恩師に尋ねて

琴吹風遠-ことぶきかざね

菅生直と先生

「お久しぶりです。先生」


 それは夏の日差しばかりが開けた窓から入って来る、虫も鳴かない静かな七月の終わりのある日の昼下がりのことだった。

 中学校教諭を務める私のもとに、私のことを恩師と慕う若い女性が突然に中学校の門を叩いてきたのだった。

 夏の暑い日だというのに、すらりとした黒いスーツに身を包んだ彼女が校門の前にいたのを、花壇に水をあげていた用務員の先生が見つけたのだ。そのときに、私の名前を出したことで、この中学校の卒業生だと思い、そのまま私の案内で職員玄関から、校舎に招き入れたのだった。


「まあ、座りなさい」

「ありがとうございます」


 扇風機の風を切る音だけが響く、誰もいない会議室に彼女を招き入れた。

 ソファーに彼女を座らせて、私はテーブルを隔てて前に座った。


「菅生さんだね」

「はい。お久しぶりです」

「いやいや、そんなにかしこまらなくてもいい」


 彼女は姓を『菅生すごう』、名を『なお』という。

 名前のなおの字の通りの真っ直ぐな姿勢で、ソファーに腰を下ろしている。背も整っていて、足もくるぶしを合わせたままだ。私への挨拶の際、頭の下げ方もかしこまっていた。


 菅生すごう なお


 私のことを恩師と呼んで、炎天下の中でも訪ねて来てくれた彼女。

 だが、あいにく私の心の引き出しから彼女との思い出を見つけることができていなかった。


 思い入れのある生徒はたくさんいる。かれこれ私の教師人生も十五年になろうとしている。長いキャリアだといえど、私の手から離れた生徒たちをぽかんと忘れてしまえるほど薄情な男でもないが、菅生の名前を出されても、ぱっと思いつくものもなかったのだ。

 だからといって、知らぬ存ぜぬとは言えない。

 私が薄情だとしても、師の付く職を持つ以上は彼女を退けるわけにはいかない。


「そうだな……もう、十年ぶりになるんじゃないか」

「はい、本当に先生もお元気で」


 せめて何かないかと、この会議室に来るまでの廊下で菅生の顔と名前を照らし合わせてみた。

 そうして出てきた記憶からわかったことは、彼女は今から十年前に私が担任を持っていたクラスの卒業生だということだけだった。


「その……そっちも元気だったか」

「はい、幸いに大きな病にもならずにやっています」

「そうか、それならよい。中学生のときも元気だったよな」

「そうでしたかね。人並だったと思いますが」


 私は少しばかりの期待を込めて、菅生の言葉を頼りに何かを思い出そうと試みる。

 十年前の私が教壇に立って黒板を叩いていた教室の光景と、菅生の固いながらもにこやかな表情を脳内で照らし合わせながら、私は菅生と話をはずませる。


 しかし、私は結局何も思い出せなかった。

 私の前に座っているのは、スーツを着こなしたショートヘアーが似合う普通の成人女性であり、中学生の幼さも残っていない一人の客人だった。


 そこで私を恩師と慕ってくれているとはいえ、もしかしたら菅生と私の間には懐かしむことができる思い出もないのではないなんて結論も出てきた。

 そのときに、ひとつ思いもよらない仮説が頭をよぎった。

 これは彼女にとっての「いとまごい」なのではないか、と。


 井上ひさしの小説に『握手』というものがある。教科書に載る名著であり、ちょうど数か月前に生徒に教えたばかりだった。

 主人公の井上少年のもとに昔世話になった修道士が死に伏す前に「この世のいとまごい」と称して会いに来る話だ。

 もしかしたら菅生もまた大きな病ではないにしろ、何か悪いこと起きるから、その前に私に会いに来たのではないかと手もつかない不安が背中を伝っていった。


 たまらず私は菅生に聞いてみた。

 菅生は笑って違うと答えた。

 私は小恥ずかしくなり、ソファーに静かに直った。


「『握手』ですか。懐かしいですね」

「菅生にとってはもう十年も前か」

「そうですね。でも、あの頃のことは昨日のことのように思い出します」

「やっぱり若いね」

「それでも二十六歳ですよ。もうアラサーですよ、私」

「何を言っているんだ。二十代はまだまだ若者の仲間だよ」


 私は流れる汗をさっと手で払った。

 菅生は顔色変えずに暑そうな素振りもなく、やはり凛としたままだった。


「先生はまだタバコを吸っているんですね」

「え、あぁ、すまない。匂いは気にしているつもりだけれど、まだ臭かったかな」

「いえ、気にしていません。ただ以前に健康診断で肺が悪くなっていると聞いていたので。それに先生はもう四十歳ですから、色々と気を付けておかないと」

「今年で四十三かな。あれから体調には気を付けているおかげで健康診断は上々なんだ」


 菅生は以前と言っているが、これもまた十年前の出来事だ。

 菅生の話は本当で、肺の一部によくない腫瘍ができかかっていると診断されたことがあった。それから腫瘍を取り除き、タバコの本数を減らし、紙から電子に変えて、今は健康の印をもらって過ごしている。


「そういえば、まだ結婚はしていないのか」

「そうですね」

「あぁ、申し訳ない。このご時世、あまりこういった話はよくなかった。忘れてほしい」

「気にしないでください先生」


 何か話題を持ちかけようと、ふと左手に目がいったときに、指輪をしていないことに気が付いた。だからといって、デリカシーもなく聞くのはよくなかった。

 四十歳を超えた私はもう「おじさん」であり、いい歳の女性が独り身であることに、他人ながらも無用な心配をしてしまう悪い癖が身に付いていた。


「それを言うなら先生も」

「……あぁ、そうだな。私はタイミングを逃したんだ」


 私は居心地が悪く左手の薬指を右手の親指と人差し指で隠した。

 かく言う私も、身よりはいない。

 むしろそういった私の無意識な孤独が、菅生への不要な発言に繋がったのかもしれない。


「いいんだ私は。菅生はまだまだ若い。対して私はもう年寄の仲間だから」

「そんなことはありません。先生はとても素晴らしい方ですから」


 素晴らしいと評してくれたが、私は未だに菅生を評することすらできていないのだ。そんな私のことを素晴らしいと讃えられると妙な煩わしさがあった。


「先生、覚えていますか。卒業の前のことです」

「あぁ、何かあったか」

「雪だるま事件です」

「雪だるま………………ああ、覚えている」


 この言葉を聞いて、じわじわと十年前の寒いあの日を思い出してきた。


 あれは受験も終わり卒業式も二日前に迫った、気の抜ける日だった。

 早朝に日直の生徒が職員室にやってきて「教室に雪だるまがある」なんてわけのわからない報告をしてきたのだ。

 私はその日直の生徒とともに、自分の教室を確認すると、報告の通りに教室内に雪だるまがあったのだ。

 それも、教室の角に小さくひっそりと置かれているでもなく、二頭身の子供の大きさのしっかりとした雪だるまが、教室の一番後ろの四席に鎮座していたのだ。


「優しい先生が大きな声で怒っていたのがとても印象的でした。先生はやはり先生なのだと改めて思いましたよ」

「あれは怒らないといけないからね」


 その犯人はすぐに見つかることになる。

 主犯格は『小野寺おのでら』『出村でむら』『今泉かなで』の三名だった。

 この三人に関しては今でも思い出せるほどの問題児で、度々職員室でも話題に上がっていた生徒たちだった。

 彼らは三人全員名前に「で」が付くことから「デデデ」なんてゲームの敵役からとった愛称で呼ばれていたのも印象的だった。


「それと……」

「吉澤です」

「あぁ、そうだそうだ、吉澤だ」


 デデデの三人と吉澤が、事件の日の前日に教室に忍び込み、まだ暖房の効いていない教室に雪だるまを作って放置したのだ。

 この雪だるまを授業の身代わりにして、四人はグラウンドで雪上サッカーを楽しんでいたが、そんなふざけた冗談も通じず、一時間目から四人は数名の教員にしょっぴかれて、担任である私が怒号を浴びせ、濡れた教室の掃除を命じたのだ。


 だが、卒業前のナイーブな時期ということもあり、私も寛大に目をつむった。

 受験した高校側にもこの四人の暴挙を伝えなかった。

 教師として正しくも相応しくない判断をしたのも覚えている。


 それにしても彼らも彼らで律儀なものだった。

 変に悪びれる様子もなく、イタズラをイタズラと認めて、きっちりと罰を受けてくれたのだ。さらに言えば、身代わりを置いているというのに、学校に行かずにさぼるわけでもなく、わざわざ学校のグラウンドを遊び場に選んでいる。

 ようは、彼らはもとから叱られる前提だったのだ。

 そういう意味も込めて、あの事件は変にこじれることなく済んだわけだが。


「彼らは元気なのか」

「わかりません。ただよく噂は聞きます」

「そうだな」


 悪童ほど大器晩成するとはよく言うものだ。

 デデデの一人だった今泉は、東京に本社を置く、一大ベンチャーの代表取締役を任されている。二十代半ばの若社長などと世間では言われる背の高い男になっていた。


「今泉がまさかあれほど有名になるとは驚いているよ。出村は実家の農家を手伝っているみたいだ。ときどき出村の家の畑の前を通ると、腰を下ろして働く姿が見える。小野寺はわからないが、関東の上場企業にいるとは聞いている」

「そうですか」

「菅生はどうなんだ。仕事は順調なのか」

「はい、今は出版業界にいます。金田出版です」

「金田出版、というと」

「はい、先生がお勧めしていた参考書を出しているところです」

「そうかそうか。まさか、出版に興味があったとは」

「いいえ、ただ不景気でアテがなく、たまたま採用された企業がそこだっただけですよ。それでも今の会社には何も不満はありません」

「ならいい」


 ここでまた私は不敬なことをしたと自覚した。

 今、目の前にいる菅生をほったらかして、何かと話題の尽きないデデデの三人の話に持ち込んでしまったのだ。

 そして同時に、彼女のことに関しては私は全くの認知をしていないことにも己の無精さを感じた。

 あの三人は悪い意味でも目立っていた。そのせいもあり、卒業後も度々、何か悪い噂は立っていないかと調べていた頃があった。そのおかげもあって、彼らのことは他の生徒よりかはよく知っていたのだ。

 対して、菅生は出版業界なんてえらい役職に就いているというのに知らなかった。いいや、知ろうとしなかったのだ。これは恩師たるもの、いかがなものか。


「あのときのことはよく覚えています」

「私も覚えているよ」

「日直だったので、大慌てで職員室に駆けこんだので」

「そうだったな」


 すっかり忘れていた。あの日の日直が菅生だったのか。

 言われてみれば、あの日にぜえはあ息絶え絶えに朝の教員同士の話し合いの場に走り込んできていた女子生徒と同じ顔つきをしているようにも見えてきた。


「ただ、それだけじゃないんです」

「どういうことだ」

「あの日のことを今でも少し後悔しているんです」

「後悔。まさか、チクったからとないがしろにされたとかか」

「いいえ、すぐに卒業してしまったのでそんなことはありませんでしたし、三人と吉澤君は何も言ってきませんでした」


 菅生ははじめて姿勢を崩して、少しうつむいた。


「あの日、実は私も雪だるまを作ろうと誘われていたんです」

「そうだったのか」

「本当はデデデの三人が吉澤君と私を誘って、教室の一番後ろの席の五つを雪だるまで埋める計画だったんです。当日の日直が私だから融通が利くのも理由だったかもしれませんが。ですが、私は断ったんです。そして、あろうことか朝一番に告発したんです」

「何を後悔するんだ。菅生は真面目に対応しただけだろう」

「はい。今となっては、その行動を起こしたことに引け目はありません」

「なら、何を後悔しているんだ」


 扇風機の首が菅生のほうを向いた。ぬるい風が菅生の髪をなびかせたが、菅生は気にすることなく、軽くうつむいたまま話を続ける。


「あれが最後のチャンスだったんだと思うんです」

「チャンス?」

「先生は真面目だとおっしゃってくれましたが、私は生まれてこの方、それだけが取り柄でした。ですが私には、委員長や学年イチの成績なんて肩書もなく、ただただ真面目なだけだったんです。そんな私が唯一、今までの自分とは違う道を進むチャンスを見つけたのがあの日、彼らに誘われたときだったと今になって思います。ですが、私は断ったことで結局、真面目な子なんてありきたりなレッテルばかりを掲げて生きるしかなくなったんです」

「……菅生、それは間違っている。お前はまだ若い、まだまだできることはある」

「そうでしょうか。私はそう思いません」

「……」


 菅生はこちらをまっすぐに見て、私の言葉を一蹴した。


「私はもう真面目に生きるしかないのです。ですが、どれだけ真面目でもそれ以上のものが手に入らないままでした。大学も良いところに入り、就職も不景気ながらも順当にいきました。ですが、結局それだけの十年でした」

「……いいことじゃないか」

「いいこと、ですか。先生はやはり素晴らしい方ですね」

「素晴らしいも何も、偉いものには偉いというものだろう」


 社会の渦で実直に生きるだけでも花丸をもらえる。

 それを真面目、不真面目の定規で測るのもお角が違うようにも感じるのだ。

 しかし、真剣な表情で己の十年を語る彼女へ説法を説くための言葉もなかった。


「私は薄情者です」

「薄情と」

「はい。私はここから五百メートル先のアパートに父母と三人で暮らしています。そこから離れたこともなく、高校、大学、仕事もすべてそこから通っていました。なので、いつでもこの場所に立ち寄ることができました。でも、そうしなかったのです」

「それを薄情と呼ぶものではない」

「いいえ、先生はきっと何はどうあれ生徒であった私のことは心配してくださっていたと思います。だから一度でも、一度でもここに来ていれば何かが変わっていたんじゃないかと、今になって後悔しているんです」


 菅生が卒業して、私と会わなくなってから十年が経った。

 彼女の焦燥感を高めるには十分な時間と環境だったのだろう。

 その十年で彼女はここには来なかった。それを彼女は嘆いている。


 私も似た感情を抱いたことはある。だが、それは酒と煙で忘れてしまった。

 菅生は見たところタバコを吸っていない。

 その点で、私と菅生は違う人間だ。私が逃げ道を探している間に、彼女は己の境遇と浅ましさと真面目に見つめ合い続けていたのだろう。


 着ていたスーツのポケットに忍ばせてあった、電子タバコのヴェイプがずんと重たくなったような気がした。


「……」

「……すいません。今のは気にしないでください」

「あ、いや、やはり人生に悩みはつきものだ。そう焦ることじゃない」


 何か気の利いた言葉をかけようとしたが、私は何も言えずに菅生とおなじように小さくうつむいてしまった。そして、ありきたりでどこかで聞いたような言葉しか口から出なかった。


「先生」

「どうしたんだ」

「私、この町を出るんです」

「ほお、それはその、本社に招集がかかったとかか」

「いいえ、関西に会社の新しい部署を作ることになったので、そこに責任者として赴任します。いわゆる支店長です」

「よかったじゃないか」

「そうでもありません。会社の博打の道連れになっただけですよ」

「博打だなんて言うんじゃない。それに金田出版なんて優良企業の新しい事業の一番良い立場になるんだ。悪い話ではないと思うんだが」

「……」


 菅生はスーツのしわをのばして、足を揃えて座り直した。


「先生はご存知かと思いますが、出版業は振るっていないんです。時代は紙ではなく電子ですから。それに、アナログな発想とノウハウで動いている私の会社はその不振に対応ができていないのも現状です」


 紙より電子の時代。それは私の煙事情も同じか。


「最後の博打として、支店を増やすんです。その捨て駒として私が選ばれたわけです。私ならば失敗しても『若いから』と言い訳がききますし、何よりも真面目なのである程度の利益は担保できると踏んだのでしょう」

「……そうか」

「結局、真面目なだけで何も偉くなどありません。もしかしたらこの十年、先生と会わなかったのもそういう空虚な私を見てほしくなかったワガママなだけだったのかもしれませんね」

「そういうことを言うな。先生もせいぜい国語を教えるだけだろう」

「いいえ、そんなことはありません。それに、恩師である先生がそんなことを言わないでください。先生だけは私の中で素晴らしい人で在ってください」


 菅生はうつむくことなく、小さく頭を下げた。

 そこには、私のこれからを願う思いと、最後の挨拶が込められていた。


「先生、私は幸せになれるのでしょうか」

「なれる」

「どうしたらよいのでしょう」

「……」


 私は言葉を詰まらせた。私は菅生に何と言えばよいのだ。

 真面目に生きていれば、いずれ実るときが来るとでも言えばよいのか。

 そんな安い言葉で救われるなど思えない。虫が良すぎる。


「先生も、どうか健康でいてください」

「わかった。気を付けるよ」

「また町に戻ってきたら、顔を出します」


 菅生は深く頭を下げた後にソファーから立ち上がった。

 背を正した彼女は、やはり凛としていて、幼い様相を一つも見せない。


「では」

「………………あ」

「どうしました」

「いや、頑張ってな」

「はい」


 菅生は再び、小さく会釈をした後に会議室を出た。

 静かになった会議室には扇風機の機械音と、かすかにリズミカルに一秒を刻む時計の秒針の音だけが鳴っていた。

 壁掛けの時計を見る。時間はそこまでたっていなかった。私と菅生が話していたのは、せいぜい数十分程度だった。


 最後まで菅生は何も言わなかった。

 そして私も最後まで彼女に何も言えなかった。


 それこそ『握手』の井上少年のように、引き留めてでも聞けばよかっただろうか。

 彼女はうつけではない。だからこれからの人生をよくわかっている。

 彼女はこれから関西へ死にに行くのだ。大人たちが作り上げた凝り固まった普遍的な世界で彼女は、真面目に言いなりになるだけなのだ。それが菅生の選んだ道であり、悔いても嘆いても遅く、無味乾燥な人生のはじまりだとしても、今の菅生にはそれしかないならば、いずれ枯れ往く生活を享受するしかないのだ。


 そういう意味では、やはりこれは「いとまごい」だった。

 それを理解したときには菅生は学舎を出ていってしまっていた。


 私はその会議室にあるひとつの棚に手をかけた。そこには歴代の卒業生が書かれた名簿と、卒業アルバムが保管されている。

 私は十年前のアルバムを取り出して『菅生』の名前を探した。


 菅生すごう なお


 すぐに名前は見つけた。しかし、そこに映っていた写真は今しがた目の前にいた女性とは異なり、とても可愛げで幼かった。

 その横には当時の担任である私の名前と写真があったが、今よりもほんの少しほうれい線が薄いだけで変わっていないように見えた。


 その菅生の写真を見て、ひとつ思い出したことがある。

 彼女はショートヘアではなく、当時はロングヘアだった。

 それを自慢して生徒や教師からは名前の「直」と「ロング」から「ロンちゃん」なんて愛称で呼ばれていたことを思い出したのだ。

 もしかしたら、私が「ロンちゃん」ではなく「菅生」と呼んだ時点で彼女は今の私のことを理解していたのかもしれない。しかし、それを気にするには遅く、私の生涯で菅生にそれを伝えることはなかった。


 三年後。


 私はふと、机の掃除をしていたときに昔の参考書を見つけた。

 その参考書の出版社は「金田出版」だった。

 そこで、三年前に私を訪ねてきた菅生を思い出し、ネットの検索エンジンに『金田出版 関西』と打ち込んでみた。


 しかしサジェストあったのは二年前の『倒産のニュース』だけだった。

 彼女が関西に飛んだ一年で金田出版は無くなっていたのだ。

 ニュースには不景気にのあおりと需要の変化と考察が書かれているが、もはや真意を知るには遅かった。


 何もかもが遅かったのだ。この事実をもっと早く知っていれば何かを憂うことができたかもしれないというのに、ただ『金田出版』と検索するだけなのに、実に二年も時間をかけてしまったのだ。


 そこで私はやっと、あの日の彼女の言葉の真意を理解した。

 私もまた薄情者だった。変わりゆく世界を薄目で見るだけで、真面目ぶって生きている薄っぺらな男だ。

 それを嘆くことなく年と社会のせいにして生きる薄情な男が私なのだ。


 彼女は今、何をしているのだろうか。

 街に戻ってきたら顔を出すと言っていたが、あれから菅生と会うことはなく、生涯顔を拝むこともなかった。

 どこか遠い地で頑張っているのだろう。そう信じるしかない。

 私ができることなどない。できたことはたくさんあったはずなのに、何もせずに耳触りの良い言葉を並べるだけだった私ができることなど、せいぜいそう信じる以外になかった。


 私は、ぬるりと四十六歳になった。


 まだ家庭を持たず、甘い煙を吸い込んで、ただ生きていた。

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恩師に尋ねて 琴吹風遠-ことぶきかざね @kazanekotobuki

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