ゼロイチ

坂口青

ゼロイチ

 僕は、ビット。PCの最小単位だ。ゼロイチで言うとイチにあたる。あるファイルの中にいる、大量の二進数のうちの一つのイチだ。

 僕はファイルが起動されているとき、ディスプレイから外の世界を見ることができる。僕のいるファイルの持ち主がキーボードを操作するのが丸見えということだ。僕たちビットは、持ち主にDeleteキーを押されてしまうことを恐れつつ、データの増減を見守っている。

 僕の持ち主は、何かに取り憑かれたようにタイピングしていた。目が充血しながらも、上げた前髪が落ちてきながらもキーを打ち続けている。目の前から持ち主の姿が消えたと思ったら、画面をつけたまま寝落ちていることもあった。そんなこんなで、このファイルの起動時間は数十時間にも及ぶ。それだけの時間、持ち主はビットを連ね続けていて、僕たちはそれを見ていた。

 ファイルが閉じられる。そうすると僕たちはCPUの方に移って休憩時間だ。持ち主はきっと席を立っているのだろう。慌ただしく変動していたデータが、一旦落ち着く。キーを打つ音が消えた部屋の中で、新しくはないPCのファンが、小さくうなった。


 ファイルが戻る。持ち主は片手にアイスコーヒーを持っていた。顔には疲れと焦りと、少しの興奮が見える。時計は十二時を回っているのに、今からが本番とでも言うみたいだ。

 いつものように、タイピングがリズムよく鳴る。音の心地良さに、自分が消されてしまうかもしれないのを忘れ、ただ、もっとビットが連なればいいのにと思った。持ち主は指を動かし続けている。ふと手が止まり、数秒迷ってグラスを手に取る。アイスコーヒーが喉を鳴らす。そしてまた戻る。

 持ち主は、PCで僕のいるファイルだけを使っているわけではない。たまに検索エンジンを開いている。大抵は平日、夕食後の時間帯。検索ワードは「小説 公募 高校生」「小説家 大学 学部」とか。僕は入力されたデータは分かっても、それが彼らの世界でどんな意味なのかは分からない。でも、検索エンジンに入力する手つきは重そうで、表情も硬かった。だから持ち主が、ただPCの前に座ってキーを叩き続けているだけじゃないのは、分かる。

 膨大なビットを連ね、ときに削除する行為を何時間も、いや何十時間も続けている理由を僕は知らない。でもそのおかげで僕が生まれたわけだし、感謝している。僕たちビットはただのゼロイチじゃなく、何かの意味がある。持ち主が悩みながらも熱心に画面に向かう様子は、そう思わせてくれた。

「はあ」

 持ち主のため息がディスプレイに当たった。画面が曇ってしまいそうなくらい大きい。大体こうなると、作業は終わりに近い。ファイルは随分重くなっていた。

 Ctrl + Sキーを押して、持ち主は大きく伸びをした。空のグラスを持って立ち上がる。グラスの結露が、キーボードに付いて故障してしまわないか気になった。


 今日も持ち主は入力と消去を繰り返している。でも、様子がいつもと違った。今までは、まだ入力されていないまっさらな場所にずっとビットを連ねていたが、今日は既にあるデータを消したり増やしたりしている。僕も消されてしまわないか不安だったが、注意深くすり抜けてくれた。持ち主は頻繁に

「違うよな……」

とか、

「もっと心情が……」

とか、独り言を言っている。迷いながらも生き生きとした声色だった。

 ファイルが閉じた。持ち主も僕たちも、一息入れる時間だ。PCがスリープ状態の間は持ち主の姿は見えない。暇なので、多分人間が寝るときと同じみたいに、自分の過去や未来を考えてみる。僕はどこから来たのか。持ち主のタイピングで生まれた。僕はどうなるのか。同じくタイピングで消されるか、保存されるか。二つに一つ。あまりに単純だった。

 じゃあ僕は、何のために生まれたのだろう? ただのイチ。それだけでは何もできない。でも確かに、持ち主は僕を、いや僕が含まれる一文字を、入力した。しかも消さなかった。ビットの群れの中で僕には何かの役割があるのだ。しかし、この小さなPCの中で一体何ができるのだろう?

 持ち主はいつの間にか戻っていたが、キーボードに置いた手は止まっている。見ていたのは、壁にかかった賞状。「市の作文コンクール 中学生の部 優秀賞」の文字。優しく、悲しく、誇らしく、恨みのこもった視線だった。額縁に積もった埃の一粒を凝視しているみたいだ。と、突然、指が動く。猛烈なスピードで。打っては消し、打っては消し、をさっきまでの時間を忘れるかのように繰り返していく。

 カーソルが進んでいくにつれて僕はある衝動に駆られた。どこかに行きたい。遠くに。一つ一つはゼロとイチでも、何かになれるかもしれない。どこかに届くかもしれない。それがおそらく、持ち主が僕たちを生み出した意味なのだろう。ビットの直感だ。

 持ち主はいつも通りアイスコーヒー片手にキーを叩く。その音に、僕はまだ見ぬ世界への思いを募らせた。


 ファイルが起動される。入力と消去はもうされなかった。代わりに、持ち主はいくつかの複雑な操作をして、僕たちビットの集まりを、別の場所に移した。それは、今までのPCとは違う、通路のような場所だった。

 知らない場所への不安と、どこかへ行けるという期待が膨らむ。だがそれは同時に、僕たちを創り上げてくれた持ち主との別れを意味した。もう、僕たちは変更されない。ゼロはゼロで、イチはイチで、固定される。

 その持ち主の様子も、いつもと違う。緊張した面持ちで、操作の一つ一つを踏みしめるように進めていた。何をしようとしているのだろうか。

「……頼んだ」

 ディスプレイをまっすぐ見つめる眼差しは真剣で、ブルーライトに照らされてきらきら光っている。僕は、持ち主から何かを託されていた。キーの音が大きく鳴る。押したのは、Enter 。

 次の瞬間、僕らは別の場所に送られた。知らない人たちが勝手に訪れ、僕たちをスクロールする。持ち主の姿はもう見えない。僕らを目で追った人たちは、何かしらを感じて、たった十数分でそこを去る。それだけだ。でも、それによってこのファイルは意味を持つ。誰かに何かが届く。ゼロが、イチになる。きっと、持ち主はこれがやりたかったんだ。

 僕は、ビット。ある高校生の手から生まれて、二進数として電波に乗り、誰かに読まれるのを待っている。僕たちの集まりは普通、小説と呼ばれる。



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ゼロイチ 坂口青 @aoaiao

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