砂に輝く君、繋がる希望

棚尾

砂に輝く君、繋がる希望

 その競走馬は目立った実績があるわけではない。

 それでも彼女の走りに、目を奪われた。

 牝馬ひんばの中でも400kgに届かない小柄な身体。

 前に付けたら、他馬にぶつけられようが簡単には抜かせない。

 その溢れるガッツに、砂煙の中を1番で走り抜けるその姿に、夢中になった。


 スンダルラルキー号。

 名前の由来はヒンディー語で「可愛い女の子」。

 小柄な身体の牝馬だから、その見た目通りに、名前が付けられたのだろう。

 艶のある栗色の毛、きゅるきゅると潤んだ可愛らしい瞳。

 額から鼻筋まで垂れる大きな白い流星。

 お客さんにお披露目をするパドックでは、首を激しく振り、ちょっとうるさい仕草を見せる。

 決してお淑やかではない。可愛いだけでは勝負の世界でやってられない。


 彼女の闘志が、そして、その走る姿に賭ける金こそが、胸の奥を熱くする。


「トダさん、また競馬ですか」


 仕事の昼休み。自席でスマホを片手で眺めながら、昼飯のパンをつまんでいるところに、隣の席のタカシマが話かけてきた。

 ちょうど彼女の姿がスマホに映っていた。彼女の様子を所属厩舎がSNSでアップロードしていたのだ。今週金曜日のレースに出るらしい。


「可愛いだろ。俺はこの子のファンなんだよ」

「お馬さんが可愛らしいのはわかりますよ。でも競馬ってギャンブルじゃないですか。のめり込むのがちょっと怖いっていうか」

「今どき、身持ちを崩すほどお金を注ぎ込むやつなんて、ほぼいないよ。好きな馬、好きな騎手、大きなレースにちょっとしたお金を賭けて、少し増えて戻ってきたら嬉しいって感覚でやってる」


 嘘だ。

 競馬を始めたばかりの時こそ、大きなレースでしかお金を賭けなかったが、今では毎週のように競馬場に通っている。

 そして、ギャンブルで儲けることなど、絶対に出来ない。

 生活費を食い潰し、最近では貯金にも手が出そうになっている。

 正直、危ない。


「まあ、最近競馬をモチーフにしたゲームも流行ってますし、そういうカジュアルな楽しみ方が主流なんでしょうね」


 そんな訳が無い。

 毎週のように競馬場に行っているからわかる。

 ギャンブルとは、次第にのめり込むように出来ているのだ。

 最初は数百円の負けが、それを取り返そうと数千円になり、やがて桁がもう一つあがる。

 負けを意識した途端に、それを取り返すことに躍起になる。

 これが当たればという願望の混じった予測と、それがかっちりハマったときの快感が、心をつかんで離さない。

 脳に溢れるアドレナリンが、多幸感が忘れられず、次も満たされたいと求め、深みに誘われる。


 ギャンブルには魔力がある。さながら誘蛾灯のように、人を破滅に引き込んでいく。


 ひとりで、そこに行くのは嫌だった。

 だから、仲間を増やしたいという気持ちが、ふと湧き上がった。


「タカシマ、仕事も今は落ち着いているし、良かったら金曜日に競馬に行かないか?」


 金曜日はラルキーが走る。

 彼女の走りが見たかった。ついでにお金も増えれば万々歳だし、タカシマをギャンブル仲間に仕立て上げてしまおう。




 

 金曜日の仕事を午後から休みにして、タカシマと一緒に大井競馬場にやってきた。まだ平日の昼間で、重賞レースも無いからか、人影はまばらだった。

 大井競馬場で行われるレースはいわゆる地方競馬だ。

 JRA(日本中央競馬会)が主催する中央のレースと違って、東京都が主催となる。地方競馬でしか走らない馬や騎手がいて、それを応援したり、馬券を買うのが楽しみ方のひとつである。また、中央競馬の開催は基本的に土日だが、地方競馬は平日にも開催され、夜間ナイターのレースがある。毎日馬券が買えるレースがあるのはギャンブラーとしてありがたいのはもちろん、ナイターレースは仕事帰りのサラリーマンにとって息抜きの場にもなっている。

 

「広いですねえ。ここをお馬さんたちが走るんですか」


 競馬新聞とビールを買って、まずはコースに出てきた。

 大井競馬場は1周1600mの砂地ダートのコースだ。スタート地点や、周回数を調整することにより1200mから2600mまでのレースが行われる。地方競馬が開催される競馬場の中では最後の直線が一番長く、後方から一気に先頭まで突き抜ける豪快なレースが見られることも特徴だ。


「目の前を砂塵を巻き上げて走り抜ける姿は圧巻だよ。ちょうど次のレースを走る馬たちが出てきた」


 第2レースを走る馬たちが、コースに入ってきた。

 誘導馬に先導されて、若駒わかこまたちが目の前をとことこ歩いている。そして、しばらく進んだら立ち止まり、騎手が促すと踵を返して走り出す。

 騎手と馬がコンタクトを取りながらスタート地点に向かう時間“返し馬“だ。

 馬券を買う側も、この走りの様子を見て、馬の状態を判断したりする。


 初めて見るタカシマは物珍し気に、スマホを取り出しその様子をバシバシと撮影する。


 このレースは今年デビューしたばかりの2歳の馬たちが走る。

 デビューしてからここまで負けなしの1番人気の子が順当に勝つ見立てだ。

 当然馬券も、その馬が1着になるだろうという前提で買っている。


 その一番人気の馬が目の前を通りかかったとき、顔が赤く、すっかり出来上がった様子の爺さんが前に進み出て、大きな声を出した。


「おうササノ、次も飛んでくれよな!!」


 爺さんは、そのまま満足気に1番人気の馬が走る姿を見届けて、後ろに引っ込んで行った。


「トダさん、今のは何ですか」

「野次だ。しかも結構ひどいやつ」


 “飛ぶ“とは人気を集める馬が、人気通りに走らなかった時に使われる言葉だ。つまり爺さんは、馬券の払い戻しの対象にならないような、4着以下の着順になってくれと言っているのだ。

 人気の馬が負ければ、その分人気が低く配当が高い馬“穴馬“が代わりに入ってくる。少ない投資で高額の払い戻しを受けようとするなら、人気馬が飛んでくれる方がありがたいのだ。


 ササノ騎手は大井競馬場では一番勝星をあげている騎手だ。だが、第1レースでは人気馬に騎乗して“飛ばして“いる。

 爺さんは、それによって美味しい配当を得たのだろう。だから、このレースでも同じ展開を期待している。


「つまり、負けろーって騎手に直接叫んでいるわけですか、確かにひどい」

「競馬は金が絡むからな。そういう人もいる」


 最近では、海外のブックメーカーサイトなどで色んな競技が賭け事の対象となっているが、国内で合法的に賭けられるのは競馬、競輪、競艇などの公営競技だけだ。

 お金が絡むと、純粋な応援ばかりとはならない。ギャンブルという魔性の光に人の欲望が曝け出されてしまう。


 そのレース、ササノ騎手は見事に飛んだ。

 スタートでつまずき出遅れ、そのまま前の馬を捕まえられず4着。

 馬券はハズレ、爺さんのゲハハという大きな笑い声が聞こえる。


「無情だ……」


 馬という生き物が走るのだ。人間がやる競技でさえ、毎回実力が万全に発揮できるとは限らない。

 この不確定さがあるからこそギャンブルとして成立するとも言える。


 財布は少し軽くなった。だけど、今日のレースはまだまだある。ここから取り返せば良いのだ。




 次のレースに向けて、パドックにやってきた。レースを走る前の馬が小さな運動場を歩いて、観客にお披露目をする場所だ。返し馬と合わせて、馬の状態を判断する場所でもある。


「あの子、派手な被り物してますね。他の子たちと比べて凄い元気ですし、良さそうに見えます」

「レイトウミカン号だな。現在3連勝中で勢いがある。良い馬だよ」


 タカシマが注目した馬は、名前に因んだオレンジ色の派手な“メンコ“を付けていた。

 耳まである馬の覆面、“メンコ“は音や砂をかぶることを嫌う繊細な馬に使われる道具だが、観客へのアピールの意味も兼ねて色んな柄がある。


「オッズは単勝1.5倍の圧倒的1番人気、鞍上もササノ騎手。まあ鉄板だな」

「1000円馬券買って、1着になれば1500円ですよね。さっきのビール代にもなりますし、僕はあの子にします」


 このレース、確かにレイトウミカン号は有力だ。ササノ騎手も流石に3回連続で飛ばすことはないだろう。


「トダさんも、レイトウミカンちゃんにするんですか」


 タカシマはよっぽと気に入ったのか、馬をちゃん付けで呼んでいた。ちなみにレイトウミカン号は男の子である。

 名前が気に入ったから、馬が可愛いから、競馬の入り口なんて何でも良い。馬券を買う馬も、配当が美味しくない人気馬で当然良い。

 払い戻しの金額に関わらず、馬券を買い、それが的中する喜びに満たされるのが、ギャンブルへハマる第一歩なのだから。


 タカシマがギャンブラーへの第一歩を踏み出したことに、心の中でガッツポーズしながら、このレースで注目している馬の名前をあげる。


「俺が買うのは、ランニングニャーさんだ」


 走る猫さんとは、ひと昔前の芸人にいた気がするし、馬なのにニャーとは何なんだという話はこの際、置いておく。

 ニャーさんは灰色がかった芦毛の馬で、青いメンコには『にゃー』という文字が書かれている。レイトウミカン号と比べて大人しいが、歩き方はしっかりしている。


「名前が可愛いからですか。トダさんにそんなところがあるなんて意外です」

「名前も可愛いなとは前から思っていたが、それだけじゃない。ニャーさんは今回ブリンカーを付けるのがポイントだ」

 

 “ブリンカー“とは、メンコと同じように馬の顔に付ける装備のことで、視界の一部を遮ることによって馬をレースに集中させる効果がある。集中力が足りない馬の走りが一変することもあり、競馬新聞の出馬表にもこの装備を付けるか、付けないかは必ず表記される。


「あと競馬新聞の陣営コメントをレイトウミカン号と比べてみろ、このレース、関係者がどう思っているかがわかる」


 レイトウミカン号の所属厩舎のコメントはこうだ。『気性の問題で苦労はするが、能力はある。昇級のここでも、力を出せれば勝ち負けしてくれる』


「レイトウミカン号は能力は確かだが、気性の問題がある。パドックも元気と言えば聞こえは良いが、落ち着きがないし、無駄に力が入っているように見える。それに今回は所属クラスが上がって、周りの相手も強くなっている。取りこぼすならここだ」


 対してニャーさんに付いているコメントはこうだ。『いつも一歩足りない馬。調教は走るので、今回はブリンカー着用で力を出せれば』


「ニャーさんは、近走の成績が5着、6着とパッとしない。だがコメント通りに力が出せれば、馬券内に入る可能性は高い。1着は難しいかもしれないが複勝オッズが3〜5倍なら狙う価値がある」


 複勝馬券はその馬が3着以内に入れば払い戻しがある。一番人気のレイトウミカン号に不安がある以上、こっちの馬券を買う方が払い戻しが期待できる。


「なるほど、ちなみにいくら買うんですか」

「1万円」

「えっ、1万円ですか」


 しまったと思った。普通の人間はポンと1万円なんて出さない。ギャンブラーの金銭感覚は異常なのだ。

 タカシマは明らかに引いていた。

 せっかくギャンブラーとしての入り口に立ってもらったというのに、これでは引き返してしまう。


「いや、今回は勝負レースだから。普段からこんな大賭けしている訳じゃなくて……」


 とっさに取り繕ったものの全く説得力がなく、タカシマは呆れていた。


 このレース、勝ったのはレイトウミカン号だった。

 タカシマは応援していた馬が勝って興奮し、払い戻しを受けたお金を握って、初めて的中した喜びを噛みしていた。

 

 ちなみにニャーさんは今回も5着だった。

 ブリンカーの効果もあって、スタートは抜群、先頭で逃げたものの、気持ちが入りすぎたのか走るペースが速く、最後の直線で力尽きて失速。後ろからやってきた馬たちにゴールから100m前で次々と抜かれてしまった。


 でもニャーさんは頑張ったし、ブリンカーの効果があることがわかったのも収穫だ。結果もそのうち付いてくるだろう。

 財布がまた軽くなったけれど、何も得られなかった訳じゃ無い。それに今日のレースはまだまだある。ここから取り返せば良いのだ。



 

 日もすっかり沈み、夜もふけた20時過ぎ。

 コースに隣接されたスタンドの2階の売店でビールとモツ煮を買い、客席に座って食べる。


「ビールもモツ煮も美味しいですね。モツ煮は競馬場みたいな場所の定番だとは思いますが、クラフトビールが売っているのがびっくり」


 大井競馬場ではご当地のクラフトビールが何種類か売られている。今、飲んでいるのはフルーティーな味わいのゴールデンエールだ。モツ煮もこの店は、定番の味噌のほかに、旨塩味もあり、舌を楽しませる。

 競馬場に来たならギャンブルだけでなく、グルメを楽しむのも一興だろう。場所によって名物が異なるし、グルメ目当てで遠方の競馬場に行くのもありだ。


「トダさん、聞いてますか?」

「うん、ああ」


 だが、今はグルメを楽しむ余裕が無かった。メインの第11レースまで的中がほぼ無かったからだ。明らかに流れが悪い。

 残る最終の第12レースはラルキーが走る。

 競馬新聞をじっと見つめる。残りの資金でどうすれば負けをまくれるか、必死に考える。


「トダさん、今いくら負けているんですか」

「4万円だ」

「残りのお金はどれだけあるんですか」

「1万円だ」


 今月の生活資金の大部分が吹っ飛んでいた。次の給料日まで、あと20日もある。

 一方タカシマは、ビギナーズラックもあるが、少額で手堅く買っているから、プラス5千円くらいにはなっていた。


「最後のレース、トダさんが応援している子が走るんですよね。もうその子の応援で少しだけ買って、終わりにしましょう。すっからかんになりますよ」


 タカシマの言うことはもっともだった。

 もともとラルキーの走りと、可能ならその勝利の姿を見ることが目的で大井競馬場に来たのだ。

 ギャンブルで勝つことが目的では無かったはずなのに、いつの間にか負けを取り返そうと躍起になっている。


「そうだな……」


 負けっぱなしという事実が、腹の底に引っかかっている。

 だがここで退くのが正しいのだと、理性が告げていた。


「トダさん。今日は楽しかったですよ。お馬さんの走る姿に一喜一憂して、声援を送って、競馬って思ったよりずっと健全なんですね。他のスポーツ観戦と変わらない。お金は二の次なんだなって思います」


 タカシマの言うことは正しいし、それが健全な楽しみ方だ。程良く楽しむ大人の遊び。けれど、それだけでは済まない思いが、俺の心の底にくすぶっている。


「競馬というギャンブルが、そんな綺麗事だけで済むわけねえだろうが」


 腹の底から、唸るような低い声が出た。

 タカシマの前で貼っていた、“趣味で競馬を楽しむ人“というメッキが完全に剥がれていた。

 けれどこれは、魂からくる本音だ。


 騎手も競走馬も、その命を賭けて走っている。

 観客が、金くらい全力で賭けなくて何とする。

 声援だけで十分な訳がない。

 生きるためには金が必要だ。だから騎手は馬に乗り、馬は走っている。

 ラルキーの走りに、今注げるものを全部賭けたかった。


「最後の勝負だ。パドック行くぞ」




 ラルキーはパドックで相変わらずのうるさい仕草を見せた。

 ちゃかちゃかと早足になったかと思えば、首を激しく上下にぶんぶん振る。小柄ではあるが、やつれている感じはなく、皮膚に張りがある。今日の馬体重は387kg。前回のレースから2ヶ月間隔が空いたからか、5kg増えていた。体調は良さそうだし、十分に気合いが入っているように見える。


「トダさんが応援しているラルキーちゃん。前を歩く子と比べるとひと回り小さいですが、足はスラリとして綺麗な子ですね」


 出会った時のラルキー第一印象は綺麗な馬だった。艶のある栗色の毛と張りのある馬体、そして長い足は、体格の小ささを感じさせない。馬体重を見なければ小柄だと気づかないくらい、綺麗な馬体をしている。


 対してラルキーの前を歩いている馬は、馬体重530kgの大型馬だ。

 黒く光る馬体に、首をぐっと下げて進む落ち着いた足取り。砂地をパワーで突き進む重戦車といった印象がある。

 前走は後続を5馬身突き放し快勝。所属クラスが上がるここも問題ないだろうという評価で、圧倒的一番人気だ。

 

 ラルキーの近走は3着、5着というもので、走りも精彩を欠いていた。

 毎月のようにレースを走っている頑張り屋だから、その疲れが出たのだろう。

 相手は強い。だが、休養を挟んで挑む今回のレースは、本来の力を出せれば戦えるはずだ。

 ラルキーの持ち味は先頭もしくは、二番手に付けたときの粘りだ。

 最終コーナーや直線で、他の馬にプレッシャーをかけられても簡単には譲らない。むしろぐんと加速して、最後まで力を出し切って駆け抜ける。展開によっては苦しくなるが、1着になれなくても3着までに粘り込むことも多い。


 レースの展開は枠順が鍵を握る。

 今回のレースは14頭が走り、ラルキーは外目の12番枠のゲートからスタートする。外から進路を被される可能性は低いから、ゲートを上手に出れば前の方のポジションが取れるだろう。


 1番人気の大型馬は内側の枠だ。内側の枠は外から進路を被される可能性はあるが、最も距離のロスが無く立ち回ることができる。

 レースの展開としては、ラルキーが2番手から3番手、そして1番人気の大型馬はラルキーの内側の4番手くらいになる可能性が高い。


「とまーれー」


 パドックに係員の号令が響き渡る。

 パドックを周回していた馬たちが立ち止まり、騎手たちがそれぞれ駆け寄ってくる。

 ラルキーに騎乗するのはヨシナリ騎手だ。23歳という若手だが、大井競馬場ではラルキーとのコンビで3勝しており、相棒として申し分無い。


「ヨシナリ、ラルキーを頼むぞ」


 馬を驚かせてはいけないので、パドックでは大きな声を出さない。叫ぶのはレースのときだ。

 ヨシナリ騎手がまたがると、ラルキーはまた首を激しくぶんぶんと上下させた。これからレースに向かうとわかって、戦うスイッチが入ったのだ。

 そして手綱にコントロールされてピタッと前を向き、最後の周回へと歩き出す。

 前を通り過ぎたとき、ラルキーと目があった気がした。


 瞳にたぎる闘志と、戦う意志を体現したその身体から、目を離せなかった。



 馬券を買って、コースに出る。ここはラルキーを信じて単勝1点勝負だ。

 ちょうど返し馬が始まっていた。ラルキーもヨシナリ騎手とコンタクトを取り、足取り軽やかにゲートに向かう。


 ちょうどそのとき、小さな人影が、前に進み出た。


「ヨシ君、頑張ってー!!」


 中学に上がったばかりくらいの少年が、ヨシナリ騎手に声援を送っていた。

 当然、彼は馬券など買えない年齢だから、純粋にヨシナリ騎手を応援しているのだろう。

 お金など関係なく、好きな競馬に夢中になれる。必死に負けを取り返そうとしている自分と比べて、その純粋さが眩しい。


 レースの開始を告げるファンファーレが鳴った。

 ラルキーが走るレースの距離は1600m。スタートはゴールの少し手前にあり、ちょうど1周するコースだ。

 係員に引かれて、次々と馬たちがゲートに入っていく。


 もう馬券も買ったし、少年のことを見習って、ラルキーを応援することに集中しよう。

 例えどんな結果になっても受け入れる。ラルキーが、ヨシナリ騎手が、全人馬が無事に完走することだけを願う。


『大井競馬場、最終第12レース、スタートです』


 ゲートを一斉に馬たちが飛び出す。

 生命を賭けて、勝利を求めて、みんなそれぞれの願いを乗せて走り出す。


 ラルキーの飛び出しは速かった。

 他の馬たちを見やりながら、先頭に向かって進路を内に取っていく。

 このまま先頭に躍り出るかと思いきや、内側にも1頭出足が速い馬がいた。

 枠の差から、ラルキーと半馬身ほど距離がある。二の足を促せば追い抜けるだろう。

 だが、ヨシナリ騎手は無理に力を使わない判断をした。そのまま2番手に付ける。


「よし。落ち着いているぞ、ヨシナリ!」


 最初のコーナに入り、隊列が決まった。

 先頭に躍り出た1頭を前に、ラルキーは2番手追走で理想的と言っても良い。


「あの一番人気のでっかい子、3番手にいますね」


 ラルキーを見るように、一番人気の大型馬が真後ろに付けていた。

 ラルキーをぴったりマークするポジション。このまま最終コーナーから直線にかけて飲み込むつもりだ。

 その後ろは5頭の先行集団、さらに後方に、いったん待機して直線で一気の差し切りを狙う4頭がおり、スタートの悪かった2頭が最後方に置いてかれている。


 向こう正面に入る。

 先行集団の隊列に大きな変化はないが、ラルキーが徐々に先頭の馬との差を詰めていた。

 横並びの状態から直線での瞬発力勝負になると、小柄でパワーが劣るラルキーは分が悪い。だから、最終コーナーで抜け出し、そのまま長く足を使って、押し切りを狙うのだ。

 

 全ての馬が徐々に加速していく。勝負の最終コーナーだ。

 ラルキーが仕掛ける。先頭を走っていた馬に並びかけに行く。

 先頭の馬は、そこまで手応えが無い。ラルキーの勝ちパターンで、このまま抜け出せるかと思えた。

 

 ラルキーとその馬の間に、黒く大きな影が割り込んできた。3番手から虎視眈々と機を窺っていた重戦車が、牙を剥いたのだ。

 全てをねじ伏せる重戦車の突撃。530kgの巨体がラルキーの身体に激しくぶつかる。


「ラルキーいいぃぃ!!」

 

 思わず、叫んでいた。

 並の馬なら、闘う心を折られていたかもしれない。

 だけど、ラルキーは違う。あふれる闘志が、彼女の足を進ませる。

 俺が惚れ込んだ彼女は、こんなことで負けたりはしない。

 砂塵の中を、小さくとも力強い輝きが煌めく。


 小柄な彼女は全く怯むことなく、ぐんと加速して、コーナーワークで先頭に飛び出す。

 重戦車は一歩置いてかれた。パワーはピカイチでも、大きな身体ではコーナーで力を抑えきれない。

 遠心力で外に少し膨らんだ分、2馬身ほどの差が出来る。


「そのままいけえええええ!」


 直線を向いた。ラルキーが先頭で走ってくる。

 ゴールまであとは直線のみ、このままラルキーが押し切るかに見えた。

 だが大井競馬場の直線は、ゴールまで300mと長い。

 まだ、後ろの馬にもチャンスがある。


 一度は置いてかれた重戦車が、再度加速して猛追してくる。

 大型馬らしい力強さで、深い砂地を蹴り、一歩、また一歩とラルキーとの差を詰める。

 コーナーワークではラルキーに分があったが、直線ではそうはいかない。


 ゴールまで残り100m、ラルキーにもう一度、黒い重戦車が外側から並びかける。

 併せ馬の形になると、馬は互いに抜かせまいと闘争心を掻き立てられ、加速していく。

 最後の勝負が始まった。


「ヨシナリいいいいい! 気張れえええええええ!!」

 

 2頭の騎手が鞭を振るう。最後の最後まで、力を出せるように、人馬が全力を尽くす。

 完全に横並びの叩き合い。余力はお互いにほとんど無い。最後には根性と闘志、そして、これまで培ってきた力が試される。


 ラルキーは闘志の塊だ。砂の中を駆け抜けるその輝きに惚れ込んだ。

 そして彼女は、どんなときも一生懸命走る頑張り屋だ。だから、大丈夫だと思える。

 

『内、わずかにスンダルラルキー出たか、1着でゴールイン』


 実況が彼女の勝利を告げたとき、渾身のガッツポーズが出た。

 隣のタカシマが、興奮して俺の肩を叩く。


「トダさん!! ラルキーちゃんやりましたね!」

「ああ、やったよ。やっぱり彼女は最高だ」

 

 嬉しさで涙が出てきた。

 今日は大井競馬場に来て良かった。彼女の勝利をこの目に焼き付けることが出来て、最高の気分だった。


「それでトダさん、これで今日はいくら勝ちになったんですか」


 そういえば、ラルキーの単勝に賭けていた馬券も当たったのだった。

 正面の巨大な掲示板に表示された、レースの払い戻し金額を確かめる。

 

「マイナス1万円」


 単勝オッズは4倍になっていて、負けを全部取り返すには至らなかった。


「まだ負けているじゃないですか」


 馬券を買った時は、確か単勝6倍は付いていた。その後もたくさん買われたのか、オッズが下がっていた。

 それでも、気分は沈まなかった。ラルキーの走りが、その輝きが、俺の心をつかんだままで離さないからだ。


 応援している騎手や競走馬の存在は確かにある。

 お金が戻ってくるかどうかに関わらず勝てば嬉しい。無事に走り切ってくれるだけでも安堵する

 純粋なスポーツとしての楽しさも、ギャンブルとしてのスリリングさも、どちらもある。それが競馬だ。


 俺はきっと、この魅力からは離れられない。

 それに希望の光は、まだある。ラルキーが頑張ってくれたから、繋がったものだ。


「大丈夫だタカシマ、明日は中央競馬がある。そこで取り返せばいい」


 もうかける言葉は無いとばかりに、タカシマは苦笑いしていた。

 ギャンブル中毒丸出しで、救いが無いにもほどがある。

 けれど、それで良い。この光は油断すると破滅を連れてくるかもしれないが、俺はこの光が好きだし、これが楽しみで生きている。


 ラルキー、砂に輝く君にまた会いに行くよ。また俺に光を届けてくれ。



(完)

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