さいはて駅
神崎あきら
第1話
かつて、
町営の銭湯は夕方から仕事あがりの鉱山労働者で溢れかえる。彼らの身体にへばりついた煤や泥で湯船はすぐに真っ黒になった。映画館に飲み屋、パチンコホールは二件あった。
海外からの輸入品が安く入ってくるようになり、鉱山の経営は厳しくなった。まだ採掘可能な鉱脈はあったが、閉山を余儀なくされた。
鉱山で働いていた男たちは仕事を失い、御子神村を出て行った。大部分が村の生まれではなく、よそ者だったからだ。誰も行かなくなった映画館やパチンコホールはひっそりと閉店し、飲み屋は閑古鳥が鳴いた。
深い山に囲まれた御子神村はあっという間に限界集落となった。山の斜面に作られた狭い田畑で行う稲作くらいしか産業と呼べるものはない。わずかに残る若者は山向こうの町へ働きに出た。
ある日、東南アジアに幻の蝶を見つけに行く、と言って家を出たまま戻らなかった。あれは五年前のことだったか、もう覚えていない。
家には足の悪い祖母と村の役所で事務仕事をする母が残された。町の施設に入れようとしても、生まれ育った御子神村を出たくないと言い張る祖母の面倒を見るのは母しかいなかった。女手ひとつで頑固な祖母の面倒を見るのは大変なことだった。
母は口さがない村の人たちから旦那に逃げられた、と噂された。透は小学校の悪ガキたちから父なし子と揶揄され、いじめの標的となった。
全校で二十名も児童がいない小学校だ。同級生の大野
透には居場所がなかった。学校では悪ガキに付け狙われ、家に帰ると介護に疲弊した母の愚痴と八つ当たりの洗礼を浴びる。祖母は内臓が悪いのか、近づけば甘ったるい腐敗臭がした。
透には秘密の隠れ家があった。それは打ち捨てられた鉱山電車の墓場だ。鉱山鉄道はかつて御子神村と鬼成鉱山を結び、鉱夫や採掘物を載せて毎日運行していた。閉山と同時に鉱山鉄道は廃線となった。
もとは鮮やかなオレンジ色や水色で塗られた鉱山電車は錆が浮いてペンキも剥げて見る影もない。山からのびた蔦が絡みつき、貪欲な自然に飲み込まれようとしていた。
破れて中身がはみ出たベンチに座り、鉄の窓枠から空を見上げたり、本を読んだりして過ごした。それが透にとって陰惨な現実を忘れられる時間だった。時に居眠りをして、星空の下で目を覚ましたこともあった。家に戻ると心配した母にこっぴどく叱られた。祖母はそんな母に良いじゃないかと文句を言い、またけんかになった。
「見つけた」
「こんなところにいやがった」
ベンチに寝転んで錆びた天井の穴から暮れなずむ茜空を眺めていた透は、悪ガキの声に反応して飛び起きた。窓から覗く底意地の悪い顔に歪んだ笑みが浮かぶ。
「透を捕まえろ」
命令を下したのは悪ガキの主犯格、竜弥だ。竜弥の命令は絶対だ。手下の悪ガキどもが壊れたドアから身体を潜り込ませ、透を捕えようと追ってくる。
透は車両先頭のドアから飛び出した。列車の外で待ち受けていた竜弥が行く手を遮る。
「どこへ行くんだ、一緒に遊ぼうぜ」
竜弥の遊びというのは透を川に突き落としたり、雷おやじの家の盆栽を壊して透を置き去りにしたりすることだ。透はあと先考えずに森へ向かって逃げ出した。
森には廃線となり撤去されぬまま野ざらしになっている古い線路が伸びていた。透は錆び付いた線路の上を力一杯駆ける。
御子神駅の駅舎を通り過ぎる頃には、悪ガキの叫び声がすぐ背後に迫っていた。雑草や木の根が絡みつく線路につまずきながら、透は振り返りもせずに走った。
「鬼ごっこだ」
「捕まえたら拷問だ」
竹林が聳え立つ線路の真ん中に生えた図々しい竹の隙間をかいくぐり、崩れかけた眼鏡橋を飛び越えて、煉瓦造りの古いトンネルの前にやってきた。
「行き止まりだぞ、どうするんだ」
竜弥は透と距離を詰めながら残酷な笑みを浮かべる。トンネルは崩落の危険があるため、観音開きの鉄扉で封鎖されていた。人家のある場所から遠く鬱蒼とした森の暗さもあり、不気味な雰囲気が漂っている。肝試しにやってくる子供たちからおばけトンネルと呼ばれていた。
トンネルを背にして透は為す術もなかった。ふと、冷たい風が足元を吹き抜けた。振り向くと、鉄扉についたドアが半開きになっている。おばけトンネルか、悪ガキの拷問か。決断に三秒も要しなかった。
透はドアを開け、トンネルに飛び込んだ。
「トンネルに逃げた」
「追いかけろ」
悪ガキどもは騒然とする。おばけトンネルに入るのは誰だって怖い。竜弥の命令でも従うものはいなかった。
「じゃあ、待ち伏せだ」
竜弥は透が恐怖に駆られてトンネルから飛び出してくるのを悪態をつきながら待つ。陽が西へ傾いてゆく。森は更に濃い影を落とし、透が消えたトンネルは闇の中で異様な存在感を増してゆく。
「お前、見て来い」
「い、いやだよ」
いつも竜弥の言いつけに背かない浩太もさすがに尻込みしている。
「つまんねえ」
竜弥は廃線を村の方へと戻り始める。悪ガキどももほっとして顔を見合わせた。透が消えたトンネルを振り返る者はいなかった。
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