諸君、トイレに入れてはくれないか?

白神天稀

諸君、トイレに入れてはくれないか?

 単刀直入に言おう。漏らしそうだ。


 白神天稀、二十歳。社会人一年目にして、社会的尊厳の危機に陥っている。


 僕は現在、朝の電車内でお腹を壊している。終わりだ。



 言い訳させてくれ。その、あれだ。ストレスだ。

 最近は毎日投稿やら二作同時執筆やら睡眠不足やらでストレスが溜まっていた。


 ってことで、誘惑に負けて食べちゃったんだ。

 朝食、激辛麻婆豆腐。


 お腹弱いのに食べたのは、自分でもアホだと思うよ? けどしょうがないじゃん! お腹減ってたんだから。

 ストレスは腹いっぱいにしてから汗と一緒に吹き出すって相場じゃない。どっかの神父様も推奨してたし。



 と、まあ自業自得です。すいません。

 刺激物食べてお腹ギュルっちゃったのでトイレに行きたいんです。行かせてください。


 それで行けると思ってた時期が、自分にもありました……



 というのも乗り合わせた電車がですね、満員なんですよ。当然ながら。

 皆さまお勤めご苦労様です。そしてどうか助けて下さい。漏れそうなんです。

 出ちゃいけないもんが! 本体ごと出ちゃいそうなんです!!


「……スゥ………スゥ…………」


 ご覧の通り、呼吸で痛み逃すフェーズはとうに突入してるんです。

 僕の異常な呼吸音お気づきでしょうか皆様いいえ、近い人みんなイヤホンしてるゥーーーーーー!

 ビートに全部掻き消されてるゥーーーーーー!


「スゥ……あ」


 意識を一瞬でも他に向けたのが功を奏したのか、痛みが引いていく。

 だがこれは危険信号だ! この波の引き方を僕は知っている! 嵐の前の静けさとはこのこと!!



 ――――最終フェーズ突入。



 説明しよう。白神はこれまでの人生で自身の便意と向き合い続けた。それゆえ、その周期や危険度の把握に関してはズバ抜けている。


 この痛みは引いているのでは無い。最後のビッグウェーブを放つ前のチャージ期間なのだ。

 さながら某グルメ漫画のナントカファジー。


 ――3分。もったとしても5分が限界だろう。


「やめろ、まだ。まだだ、生まれるな……」


 腹を抱えて祈る姿。喩えるなら海賊王の息子を身篭った女性と同じ心境に違いない。



 ここまで読んで下さった中で、お気付きの方もいらっしゃるだろうか。


『なぜコイツは途中下車しないんだ?』と。


 これには事情があった!

 なぜなら僕は朝、麻婆豆腐を作る横で洗い物を済ませ、洗濯物を干すまでに優雅な朝を迎えてしまった。


 下手に早く起きてしまったせいで「いつもよりちょっとぐらいええだろ」精神で家出るのが遅れた!

 うん、気持ちの良いぐらい自業自得だな!!


 そこへ重なる遅延! 電車は出社ギリギリの時間になってしまいましたとさ。


 そんな訳だ。途中下車はちこくを意味する。それは絶対に出来ない。

「ウンで遅刻しました」なんて言った日にはいよいよ社会人として終わる。



 だが希望はある! それは電車内にあるトイレだ。今それが、車両の縦方向の反対側にある。

 近距離パワー型にはギリギリ届かない距離。それがすぐそこに。


 そして運は回ってきた。駅に着いた。一度扉から降りてから回り込もう。


「あっ、すいま――――」


 鉄!壁!!


 そう、朝のお勤め人たちの目に僕は止まらない。

 低い背丈、腹圧を気にして出せない声、体格差で入り込めない満員の車内。


 完全にロック状態! 身動きもままならない。


「あの、おり、あっ」


 ――――この日、僕は人情というものが作り物フィクションだということを知った。

 無情にも閉まった扉がその答えだろう。


「……終わりだ」


 そして電車は走り出した。


 絶望だった。次の停車駅まで十分を超える長距離区間。耐えられるわけがない。



 ――失意の谷底を拝んだ時、暴龍は目を覚ます。


「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!???」


 梗塞。束縛につぐ束縛。

 ここまで抑え続けていたマントルは濁流となり、激痛となり、地表へ湧き出そうと雄叫びを上げた。


 災厄は来たる。



 ヤバイヤバイヤバイベビー来ちゃうベビー来ちゃう! ラマーズ! ラマーズ!!


「スッスッフー……スッスッフー……」


 グランドフィナーレ目前! 痛みの位置が下腹部へ全集中している。

 このままでは大洪水は免れない!



 ところでごめん、皆そんなに気にならない!? こんだけ息荒くしてるのに!!?


 自分で言うのも問題だけど、こっち出産間近なんだが? 生物兵器を産み落とす寸前なんだが!?


 っと、いかんいかん。まだ冷静でいろ。人間を捨てるタイミングはここじゃない。


 日本人の倫理観は電車内だと席を譲る時にしか発動されない。ここはグランドスラム。そう、云わば戦場なのだ。



 最後の意地を見せる時だ。ここが戦場であれば、最後まで生存を諦めるな!

 兵士とは帰還して、故郷で待つ家族の元へ笑顔で向かうもの。であれば、任務を遂行せよ!



 ――意を決して一歩を踏み出そうとした途端、強烈な重力が横向きに働く。



「にゅっ……」


『えー急停車いたしましたー大変失礼いたしました』


 殺す気かああああああああああああああ!!!!

 急停車の勢いでこっちは急発進寸前だったっちゅーの!!!!


 それどころかウン休になる一歩手前なの!!!!!!


 重力がかかってブツが下に沈んでしまいましたぁぁぁぁぁぁぁぁぁHPも限界でえぇぇぇぇぇぇぇぇす!!!!!



 ……いかんいかん、冷静になれ。当たっても仕方ない。腹はバチクソ当たってるけども。



 とはいえ、意識を保つのも精一杯。



『次は〜○○〜○○〜』


「きた!」


 地獄のような時間に耐え抜いた。ようやっと希望の停車駅ひかりが姿を見せる。


 次のタイミングで扉から出れば、車内トイレに到達出来る!


 そう、思っていた。


「……待てよ、それヤバくね?」


 僕の脳に浮かんだ、数々の可能性。IQマイナス53万の脳みそがこの時ばかりはフル稼働した。


 ――――停車を待てば、詰むということに。


 今現在、トイレは空いている。それは遠目で見て確認済み。

 だが、もし停車タイミングで入ろうとすれば三つの危険が待ち受けている。



【その一、この隙に他の誰かに入られる】


 一番実現し得る最悪のパターン。

 僕の他にも、オアシスを虎視眈々と狙う輩がいるかもしれない。

 そうなっては本末さんもすっ転ぶ。



【その二、人の出入りのもみくちゃ攻撃】


 ただでさえ満員電車。加えて目の前にはガタイの良いサラリーマン数人が控えてる。

 危険だ。いつ打撃をもらって、KOを食らうか分かったものじゃない。



【その三、そもそも出られない】


 さっきの惨劇が繰り返すだけ。無論、切れる手段ではない。



 そして何より! この暴龍を、果たして数分程度で押さえつけられるのか全くの未知数!!

 抑えるのでさえ苦労するコイツは、一体どれほどで処理できるだろうか!?


 次の停車駅でトイレへ向かったとしよう。

 だが、全てが終わった頃には果たして駅へ辿り着けるだろうか?


 否! 乗り過ごすッ! 確実に乗り過ごすッ!!


 辛うじてこの時間にトイレへ突入して、ギリギリ降りられるかどうか。


 生存の道は既に、一つしか残されていない。



「もう、やるしかない」



 そして僕はゆっくりと、ゆっくりと、掘り進めるように人の中を歩いて行った。



「すいません、通してください……」



 きっと僕は泣いていた。泣きべそをかいていた。

 いい大人がみっともなく、震えた声で車内を移動していた。



 多くの乗客たちは「停車駅もまだ先なのになぜ?」という顔を浮かべていた。

 皆が怪訝な表情、珍しいものを見るような目で僕を見つめる。

 恥ずかしい、恥ずかしい、穴があったら篭もりたい。いやトイレしたい。



 願いが通じたのか、道は開け始める。

 モーセが降臨したのか。数千年の時を経て僕に力を貸してくれたのか。


 あれほど激しかった人の荒波は、この時ばかりは凪のようだった。



 一部の人は何かを察したのだろうか?

 それとも泣きべそをかく僕を哀れに思ったのだろうか?

 自然と人々は、その天国の扉までの道を、僕の前に繋いでくれた。



「すいません、ありがとうございます……」



 苦痛と羞恥、そして人の素晴らしさを知った感動。

 人間に生まれてよかった。人間として生きてきて良かった。お母ちゃん、産んでくれてありがとう。


 そんな思いが瞬きの内に頭で錯綜する。



 僕は希望に満ちた顔で、かつて望んだ理想郷へ足を踏み入れた。








 ……さて、貴方がこの話を読んでいるということは、だ。


 語るまでもない。トイレを巡るこの話は現実においてしっかり完結を迎えているということだ。



 だからこの物語はここで終わり。

 この先は、貴方が気にすることじゃないんだ。



 僕がトイレに間に合ったかどうかも。


 僕が今、涙目になって下着を処分する方法を検索していることも。


 気にすることではないんだ……




 みんな、トイレ行きたい人には優しくね!!

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