息絶えた蜂
玄瀬れい
息絶えた蜂
看護師の見守る中、一年ぶりに蜂蜜を指で口に運んだおじいちゃんは美味しそうに嬉しそうに、心配になるほど涙を流してくれた。
◇
「じゃあ、『城の崎にて』のテストを返すぞ」
ざわついている。いつものことだ。低い点のやつほど群れる。そう思っていた。案の定、そのざわめきのほとんどが自信のないセリフだ。僕は群れたりはしないが、今回のテストおそらく、いや間違いなく赤点だ。常から国語ができないわけじゃない。でも、赤点に絶対の自信がある。自分の番が来る。
「はい、補習な」
先生は僕があたりまえにそれを自覚しているかのように言った。
「はい」
はあ。赤点なんて初めてだ。国語は50点を下ったことがなかった。補習...他にもいるものなのかな。
「おう、来たか。補習だね。少し待ってくれるかい?」
コーヒーか? 苦い匂いがする。
「先生、赤点は僕だけなんでしょうか」
「もしそうなら、なんだい?」
先生はわざとらしくこちらに聞き返してきた。
「いえ、わざと僕だけここに呼んだのかと」
「ふーん。なんのために?」
……。
「……」
「その通りだよ。やはり国語嫌いじゃないだろ、君」
コーヒーを手にやっとこちらを向いた。
「……どうなんでしょうか。僕はこの作品が苦手なんです」
「そうなのか。まあ気持ちのいい話ではないからな。気に病む必要はない。私も同じように嫌いな話があるよ。私の場合はどんなジャンルの小説を読んでいても、お化け屋敷のシーンが出てくると本を閉じてしまうよ」
自嘲のような笑い声を出し、コーヒーの取っ手を僕に向けて置き直した。
「苦いよ。私も普段は二粒シュガーを入れる。まあ、シュガーなしで飲んでみなさい」
少し口に含む。やはり苦い。でもなんというかこれが苦味なんだろうな。
「先生は怖いのが苦手なんですか」
「おや? 否定はしないが、さっきのはそういう意味じゃないぞ。お化け屋敷にトラウマがあるんだ」
先生は苦い顔をした。
「トラウマですか?」
先生は自分のマグカップについだコーヒーを一気に飲みほした。
「苦いな。今、口に残ってるように、苦味なんてものは長い間消えない。どうしても嫌なら、もっと強い何かで消すか、そもそも苦味に出会わないようにするか」
そんなことできるはずがない。
「当たり前だが、飲む前のコーヒーに角砂糖を入れるのは簡単で、飲んだ後のコーヒーを牛乳で薄めるのは難しい。言いたいことはわかるかい?」
「嫌な思い出を作らない立ち回りをしろってことですか? それができないから困ってるんです」
また自嘲気味な笑みを浮かべた。
「そうだろうね。私もそれが出来ていればトラウマなんて植えつけられない」
まどろっこしい会話に根負けし、僕は口を開いてみることにした。
「……息絶えた蜂は誰にも相手にされず、日をかけて雨樋を伝いどこか暗いところへ流されていきます。それをどうも自分と重ねてしまって」
胸くそが悪くなって、読み続けるのができなくなる。手が震え、喉がつまるような感覚に
待っていたとばかりに、先生は口角をあげこちらに顔を見せた。まったく。
「――クラスのお父さん。そう言われる程に周りから信頼を勝ち取っています。その過程でクラスの集団と吹き抜けの渡り廊下でご飯を食べるようになりました。今は屋上に行かないといびられるがために通っているだけで、楽しくはないし、行っても結局孤立状態にあることに変わりはない。頼られたい。その一心で、面倒くさいと思われるくらいに寛容なことをしてきた。それが実り、行事ごとは頼ってもらえるようになったけど、それ以外のときは息絶えた蜂なんです」
先生は意外みたいなそうでもないような顔をして、目を閉じ何やら考えている。
「やはり結局のところ、我々に見えている景色なんて、たかがしれてるというわけか」
そう言うと、先生はカップに手を伸ばしてコーヒーが入っていないことを確認すると背もたれに体を任せ上を向いた。
「屋上なんて行かないで、ここに来てよ。遊んであげる」
先生ははっと振り向き、制服を着崩した女の子に声をかけた。
「蜜柑、出てきてよかったのか?」
「彼なら私といてくれる」
話がつかめず、困惑していると先生がこちらを向いた。
「増田、この子も君と同じく、補習の子だ。正確には違うけどな。蜜柑はいろいろあって、この視聴覚室に登校してるんだ。授業以外はいつもここにいる」
「なんで……」
視聴覚室なんだ……?
「せんせー、私、自分で話す。二人にして」
え?
「わかった」
え?え?
◇
「増田くん? よろしくね」
何をよろしくされたのかは分かりかねるが面倒なことであることは分かる。
「さっきの続きね。お昼ここにおいでよ。友達なんて多少の恐怖で離れていく。信頼関係なんて脆いもの。無駄なことしてないで付き合いなんかやめちゃいなよ」
この状況を理解する間もなく、放たれたその言葉は重たくいろんな針を持っているように感じられた。
「でもね。一つ訂正して。蜂は人間よりよっぽど仲間思いなんだよ。死んだ仲間を供養する暇なんてないほど、みんながみんな家族のために
確かにそう考えると人間ほど残酷ではないのかもしれない。
「そうなんだ。悪かったよ」
気にしないで、といい立ち上がった彼女は、新しく二つのカップを取りだし、紅茶に蜂蜜を垂らした。
「君、名前は?」
こちらにカップを送りながら、微笑んでこちらを向いた。
「あれ、もう私のこと信用したの? 人は信頼しない方が良いって話をしたつもりだったんだけどな。私は
「……蜜柑さん。その蜂蜜、どこで買ったの?」
別に信頼してはないけど、単純に気になったから。棚から出てきた蜂蜜も、名前も。
「うち、祖父が養蜂をやってたんだ。今は入院しちゃってて、後継の私も学校だし、きっとこの蜂蜜が最後の蜂蜜」
「美味しかった」
ふと、そんな言葉を漏らしてしまった。確かに蜂蜜を落として飲んだ紅茶は甘くて美味しかった。最後だなんて聞いたら言わなきゃいけないとそんな言葉が半無意識的に口をつついて出てきた。
「……ありがとう」
「続けようよ。養蜂。僕、無理矢理クラスから信頼を得ようとするほど、泥臭いことをできる才能があると思ってるんだ。人一倍勉強もできるし、いろんな方法を考えて、二人で。簡単じゃないだろうけど」
言い過ぎたかと思った。相手にも自分にも。けど、案外そんなことなかったみたいだ。こちらに飛びついてきた蜜柑さんを見てそう思う。
◇
藤崎養蜂場の前にいる。こんな近くに養蜂場があったなんてやはり聞いたことがなかった。にしても遅いな。あっ、戻ってきた。
「ごめん。やっぱり帰って。頼めないや」
「えっ、そっか。……でも」
その先の言葉は続かなかった。明らかに膨れ上がった彼女の涙袋に、尋常ではない憎悪を見たからだ。
数秒の沈黙の後、耐えられず、口にした。
「蜜柑はさ、あんまり一人で抱え込むなよ。気が変わったら呼びな。いつでも手伝いに来るよ」
自分でも分かるほど、角々したぎこちない言葉だったけど、それを最後に去ることを決めた。拳を強く握る。
「
◇
「毎日毎日、手伝ってくれてありがとう。結人くんは私の初めての……友達」
暑い夏が明け、秋、そして冬が迫っていた。
「あの日、そっちから話しかけてきたんじゃないか。それに、今や大親友じゃないのか?」
初めてとは大袈裟だ。少なくともあのときの印象でいえば、誰彼構わず友達だっていうタイプだろうよ、って前なら思っただろうけど、信頼で友達を作ろうとしたことをあそこまで否定した蜜柑の真意が柔なものでないことは明確だ。だからこそ『友達』、その言葉は心が跳び跳ねるほど嬉しくて、ついこちらから『大親友』なんて言葉を出してしまった。
「ありがとう。でもね、私いじめを受けて今までまともに友達なんていなかった。この狭い田舎で、一度悪い噂を流されたら消えないの」
そこからの言葉は耳を塞ぎたくなるほど理不尽な話だった。
「両親は事故と病で早死にして、祖父と二人で育った。祖父はこの養蜂場を経営してたから、私も自ずとここから登校した。朝からいちごやブルーベリーを食べていくことも少なくなかった。だから、たぶん農地独特の匂いがついていたんだと思う。いじめが始まった。最初は『近づきたくない』程度のものだった。少しして、『近づくと死ぬ』と言われ始めた。原因は蜂によるアナフィラキシーショックを主犯格だった女の子のお兄ちゃんが起こしたことだった。ほんの出来心だったんだと思うよ。お兄ちゃんはいちご食べたさにこのビニールハウスに侵入して、いちごを収穫。そして見事に蜂を怒らせて刺された。私に近づくと死ぬ。死をちらつかされたら、いくら私の味方をしてくれてた子たちでも、だんだんと接触が減った」
そもそもそのお兄ちゃんの行為は不法侵入だ。それでも、『出来心』だと言って、許してきたのだろうか。当時、小学生の蜜柑にそんな風に受け止められていたとは思えない。俺がビニールハウスに入るのをためらっていたのは、そういうことか。
「大丈夫だよ。今だからかもしれないけど、僕は一生蜜柑の味方だから。いつでも頼りなさい」
「……」
「そうだ。もうすぐ蜜が取れるんだよね。そしたらおじいちゃんのところに持っていこう、2人で……」
言い過ぎたかと思った。けど、全然そんなことなかったみたいだ。こちらに飛びついてきた僕にとって初めての友達の、この顔を見てそう思う。
息絶えた蜂 玄瀬れい @kaerunouta0312
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