第3話 血の気の多い令嬢



 あの日から、流血美形がずっと脳裏に焼き付いて離れない。



「はぁ…せめて名前くらい聞いておくべきだったかしら」



 一体何処の誰なのだろう、あれだけ美しい容姿をしていたら噂にでもなっていそうだけれど、いかんせん噂話で散々嫌な思いをしているせいで、噂話に興味を示す事が全くなかった。


 焼き立てのアップルパイを一口含めば、シナモンと林檎の香りが口腔内にふわりと広がって溶けていく。


 ブランジェ家に見放されてこの離れの小さな物置小屋での一人暮らしもすっかり長くなった私は、アップルパイすら小麦粉から生成できるまでの腕前になってしまった。


 どんな環境下でも弱る事なく生きる術を体得していく己の生命力の高さには自分でも驚いてしまう。



 次のシーズンのコスメはどういうデザインの物にしようかしらと頭を悩ませていると、コンコンと戸を叩く音が室内に響いた。


 こんなボロボロの小屋に尋ねてくるのはフロランしかいない。継母もあの父親も私がここで暮らし始めてから一度も様子を見に来た事はない。


 あの人達からしてみれば、私が生きていようと死んでいようとどうでも良いのだと思う。おかげで私は会社を経営する事ができている。



 きっとフロランだわ。そう思って髪型が乱れていないか鏡で確認してから扉を開くと、そこにいたのは珍しい淡いピンク色をした長くて美しい髪を靡かせている義妹のティファニーだった。


 そういえば、この物語をお読みになってくれている方々に彼女の説明をまだきちんとしていなかったわね。


 誰からも愛されてしまう容姿と性格のティファニーは、いつ見ても童話のヒロインを具現化したかの如き出で立ちだし、完璧なまでのお姫様だ。



 相変わらず嫌味なくらい眩しい女ね。何で後光が差しているよ、太陽は真上だってのに。


 余りにも私と彼女とでは違い過ぎる。私にも彼女にもクソッタレ親父の血が半分流れているはずなのに、どうしても似つかない。



「あら、ご機嫌よう。珍しいお客様ね、何かご用かしら?」



 ティファニーに惚れた男は数知れず。彼女に会いたいが為に花束や貢ぎ物を持ってブランジェの屋敷へ訪れている殿方をもう何人も見て来た。


 何もかもを持っている癖に、フロランまでも自分の物にしてしまった彼女は本当に性格が……。




「ご機嫌ようジゼル。随分と古くて汚い小屋でしたので戸を叩くのを躊躇ってしまいましたわ」




 死ぬ程悪い。


 あーん?何て言ったかこの小娘。瞳をきゅるんきゅるんさせて言う事じゃないだろ絶対。


 流石あの女の娘と言うべきか、あの男の娘と言うべきか…私以外の人間の前では決して襤褸ぼろは出さないし、寸分の狂いもないお姫様の仮面を見事に被っているけれど、このティファニー・ブランジェの本性は…。



「フロラン様が会いに来て下さる予定なのですが、まだお見えにならないのでもしかするとここに住んでいる魔女の様な女が自分が婚約者になれなかった嫉妬に狂って毒でも盛っているのではと心配になってわざわざこうして尋ねたのです」



 多分、いや絶対にこっちだ。


 にっこりと破顔した彼女の周りには花が咲き乱れている幻覚すら見えてくる程には可愛い顔をしているのが厄介だ。


 私が黙って聞いてれば言いたい放題してくれちゃってるわね。短気な私にかかれば既に腸が煮えくり返りそうなまでの苛立ちは覚えているが、ぐっと呑み込む。


 ここで下手に彼女のプライドを傷つけたら秒速で両親に暴露され、怒りに狂った二人からどんな仕打ちをされるか分かったもんじゃない。それで万が一にも私がこっそりと偽名を使って会社経営をしていて、しかもブランジェ家よりも稼いでいるという事が露呈でもしたらあの二人は会社の経営権を絶対に狙う事だろう。


 お母様が遺して下さった宝石やドレスで起した会社を守る為なら、こんな小娘の挑発に対する怒りくらい何度でも呑み込んでやるわ。



「あはは、何を言っているかしらティファニーったら。ここには私一人しか住んでいないわ、魔女なんて何処にもいないわよ?フロランの姿はまだ見ていないし、ここを尋ねてもいないわ。もし見かけたらティファニーが待っていたって伝えておくわね」



 正直申し上げて、こんな女に寄越す笑顔なんて本来ならば一切持ち合わせていないけれど、ぐっと無理矢理口角を上げて笑みを貼り付ける。


 私の反応にあからさまに相手が青筋を立てて頬を引き攣らせたのが分かった。



「結構ですわ。フロラン様なら婚約者の私に会いたくて会いたくて急いでいる事でしょうから、見かけてもわざわざ呼び止めないで下さいませ。フロラン様がいないのなら私は帰ります、さようならジゼル」



 大いなる海の如き寛容な心で許してあげたけど、普通にお姉様くらいつけなさいよ。


 よくこんな本性を綺麗に隠して生活できてるわよねこの女。


 彼女が踵を返せば派手なドレスの裾もふわりと踊って翻る。最後に私を一瞥して睨みつけたティファニーは、お住まいのブランジェの屋敷へと戻って行った。



「ティファニーの香水の匂いが一生残ってるわね、クソ」



 小屋の外のベンチに腰を下ろして、私が手入れしている目の前の花壇をぼんやりと眺める。


 もうすぐで夏になる事を知らせる様に、花壇に影を作っている木々は青々とした葉をつけている。



 あと少しだけ会社が成長できたら、自分だけの屋敷でも建ててさっさとここから出てやるわ。


 森にある小屋で流血していた美形の怪我は良くなったかしら。早い物であれから二週間が経つらしいけれど、彼の美しさと色気は昨日の事の様に鮮明に覚えている。


 かなりの大怪我だったからその後どうなったのかだけは気がかりだ。



「ジゼル」



 外に出たついでにと周辺の掃き掃除をしていると、微かにフロランの声で名前を呼ばれた気がして動かしていた手を止めた。


 やだ、もしかしてフロランとティファニーの婚約にメンヘラを起こしちゃっていよいよフロランの声の幻聴が聞こえ始めたとかではないわよね?


 そう思い視線を持ち上げて、声のした方角へとそれを伸ばした私は、自らの視界が捉えた光景に吃驚した。



「フロラン!?!?」



 そこにはちゃんと実物のフロランの姿があった。だけど「良かった、願望が強過ぎるが故の幻聴ではなかった」と安堵する暇はなかった。



「フロラン、一体その怪我はどうしたの?」



 何故なら私の目線の先にいる彼は顔中が腫れ、内出血を起こし、本来ならば陶器の如き肌が青紫色になっていたからだ。


 私の大切なフロランのお顔が!!!国の宝である美しい顔が!!!何て有様なの!!!



 可愛らしさを繕う事も忘れて箒を反射的に投げ捨てた私は、秒速でフロランの元へと駆け寄った。



 酷い…顔の至る所に痣ができている。明らかに転んだ程度ではならないであろう傷つき方に言葉を失う。


 大切な人の変わり果てた姿に、私は無意識に眉間に力を入れ、怪訝な表情を浮かべていた。



「フロラン、何があったの?」



 これは間違いなく何者かによって殴られた傷だ。それも一発や二発じゃないし、相手が一方的に強かったであろう背景も見えてくる。


 投げかけた質問を受け取った彼は、自嘲的な笑みを浮かべて恥ずかしそうに片手で自らの髪を搔き乱した。



「あはは、全然敵わなかったんだ」

「……」

「今日もクロード・シャルリエ第二王子と仕事の話をする機会があったから、今日こそは絶対に契約を結ぶぞって意気込んで向かったんだけど、相変わらず話が平行線のまま進展しなくて…そしたらクロード・シャルリエが俺に素手で勝負して一発でも拳が入れば全て僕の提示する条件で契約を結ぶって言ってきて、相手はお客様だし何より王族の人間だから断れなくて渋々その提案を受けたんだけど、やっぱりボロボロになっちゃった」



 プチン。話しにくそうにフロランが事の経緯を説明し終えたとほぼ同時に、私の中で怒りを制御する何かが切れた音がした。


 おのれクロード・シャルリエめ。王族だか何だか知らないけど、どんな権限を持っていようとも私の大切なフロランを傷付けるのだけはこの私が許さないわ。


 こんなにも美しい顔をよくもボコボコに殴れたわね、美しい物を愛でる心がない奴なのはこの時点ではっきりと分かったわ。



 誰がどう見ても百パーセント弱いであろう温室育ちのフロランに、断れないと分かっていながらタイマンみたいな事を吹っ掛けるクロード・シャルリエはやはり性格が悪い。



 ここまでの憤りを覚えるのは人生で初めてだった。早々に腹を括った私はフロランの手をぎゅっと握って最後の別れを告げた。



「フロラン早く手当てをしてね。冷やさなくちゃ駄目よ、貴方の仇は私が責任をもって討つわ」

「え、ブランジェ、一体何を…「さようなら、フロラン」」



 戸惑いに満ちた表情を浮かべる彼が何かを言いかけていたが、この時の私にはそれに耳を傾ける余裕など持ち合わせていなかった。


 フロランに背を向けて歩き出した私は、人生が終わる覚悟で敵討ちへと出発した。




 クロード・シャルリエ首を洗って待ってなさい、私がぶっ殺してやるわ。




第3話【完】





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