大好きだよ、水瀬。

海月いおり

大好きだよ、水瀬。

雨が降れば、思い出す。


貴方の姿。

貴方の横顔。


低くて少し掠れた、優しい声。



ずっと好きだった貴方が結婚するなんて。


そんなこと、受け入れられなくて…。


我慢できなくて…。


苦しくて、辛かった。




 ◆




杉岡すぎおか、ちょっと良い?」

「え、水瀬みなせ…。久しぶりじゃん。良いよ、どした?」


総合商社に勤める私、杉岡すぎおか雪菜ゆきな27歳。


定時後、帰ろうと机を片付けていると、同期の水瀬みなせ隆明たかあきが私に声を掛けて来た。



「どうしたの、呼び出しなんかしちゃって。珍しいね」


社内にある休憩スペースに移動し、自動販売機でジュースを買った。


壁にもたれかかってジュースの蓋を開ける。


その間、水瀬は少しだけ俯き、瞬きを繰り返していた。


「杉岡…実はさ、俺…結婚することになった」

「……え?」

「ずっと、付き合っている子がいるって…前に言っただろう。その子と、結婚する。杉岡に1番最初に伝えたくて」

「あ…そう…」


結婚…。


その言葉の響きに、妙な感情が湧き上がる。


「あ…そうって…。怒らないの?」

「何で怒ると思うの」

「いや…だって…」

「私が怒るかもって1ミリでも思っていたなら、言わなきゃ良いのに」

「……」


再び俯いた水瀬を横目に、ジュースを流し込む。


新商品の《イチゴ風味スパークリング》。

美味しいな、これ。


また買おう。


「…杉岡……本当に怒らないのか」

「…何? 結婚なんかするなって怒り狂って欲しいの? 一体何を求めているの?」

「いや…だって……杉岡の気持ちを、踏みにじることになってしまうから…」

「……」


何それ。


何よ...水瀬のバカ。



「……バカ」



水瀬とは同期で同い年。


仕事でもプライベートでも関わることが多くて、良く一緒に過ごしていた。


最近は水瀬の方が部署異動をしてオフィスビルが別になった為、仕事で一緒になることも無ければ、会おうと思わなければ会うことが無くなっていた。


だから…こうやって会うのは久しぶりだった。




そんな水瀬と、”同期”という関係が一瞬崩れそうになったことがある。入社して3年目の頃だったと思う。


仕事でミスをして自棄酒やけざけをしたことが一度だけあった。


そんな時も隣にいたのは水瀬で。


その頃から密かに水瀬のことが好きだった私は、酒の勢いで告白をした。



でも、水瀬には高校時代から付き合っている彼女がいたんだ。


今までそんな素振りを見せなかったから、全然知らなかった。



辛くて悲しかったけれど、それでも諦めの悪い私は…



「彼女がいても関係ない。水瀬のこと、ずっと好きでいるから」


と、頭の悪い宣言を本人にしていた。



…水瀬のこと、今も、今この瞬間も…好き。



結婚するって聞いても、好き。






…本当は結婚なんてするなと。

今ここで、叫びたい。







「で、何? 私に何を言って欲しいの?」

「何とかじゃなくて…」

「……」


煮え切らない態度の水瀬。


結婚するのは自分なのに。

何でそんな態度なのか、全く理解ができない。



「私をバカにしたいわけ? ”お前俺のこと好きだろうけど、俺は他の女と結婚するんだぜ”、的なこと? キレるよ?」

「違う、そうじゃなくて!」

「じゃあなんだよ!! 結婚するな!! 水瀬のことが好き!! 私と付き合え!! こうやって邪魔をすれば満足かよ!!」

「杉岡!!」



怒りが湧き上がり、抑えられない感情。


水瀬は叫ぶ私の体を力強く抱き締めた。



「……何してるのよ!! 同情ならいらない!」

「ごめん、杉岡」

「その場しのぎの謝罪もいらない…っ」



涙が溢れ始めた。


大好きな水瀬。

そんな彼の胸に抱かれ、悲しみと喜びを感じてしまう。



「水瀬…今も好きなんだよ…」

「ごめん…」

「バカ…水瀬のバカ……!!」

「ごめん、杉岡…」



抱き締める腕に力が入れられる。

ぎゅうっと……ていうか、何で水瀬もそんなに悲しそうなんだよ…。


窓に反射して写る私たちの姿。

顔を少しずらして真っ暗な窓に目をやると、悲しそうな水瀬の顔が…嫌でも見えてしまう。



「水瀬…それは結婚する人の顔じゃないよ」

「……」

「もっと幸せそうにしてくれよ!! まだ邪魔ができるのではないかと…僅かにでも期待してしまうじゃない…!!」

「……」

「ねぇ、水瀬…結婚しないで……」



水瀬は…何も言わない。

ただただ無言で、私を抱き締める。



「でさー、この前部長がさ~」

「……」



暫く抱き締め合っていると、遠くから声が聞こえて来た。


その声にお互いが焦って体を離し、顔を見つめ合う。



「…杉岡、もう帰れる?」

「……うん」

「一緒に…帰ろ。もう少し、杉岡と話したい」

「……」



どういうつもりなのか。

水瀬の考えが全く分からない。




 ◆




外に出ると、雨が降っていた。


ザーザーと、割と強めに降っている雨。

鞄に常備している藍色の折り畳み傘を差して、隣にいる水瀬に視線を向ける。


彼は鞄を漁りながら「あれ、忘れたかな…」と呟いていた。



「杉岡…ごめん。傘忘れたみたい。一緒に入っても良いかな」

「………良いよ」


私の手から傘を取り、肩をぶつけながら歩き始める。


「……」



私が濡れないように、傘を左寄りに向けられる。

傘に守られていない水瀬の右肩は、雨に濡れ水が滴り落ち始めていた。



「ごめんね、いつも鞄に入っているんだけどね…」

「……」



知っている。

今この時も、水瀬の鞄の中には折り畳み傘が入っていること。




出会った頃、今日のように雨が降っていた日。


傘を持ち歩く習慣の無かった私は、雨に打たれながら会社を後にしたことがある。

そんな私を追い掛けて走ってきた水瀬。



『待って、これ使って』

『水瀬…くん』

『いつも傘を持ち歩いているんだ。急な雨って、良くあるじゃない?』

『…でも、これ借りたら水瀬くんが…』

『大丈夫。もう1本ある』

『ふふっ…。ありがとう、水瀬くん』



今でも目に焼き付いている。

子供のような笑顔を浮かべ、社屋に走って戻る水瀬の姿。



あの日から私も、鞄の中に折り畳み傘を入れるようになった。



いつどんな時も、傘が出てくる水瀬の鞄。



だから…今日だけ入っていないなんて。

私の知る限り、有り得ない。





無言で歩き続ける、私と水瀬。


ずっと触れている肩から感じる仄かな体温。

すぐそこで感じる水瀬の存在に、胸が熱くなる。



「杉岡、今も楽器弾いてるの?」

「…あぁ…ピアノのこと? うん、まぁ…たまにね」

「そうか。…1回、駅に設置されているピアノを弾いて聴かせてくれたことがあっただろ。あれ…凄く好きだった。今もあの時の音色が、頭に残っている」

「………そう」



水瀬と外回りをしていた頃、立ち寄った駅に置かれていたストリートピアノを弾いたことがある。


それを聴いた水瀬は涙を流し、手を叩いて喜び感動をしてくれた。




…けれどそれ、入社してすぐくらいの話だったけれど。




そんなこと、覚えているなんて。



「………」



辛い。

懐かしい記憶が蘇り、水瀬への好きが溢れ出る。


水瀬…結婚をするなんて。


その話自体が嘘だと思いたくて。

信じたくなくて。


苦しくて…涙が零れそうになるのを…耐える。


「…杉岡、夜景…見て行くか」

「……夜景…」

「あいにくの雨だけどな」

「……」



水瀬がどういうつもりか分からないけれど。


このまま…時が止まれば良いのに…。


そんなこと思い、せっかく耐えた涙が結局零れ落ちた。




 ◆




駅の近くにある夜景スポット。


海を挟んだ対岸にある建物がキラキラと輝きを放つ。

雨の効果もあり、いつも以上に輝いている気がする。


「……」


私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる水瀬は、時折私の顔を覗き込み微笑んでくれる。



ずっと雨に濡れたままの右肩。

その指からは、際限なく水が零れ落ちていた。


「水瀬…風邪引く」

「俺が傘を借りている身だから。このくらい平気」

「水瀬に風邪引かれると、彼女さんに申し訳ないじゃん」

「……杉岡…」


涙がまた零れると同時に左を向き、水瀬から顔が見えないように背ける。


…雨に打たれてみようかな。

そうすれば、溢れて止まらない涙を見られなくて済むのに。


「ねぇ、水瀬。結婚するな…」

「…」

「水瀬…好きなんだよ…」

「……」

「…って思うけれど、彼女さんは幸せだね。高校の時から付き合っているんだよね。もう…10年は経つかな? 凄いよね、結婚までいくなんて。本当に一途と言うか…何と言うか…」


そこまで言って…水瀬の顔を見た。


止まらない涙。

それでも無理して微笑んでみると、水瀬は唇を噛みながら…私を抱き締めた。


水瀬の手から落ちた藍色の傘は、数回バウンドして足元に止まる。


「………水瀬」


私も水瀬の腰に手を回し、そっと力を入れた。


ザーザーと降り注ぐ雨が私たちを濡らし、街灯が私たちを無言で照らす。

髪の毛から水が滴り落ち始めるが、それすらも気にせず…そのまま水瀬と抱き締め合った。


「ごめん、杉岡。本当は…好きだった。出会った頃から…ずっと」

「……な…何それ。なら、彼女と別れてくれたら良かったのに…」

「………ごめん」

「……」


『ごめん』という一言で、それがどういう意味を表しているのかが分かった。


彼女さんには勝てなかった。

それに、尽きるのだろう。


水瀬の腰に回している手に更なる力を込め、濡れて重たくなっている背広を掴んだ。

それに反応するように、水瀬も同じように私のカーディガンを掴む。


「…水瀬って、意地悪だよね。結婚するって報告して、こうやって私を抱き締めて…好きだったなんて言って、惑わせるんだから」

「……ごめん、それでも…伝えたくて」

「私は、聞かなければ良かったって…思っているよ。聞かなければ、潔く水瀬のことを諦められたのに」

「…ごめん」

「やめて。もう謝らないでよ…」


顔を上げて、水瀬の顔を下から見つめる。

すると水瀬もまた、私の肩に埋めていた顔をこちらに向けた。


「…何で水瀬が泣きそうなんだよ」

「……」

「さっきも言ったけれど、それは結婚する人の顔じゃないよ…」

「……」


唇を噛み締めた水瀬の目からは、大粒の涙が溢れ始めた。

雨に負けないくらい大きな粒が顔から零れ落ち…私の頬に着地する。


「ごめんっ、好きだよ…杉岡」

「……」

「ずっと、好きだった…」

「…言わないで」

「雪菜…好き…」

「もう……もう、言わないでよっ!!!」

「……っ」


水瀬に向かって大きな声で叫ぶと同時に…口を塞がれた。


濡れて冷え切ったお互いの唇。

冷たくてしょっぱくて…震えている。


「み、水瀬…ふざけないで! 私のことを馬鹿にしたいの!?」

「違う」

「じゃあ何よ今更!! 何言っても結婚するんでしょ? なら…止めてよ…」

「……」

「止めて…これ以上、水瀬のこと好きになりたくないんだから…」



足の力が抜け、崩れ落ちるように座り込んだ。



更に強くなった雨が、容赦なく私を打ち付ける。



大好きな、水瀬。

今も残る…唇の感触。



…どうせ、この想いが成就しないのなら。



…このまま。

この複雑な気持ちのまま、海に飛び込めたらいいのに。



でも実際…そう思うだけで、そんな度胸は無い。



水瀬…。


水瀬……。





水瀬、あなたが他の人と結婚をしても。



私はずっと…あなたのことを好きなままで、居てもいいですか…。





 ◆




その後、水瀬は本当に結婚した。



本当にって言い方はおかしいけれど。

ちゃんと…結婚した。



一応結婚式の招待状も貰っていたけれど、行かなかった。



行けないよ。


泣いてしまう自信しかない。




「杉岡さん、外線11番にお電話が入っております」

「あ、はーい」




今日も変わらず、お仕事。




水瀬とは、あの夜から顔を会わせていない。



でも、もう良いの。



会おうとしなければ会わないし。


水瀬もわざわざ会いに来ることも無いだろうし。



「はい、かしこまりました。それでは、失礼致します」



……大好きな、水瀬。



私の心の傷が癒えるまで。

水瀬に『結婚おめでとう』と、言えるその日まで。




あの日の夜の水瀬だけは

いつまでも、私の胸の中で———……。













大好きだよ、水瀬。  終






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