迷子のなり方

尾八原ジュージ

迷子のなり方

 ある日突然小さくなってしまったら、まずは今いる家を出ていかなくてはならない。この家には猫がいるからだ。親指くらいのサイズになった私のことを、猫はきっと喜んで弄ぶだろう。

 親指くらいのサイズになってしまった私に、持ち物なんかいらない。財布、スマートフォン、銀行の通帳や認印、高かったワイヤレスイヤホン、お気に入りの単行本。こんなものはとても運べない。小さな指輪だって今の私には重すぎる荷物だ。だから身一つで家を出る。

 そして、新しい家を探す。なるべく早く。集合住宅がいい。とにかく猫がいないところがいい。できたら犬も。判断は素早いに越したことはなく、私は通りを一本挟んだところにある大きなマンションを目指すことに決める。道路を一本渡るだけで三回ほど死にかける。

 マンションの足元に立つと、まるで巨大な岩壁の下にやってきたかのようだ。うす緑色の壁が垂直にそそり立ち、そのてっぺんは遥かな空へと溶けたようになって見えない。階段はとても越えられないから、私はスロープを伝っていく。

 入口はオートロックだ。けれどもここまでの苦難を思えば、諦めるわけにはいかない。どうしたものかと考えている最中、ちょうど住人が帰ってくる。私はその人のよく磨かれた革靴を追いかけるように、しかし蹴り殺されないように注意しながら、一緒に自動ドアをくぐる。その人は私に気づかない。足元に親指サイズの人間がいるかもしれないなんて、普通は思わないものだし、その人も例外ではない。

 エレベーターに乗る。入口の段差は少し大きすぎるので、少し離れたところから助走をつけ、えいやっと跳んで中に入る。出る時も同じだ。廊下をすたすたと歩く住人の後ろを、わたしは走ってついていく。靴墨の匂いがする。

 住処が何号室かなんて、そんなこと私には関係がない。少なくともこの部屋から出ていかない限り、そして出て行った先で手紙を送ろうなんて気にならない限りは。それよりもこの家に猫がいないか、あるいは犬がいないかということの方が重要だ。犬だって私を見れば弄びたがるか、部外者と判断して排除したがるかのどちらかだろう。幸いこのマンションはペット禁止で、住人はルールを守るタイプらしい。いかなるペットもこの部屋にはいない。

 新しい住処には、子供がいるのが望ましい。子供なら話し相手になってくれるが、大人はそうはいかない。親指くらいの大きさの人間に話しかけられたら、悲鳴を上げるか、「疲れてるのかな」と呟きながら病院に電話をし始める。でも、小動物を見たらいじめるような子供は避けた方がいい。そんな子供は、小人間だっていじめたがるに決まっている。

 さて、この家には子供がいる。おとなしく愛らしい女の子で、小さくなってから一緒に暮らすには理想的な相手だと言っていい。その子は病弱らしく、一日のほとんどをベッドの上で過ごす。子供部屋の一角には医療用らしきなんらかの機械が置かれ、稼働音をたて続けている。

 女の子のベッドは出窓のそばにあり、出窓にはドールハウスが置かれている。よくできたドールハウスで、特にベッドルームが素晴らしい。緑色の落ち着いた色の壁紙に、おそろいの寝具、そしてカーテン。どこかに電池でも入っているのか、天井のライトは本当に点灯させることができる。小さな本棚まであるが、当然ながら本は偽物だ。しかし見た目はやはり素晴らしい。私はこのドールハウスを拠点と定める。ベッドに横たわり、すると引っ越しの疲れが出て、ぐっすりと眠ってしまう。

 目を覚ますと、部屋の主たる女の子が不思議そうに私を見つめている。私は慌てて起き上がり、手櫛で髪を整える。そして女の子に、勝手にドールハウスに住み着いた非礼を詫びる。子供が喜びそうな踊りをひとつ披露する。女の子はくすくす笑い、さびしさがまぎれてちょうどいいと言う。

 彼女は病気のために学校に通えず、友達もいない。テレビやタブレットの画面を見ていると目がちかちかしてきてしまうし、本の重さは手に余る。私はなるべく彼女の暇を紛らわす手伝いをすると誓い、彼女は必要な物品を可能な限り調達してくれることを約束する。

 かくして私たちの共同生活は始まる。危険を冒し、はるばるやってきた労苦に値する、じつに理想的な生活だ。小さくなった私は植物のように無欲になり、あらゆる食品を受け付けなくなって、排泄も必要ではなくなる。あんなに好きだった鶏のから揚げや小エビのサラダなどには一切興味がなくなり、女の子からわずかな水をもらう以外は、日光浴で栄養を補給できる。ドールハウスには水洗トイレも冷蔵庫もガスコンロもないから、この変化はとても助かる。

 女の子は私に水を提供し、ドールハウスを傷つけない限り自由に使うことを許してくれる。彼女の両親が様子を見にやってくるときは、私が隠れる時間を稼ぎ、見つからないように心を砕いてくれる。私はそういうとき、可能なかぎり素早く動いてベッドの影に隠れる。

 人がいなくなると私は姿を現し、彼女とおしゃべりをする。今まで読んだ本の内容をかたっぱしから語る。付箋紙をもらってそこに絵を描き、ドールハウスの部屋の壁に貼ってみる。

 ある日、女の子が私に尋ねる。

「コンスタンという人が書いた『アドルフ』って本を読んでみたかったの。むかし、お父さんの本棚で見つけたんだけど、お父さんは貸してくれなかったの。あなた、どういう内容か知ってる?」

 私は正直に答える。「ごめんなさい、全然知らない本だ」

 女の子はにっこり笑って、「なら、あなたが考えたお話でいい」と言う。

 そこで私は『アドルフ』について、タイトルから思いつくかぎりの妄想をしゃべり続ける。その昔、アドルフという大きな犬がいて、あんまり大きいから毛並みの中にちょっとした街ができる。人々はアドルフの背中に家を建て、畑を作って暮らしている。それでアドルフは、背中がなるべく地面と平行になるよう、いつも注意して過ごしている。ところがある日、アドルフはぐっすり眠ってしまう。あまりにも深く夢の世界に入り込んでしまって、なかなか目覚めない。犬の背中は揺れ――

 ふと気づくと女の子は枕に頭を預け、青白いまぶたを閉じて静かな寝息を立てている。私も眠ることにする。電灯を消し、ドールハウスのベッドにもぐり込み、おやすみと声をかける。そして、大きくて黒い犬の夢を見る。

 素晴らしい生活はやがて突然の終わりを迎える。ある朝目が覚めると私は元の大きさに戻っている。ドールハウスは全壊し、私は出窓から転がり落ちて床に倒れている。

 女の子がびっくりした顔でこちらを見つめている。私はドールハウスを壊してしまったことを詫びる。女の子はまだびっくりしているが「いえ、いいの。しかたないわよね」と許してくれる。そこに彼女の父親がやってきて、突然現れた普通のサイズの見知らぬ人間に驚く。私は不審者と判断され、女の子のフォローもむなしく、問答無用で追い出されてしまう。

 仕方がない。私は元の家に戻ることにする。マンションのオートロックは、内側から出る分には自由だ。もう階段を降りるのに何の支障もない。道路を渡って死にかけることもない。すぐに昔の住まいにたどり着く。

 インターホンを押すと、ルームメイトが顔を出す。「ああ、ひさしぶり」と、無感動な声で出迎えてくれる。ふらっと旅に出ていたとでも思われているのだろう。猫がやってきて私の足に体を擦りつける。

 スマートフォンにはたくさんの通知が届いており、それをひとつひとつチェックしていく過程で、私の体は元の生活へと、強制的に馴染まされていく。ほうほうのていでメールの返信を終えた私は、ネットショップでコンスタンの『アドルフ』を注文する。

 翌日、郵便受けに『アドルフ』が届く。薄くて軽い文庫本だ。これならあの女の子も、華奢な手に持って読むことができるかもしれない、と私は思う。さっそく読んでみる。当たり前だけど私が語ったものとはかけ離れた内容で、なるほど子供には早すぎるかもしれない。

 本を読み終えた私は、当たり前のようにあの女の子に会いたくなる。本の話をしたくてたまらなくなる。私は『アドルフ』を持ち、通りを渡って、あのうす緑色のマンションへと足を運ぶ。

 入口のインターホンで部屋番号をプッシュしようとして、私はあの子が住んでいた部屋が何階の何号室か知らないということを思い出す。私はマンションを飛び出す。ドールハウスが置かれた出窓を探そうとするが、どんなに見上げても見つからない。上の方の窓がよく見えない。少し遠ざかってから振り返る。まだ見えない。今度はもう少し遠くから。まだまだ見えない。そうやって少しずつ遠ざかっていくうちに、いつの間にか見たことのない道にやってくる。もう少し。まだ見えない。もう少し。

 そうやって私は、いつしか知らない街に足を踏み入れてしまう。帰り道を見失い、今となっては自分がどこにいるのかすらわからない。ただ『アドルフ』だけは持っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

迷子のなり方 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説