頭部を確認する。暗くて見えないが、皮膚が裂けているようだ。

「そんなわけない。でかいけど鈍い奴だ。振り切って逃げたよ」

 竜弥は傷に心当たりがないようだ。透は箪笥から風呂敷を見つけて竜弥の頭に巻いてやった。


「ありがとな」

「うん」

 二人はまた膝を抱えて黙り込む。夜が明ければこの恐怖は去るのだろうか。お化けトンネルを抜ければ、御子神村に戻れるのだろうか。


 透はトンネルの出口を選んだ。それは入り口へ戻り、家に帰りたくなかったからだ。嫌味ばかりの祖母、文句ばかりの母、幻の蝶を追って消えた父親。村を歩けば悪ガキ共に追いかけられる。唯一の心の安らぎだった秘密の隠れ家も暴かれ、逃げ場を失った。どこか違う世界へ行きたいと願った。それがこんなことになるなんて。透は涙ぐむ。


「泣くなよ、弱虫。俺だって怖い」

「竜弥も怖いことなんてあるのか」

 この張り詰めた恐怖を竜弥と分かち合っていることに透はほんの少しだけ安堵した。

 かさり、と音がして瞬時に呼吸を止めた。障子のさんに白い蝶がとまり、羽を休めている。

「脅かすなよ」

 二人同時に息を吐き出した。


「なあ、覚えてるか。夏休みの初日にでっかいクワガタを捕まえたの」

 竜弥が躊躇いがちに話し始める。昔から竜弥はいじめっ子ではなかった。かつては一緒に登校し、下校の途中に寄り道をして森でカブトムシを探したし、夜はこっそり家を抜け出して清流に蛍を見に行った。

「ぼくも覚えてる」

 そう、思い出した。竜弥は面倒見のよい奴で、年下の子供たちも引き連れて一緒に遊んでやっていた。大人たちからも一目置かれる存在だった。


「どうしてぼくのこと、いじめるようになったの」

 透は竜弥の顔を覗き込む。竜弥はふわりと飛び立つ白い蝶を目で追う。

「昆虫標本だよ」

 透は眉を顰める。

「先生が理科室の昆虫標本を紹介したことあっただろ。あれはお前の親父の寄贈だって。お前の誇らしげな顔を見て悔しくて。なんでうちはあんなクソ親父なんだって」

 竜弥は傷が痛むのか顔を歪める。


「俺の親父、鉱山が閉山して仕事を失ってから酒浸りになったんだ。母ちゃんは逃げ出して、じいちゃんが畑をしながら俺の面倒を見てくれた」

 生きる気力を失い、募る鬱憤をぶつける先は竜弥しかなかった。ろくでなしの親父に毎晩殴られて竜弥は生傷が絶えなかった。竜弥はやんちゃ坊主だからよく怪我をしている、教師の認識はそんなものだった。


「お前の親父はさ、学者で頭がいいんだろう。蝶を探しに外国に行くなんて。俺は羨ましかったんだ」

 違う。透は知っていた。海外からやってきた若く美しい「蝶」に魅了され、金を持って逃げ出したのだ。透の父も実のところ、ろくでなしだった。

「母さんはもう帰ってこなくって良いんだって言ってる」

「そうか、お互いひでぇ親父を持ったな。苦しんでたのは俺だけじゃなかったんだな」

 竜弥は自嘲する。

「あのさ、透」

「なんだよ」

 不意に、障子に巨大な人影が浮かび上がる。透と竜弥ははっと口を噤んだ。影はだんだん濃くなり、振り上げたピッケルが障子を切り裂いた。

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