深海の姫、光に焦がれて

こくまろ

深海の姫、光に焦がれて





 その日、霧浦村に奇妙な噂が流れた。

 漁に出た船の網にがかかったという。

 それは人のような魚であったらしいとか、誰かがそれを食べただとか、いやいや珍しがった誰かが連れ帰ったのだとか、はたまた海に還したらしいとか、いかにも曖昧模糊としたものだった。

 話す者によって形を変える煙のような噂には確かに火元となる事実があったのだが、それを知るはずの漁師連中は一様に固く口を閉ざした。

 噂話の常として、数日も経つと話題に挙げるものはいなくなり、寄せては返す波の音の中にかき消えていった。











「どうしても、行くのですか」


 答えの分かりきった問いを、ルチェはそれでもせずにはいられなかった。放たれた問いの先にいる相手は、黙ってじっとルチェを見つめ返したが、その瞳に映る固い意志が何よりも雄弁に答えを語っていて、それでもう彼女は何も言えなくなってしまった。


 深海漸深層。陽の光がほとんど届かず、生き物達の放つ光で煌めく闇の世界。その暗がりに広がる王国があった。

 ルチェはそこで生まれ、今まで生きた人生のほとんどを王宮の仕事のために費やし、さらにその半分以上は、この王国の姫君の侍女として仕えて過ごしてきた。


 セレーネ姫。この王国のたった一人の姫君。深海の至宝。

 深海に棲む者なら誰もが、その地位だけではなく、彼女の美しさの前に傅かざるを得なかった。

 民に慕われ、この国の豊かさの象徴であるような姫君だった。昨日までは。


「今までありがとうね、ルチェ。これまであなたは、本当に良く尽くしてくれました。そして、ごめんなさいね」


 セレーネから放たれた言葉が空しく自分をすり抜けていくのを感じながら、ルチェはさっきまで自分がそうされたように、黙ってただ相手を見つめ返した。


 ルチェとセレーネは、深海の中域、王国とその外を分ける境界線近くにいた。尾鰭で水を一撫でするだけで国の外に出られてしまう、国のきわ


 セレーネは今日、この境界を越えて、たった一人で国を去る。自らの意思で、国から追放されるという形をとって。


 ルチェは、使用人としてながらも、煌びやかな王宮で過ごせることも、美しい姫君の世話を任される仕事にも満足していた。ずっとこの日々が続けば良いと思っていた。しかし、セレーネはそうではなかったのだった。


「私、どうしてもこの海の外の世界を、光で溢れる世界をこの目で見てみたいの。お父様にも、あなたにも、本当に申し訳ないと思っているわ。それでも私は……」


 幼い頃からセレーネが光というものに惹かれていることを、ルチェは知っていた。

 深海には自らの身体から光を発することができる者が多くいて、彼女が王宮の外に出た際に、しばしばそうした者達の光に目を奪われていることにルチェは気付いていた。

 ルチェ自身もそうした発光器官を腹部に持っていて、セレーネはその冷たく青い光を非常に気に入っていた。お互いの他に誰もいない時、よくセレーネは間近に顔を寄せてルチェの光を愛でたのだった。ルチェはそうした時の彼女の恍惚とした表情を見て、誇らしさと背徳感とが入り混じったような感情が湧き上がるのを感じていた。側近として仕えるように声をかけられたのも、この光のためだったのではないかと密かに思ったりもしたものだった。

 ルチェは、こうした関係がずっと続くのだと信じていた。しかし、今思えば泡のように儚い期待だった。セレーネの光への執着は、ルチェの予想を越えていた。セレーネが望む光は、私の光などよりずっと激しいものだった。


「私には……姫様のことがやはり理解できません。この国を捨ててまで……光溢れる世界とは、この優しい闇に包まれた深海よりも、そんなに素晴らしいものでしょうか」


 光溢れる世界。この海の遥か上。陸のある世界。

 国に危険を齎すとして、そこに行くことは古い掟で固く禁止されていた。ましてや王族は、海の表層に近付くことすらすべきではないとされていた

 ただ、一度だけセレーネは、事故で海の表層付近まで流されてしまったことがあった。遊泳中に上昇する海流に巻き込まれてしまったのだ。もちろん、護衛がすぐに彼女を発見し無事に帰還した。しかし、おそらくその時だったのだろう。セレーネの眼に光が焼き付いてしまったのは。セレーネの中に消えない光が宿ってしまったのは。

 あれ以来、一度で良いから海上に行ってみたい、あの光を直接この目で見たいのだとセレーネはよく漏らしていたが、所詮叶わぬと分かっている願望を慰めとして口にしているだけだと、ルチェを含めて誰もが思っていた。

 しかしセレーネは本気だった。夢を実現するために、的確で強行的な手段を取った。


「……どうしても諦められなかった。だから、こうするしかないと思ったの」


 王国に古くから伝わる呪いの薬があった。

 光で溢れる、陸の世界を支配するという生き物、人間。その薬の効果は『』というものだった。

 元々は国を滅ぼそうと企んだ深海の魔女が王族に飲ませようとして創り出したと言われる薬であり、飲むことは決して許されず、かといって呪いを恐れて捨てることもできずに代々受け継がれてきた、王国第一級の禁忌だった。

 深海に棲む者達にとって人間は未知と恐怖の対象であり、飲んだ者は国に災いを呼ぶとされ、例外なく国から追放される掟だった。

 セレーネはそれを逆手に取った。国を追放され、自らの望む世界へ行くために。


「あなたが初めて私のもとに来てくれた時のことを今でも覚えているわ。これまで、あなたが側にいてくれたお陰で私は……」


 セレーネがまだ何かしら話し続けていたが、ルチェには彼女が何を言っているのか全く分からなかった。


 呪いの薬には、国から追放される以外に、もう一つ大きな代償がある。

 『』という薬。その副作用として、飲んだ者は『』のだった。


 ルチェにはもう、セレーネの話す言葉が理解できない。セレーネにも、ルチェの話す言葉が理解できない。深海に生きるあらゆる生き物の言葉が、セレーネにはもう理解できない。お互いに、相手が何かを語りかけているということは分かっても、その意味は取れない。


「せめて……どうして……どうして私を一緒に連れて行ってくださらなかったのですか……私にも同じ薬を分けてくだされば……」


「もしも……もしも一緒に行きましょうと私が誘ったら、あなたは来てくれたのかしら……」


 二つの生き物の言葉は悲しいほどにすれ違い、交わることはなかった。手を伸ばせば届きそうな運命に、もはや言葉では辿り着けなかった。それでも両者とも、それ以外に心を通わす方法を知らなくて、お互いがお互いを想い、もう届かないと知りながらも言葉に縋るしかなかったのだった。


 やがて、セレーネは未練を振り払うようにかぶりをふって、ルチェに背を向けた。ルチェはいよいよ決別の時が来たことを悟った。


「光の世界に行ったらね」


 振り向かないまま、セレーネは話した。


「人間とも話をしてみようと思ってるの。薬の効果で、私が話せる相手はもう人間しかいないしね。案外ね、人間も私達とそんなに変わらないんじゃないかと思ってるの。姿も、考え方も……」


 セレーネが何を話しているのかルチェには分からなかったが、彼女の視線がもう海の遥か上方しか見据えていないことは分かった。


「いってらっしゃいませ。どうか、お気を付けて……」


 ルチェの言葉を受け取ったかのように、セレーネの尾鰭がしなやかに動き、彼女の身がぐんと上方へ跳ねた。小さくなっていくセレーネの姿を見つめながら、ルチェは彼女のために祈った。


──光が心を捉えて身を焦がすものだとしたら、貴女こそが私にとっての光だったのです。これからあの尊いお方を包む光が、どうか優しいものでありますように。











 その日、霧浦村に小さな事件が起こった。漁に出ていた船の網に、一匹の巨大ながかかったのだ。皮色は毒々しい青黒さで、体長は大人の背丈ほどもあった。見た目から、おそらく深海魚だろうと思われた。

 それだけなら大して珍しくもないのだが、網を船に引き上げた際に銛でとどめを刺した漁師が言うには、その魚が息絶える直前に人間の言葉を喋ったという。まるで地獄の底から響くような恐ろしい声で『』と言ったように聞こえたと。

 船の仲間達は、その漁師がつまらない嘘をつくような奴ではないと長い付き合いの中で知っていたし、何よりも彼の青褪めた表情がその真実性を物語っていた。

 港に帰って他の漁師仲間にも相談したが、なんといっても魚の発したという最期の言葉の意味が議論の的になった。

 『』とは一体なんのことなのか。海の神の怒りだろうか。いや船の錨のことではないか。

 話し合ったところで答えには辿り着けず、唯一その解答を知るであろう肝心の深海魚はもう既に息絶えているのであり、喋ることはおろか二度と動くことはないのだった。

 結局、漁師達の出した結論は『この話は一切他言無用』というものだった。人の言葉を喋る不気味な魚は凶兆のように思われたし、そんなものがこの村の港で揚がったと評判になれば、周囲の町村に魚が売れなくなって困るからだった。

 謎は謎のままとして、せっかく獲った魚は食ってみようじゃないかと、腹身の部分を切り取って食してみたが、えぐ味が強くあまり旨いものではなかった。

 陸に揚げられ、身の一部を食い荒らされた深海魚は、船の上で感じさせたような不気味な神秘性をもはや失っており、ただの不細工で巨大な不味い魚でしかなかった。

 結局、一部の物好きだけが工夫して食べると言って少量の身を家に持ち帰り、残りの部分は海に破棄されることとなった。




「結局『イカリ』ってのはなんやったんやろうなぁ」


 件の深海魚を沖に捨てた帰り途、漁師二人が船の上で煙草をふかしながら雑談していた。


「俺ぁな、あの魚はひょっとして『』じゃあなくて『』って言ったんでねぇかと思ってんだよな」


「でも昼間ならともかくよ、。」


「馬鹿、おめぇ、あれが獲れたのが何の船やったか聞いとらんのか」


「あぁ……イカ釣りの船やったっけか。確かにイカ寄せの光は馬鹿みてぇに眩しいからなぁ。イカと一緒に光につられて来たんかもなぁ」

 


 セレーネが死の間際、眩い人工の光を全身に浴びて何を思ったのか、もう誰にも分からなかった。

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深海の姫、光に焦がれて こくまろ @honyakukoui

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