第2話

 透は暗闇の中を必死で走った。まるで目玉に直接べったり墨を塗られたような闇だ。トンネル内はもう六月だというのにいやに肌寒い。


 透ははたと気がついた。おばけトンネルに出口はあるのだろうか。この先どれだけ進んでも、出口が封鎖されていたら。今は悪ガキ共から逃げるのに必死だが、もし引き返すとなると、恐怖で足が竦んで動けないかもしれない。


 透は思い切って後ろを振り返った。悪ガキたちは追いかけては来ないようだ。ドアは閉められてしまったのだろうか、ぼんやり漏れていた光が今はない。行くも戻るも深い暗闇だ。透は泣き出したくなった。


「ひゃっ」

 天井から水滴が垂れて、喉がひっくり返ったような声が出た。いつまで経っても暗闇に目が慣れないのが不思議だった。

 透はゆっくりと横移動する。足に固いものが引っかかった。廃線のレールだ。慎重に跨いで恐る恐る手を伸ばす。冷たい煉瓦の壁に指先が触れ、慌てて引っ込める。しっとりと湿り気を帯びた煉瓦にもう一度触れる。


 壁があるなら方向を見失うこともない。入り口へ戻るか、出口へ進むか。透は逡巡する。どちらも真っ暗闇だ。

 ふと、腰に手を当てた威張り顔の竜弥が脳裏を過ぎる。透は出口を目指すことにした。

 おばけトンネルは大きくカーブを描く。このまま歩き続けると山を一周してしまうのではないか、そう思ったとき、目の前に光が見えた。透は逸る心を抑え、早足に歩き始める。

 光はだんだん面積を増し、やがてトンネルの出口が現われた。

「出口だ」

 目が眩むほどの光に、思わず瞼を閉じた。錆びたレールが出口へ向かって伸びている。透はレールの真ん中を出口に向かって走った。


 トンネルの外は見覚えの無い風景が広がっていた。透は呆然と立ち尽くす。

 山際に連なる水を張った段々畑が夕陽を受けて金色に輝いている。くねくねと曲がりくねったあぜ道にそって古い民家が並ぶ。

 廃線に沿って歩くと古い駅舎があった。歪んで斜めになった木の看板にはさいはて駅と書いてある。御子神駅から一駅歩いてきたのだ。廃線はさらに山の上伸びて鬼成炭鉱へ続いているのだろう。透はレールから逸れてあぜ道を進む。西日が山の稜線を明瞭に描く。足元の影が闇に溶けて薄まる気がした。


 田んぼの向こうに人影が見えた。背格好からして大人のようだ。透はほっとしてあぜ道を駆け降りて行く。水を張った田んぼから蛙の鳴き声が聞こえてきた。

「なんだ、かかしか」

 大人だと思った人影は首を傾けて田んぼを見張るかかしだった。なんだか違和感がある。この村には人の気配がなさすぎる。


 田んぼの脇に白い軽トラが停車していた。開けっぱなしの窓から中を覗いてみると、バックミラーに派手な赤色の房がついたお守りがぶら下がっている。助手席には古い新聞紙が置いてあった。新聞紙の一面には鬼成鉱山閉山の記事が出ていた。

 鬼成鉱山の閉山はもうずいぶん昔のことだ。今もこんな記事の新聞を大切に持っているのは、鉱山によほど愛着があるのだろうか。

 山の端に夕陽が溶けてゆく。山間の村はたちどころに薄闇に支配されてゆく。気がつけば先程までうるさいと思っていた蛙の合唱も聞こえなくなった。透は石段を登った先にある茅葺の古民家に助けを求める。


「ごめんください、誰かいませんか」

 玄関の戸を開けて控えめに声をかけるが、返事はない。もう一度大声で叫ぶ。やはり返事はなかった。

 ちょうど夕飯時のはずなのに、人の気配もなく明かりもついていない。鳥の羽音が聞こえた。軒下に吊るされた鳥籠の中で黄色い鳥が鳴いている。透はそら恐ろしくなり、人を探して坂道を駆け降りてゆく。


 陽があるうちは気付かなかったが、あぜ道に沿って小さな石の祠が続いている。祠に灯る蝋燭の火で街灯もないあぜ道がほんのり照らされ、かろうじて足元が見えた。祠が無ければ、田んぼに足を突っ込んでいたかもしれない。

 一体誰がこの蝋燭に火を灯したのだろう。人の気配の無い山里なのに。おばけトンネルの方がまだ怖くなかったかもしれない。


 トンネルを通って引き返そうか、そう思い始めたとき。遠く喧噪が聞こえてきた。闇の中に煌々としたネオンが見える。あれはパチンコ屋だろうか。パチンコ屋に行けば、きっと大人に会える。透はネオンに誘われるようにゆるやかな坂道を下っていく。


 パチンコ屋の自動ドアが開くと、軍艦マーチと大当たりのアナウンスが大音量により鼓膜が痙攣し、透はたまらず耳を塞いだ。

 大当たりを引いた人がいるはずだ。しかし、あては外れて椅子は全部からっぽだった。通路の間を確認して歩いた。台の中でパチンコ玉が回り続けているだけで、人の気配はない。気味が悪いが、明かりが無いよりはましだ。ここで夜を明かそうか、そう観念したとき。


 パチンコ台の向こうに人影が見えた。

「あのう、すみません。誰かいますか」

 透はアナウンスに負けないよう、大声で叫んだ。通路を行きすぎようとした人影がピタリと足を止めた。ぞわり、と背中に鳥肌が立つ。呼び止めてはいけないものを呼び止めてしまった、そんな気がした。

 影がゆらりと動いた。通路の先に巨漢が現われた。割れたランプをつけたヘルメットを被り、古ぼけたガスマスク、煤塗れの灰色の作業着姿で手には錆び付いたピッケルを持っている。図書館の写真で見たことがある。あれは炭鉱で働く鉱夫だ。

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