愛執

志央生

愛執

 彼女の好きな花が咲いた。いつだったか花壇に植えた種が芽を出して葉を伸ばしていたのだろう。咲くまでは雑草の中にある草の一つに見えていた。手入れもしていない花壇でよく育ったものだと思いながらも、私は心が躍っていた。

彼女が好きだった花が咲いたのだ、まるで運命のように。植えたことすら忘れ、水も与えず放置していた中で私に気づかれようと必死で育った花。そう考えると愛おしさも万倍に感じられる。

「ありがとう」

 膝をついて花に向かって声をかけていた。もちろん返事などはないが私の目には先ほどよりも美しく華やいだように見える。きっとこれは天啓なのだとすら思えた。記憶の底に沈めてしまおうと踠いていた私に神は真実を告げにきたのかもしれない。それは花という形で。

「東京に行くの、だからね」

 頭の中であの日に告げられた言葉が蘇る。引き留める言葉はいくつもあったが、彼女の悲しい表情にお互いに辛い選択を選ばなければいけないのだと自分を無理やりに納得させた愚かな記憶。それから何とか忘れたふりをして日々を過ごしてきたが、完全に消すことなどできず心の端に押し込めていた。

 それが間違いだったと告げにこの花は咲いたのだ。道を正せと私に告げている。そう思えば私の体は動き始めていた。消せずにいた連絡先と最後に送られてきたメッセージを確認して家を飛び出していた。その際、花壇に咲いた花を丁寧に手折って新聞紙に包んだ。この花は彼女と私を繋ぐ愛の花になるだろう。高鳴る胸を抑えて東京までの電車へ乗り込んだ。

 着いた頃には陽が傾き始めていた。急いで彼女が勤めている会社まで向かう。初めての土地でなかなかに慣れなかったが地図アプリを頼りに進んだ。ようやくたどり着いた時には陽はすっかり沈んでいた。

 出入り口から出ていく人たちを見て終業時間なのだろうと察した。手に持った花に力が籠る。彼女が出てきたら何と声をかけようか、いきなりの再会は私も緊張するが彼女はそれ以上に驚くだろう。

「君の好きな花が咲いたんだ」

 そのあとは何と言葉を続けようか。「君を思い出した」「君を忘れられなかった」と言うべきだろうか。いや、きっと彼女には言葉はいらない。彼女も同じ気持ちのはずだ。私を忘れようと必死で仕事に打ち込んでいるに決まっている。あのとき離れる決断をしたことを今も後悔しているはずだ。

「お疲れ様でした。また」

 声がして会社の出入り口に目をやると彼女の姿があった。以前より髪が伸びて少しメイクも変えたかもしれない。けれど、変わらない彼女が纏う雰囲気は変わっていない。そんな姿に見惚れてしまい、声をかけるタイミングを失ってしまった。

 何とか見失わないように後ろから追いかける。一歩一歩を確かめるように進み、少しずつ彼女との距離を詰めていく。住宅街に入る頃には人通りが減って前を歩く彼女の靴音だけがよく聞こえる。こうして歩く姿を見るのも懐かしい、いやすべてが懐かしさを感じさせてくれる。

 ただ懐かしさに思い耽ってばかりもいられない。私は彼女との距離を詰めて手の触れられる位置にまでくる。ふわりと香る彼女の匂いに最後の懐かしさを思い出しながら私はその肩に触れた。

「やぁ、久しぶり。今日、君の好きな花が咲いたんだ」

 振り向いて驚きの顔を見せる彼女に私は満面の笑みを浮かべる。そして、彼女に咲いていた一輪のベゴニアを差し出した。

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愛執 志央生 @n-shion

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