焔が宿る路をゆく

鈴ノ木 鈴ノ子

ほむらがやどるみちをゆく


 木曽の宇宙そらが迫り来た。

 十重二十重と宝玉の輝きを魅せる星々が無造作に散りばめられて、白濁を煌めかせた天の川は緩やかに流れ下っては、川底の綺羅星達を薄く隠している。


 夏の夜空は誰しもに平等で優しい。

 それがロープを携えて自らの最後の地を決めあぐねて流離う1人の女にもだ。

 夜空の闇を溶かした未舗装の山道を唯ひたすらに登っている。乗ってきた軽自動車は舗装路が途切れると石へと乗り上げて動かなくなった。

 最後まで付き合いたくないとでも言っているようで、私はロープのみを持つと車を見捨てて夜道へと足を踏み出した。ドアを閉めるとやがて室内光が途切れた途端に闇が全てを包んだ。

 木々の間から見える光る闇のみが灯りとなって全てが黒々と染まる。フロントガラス越しに小さな赤いライトが点滅を見せている。そう言えばさっきパトカーとすれ違ったなと全く関係ないことを考えて見つめては、点滅の間に時より見たこともない女の顔が見えたような気がした。

 辺りは音のみとなり、騒ぐような草木の葉音、柔らかな虫の音色、そして人ならざる者の声色、それらが不安を煽り立てるように迫り来るが、死を控えた身には不思議と恐れはなく、やがて目が慣れてきてぼんやりと浮かび上がる山肌の道をひたすらに登った。道の途中で何度か転んでは、手足を擦り剥き衣服が裂ける。やがて唇を切ったようで生暖かい血の香りと苦い鉄の味が口の中に満ちていく。その味にまだ生きていたんだ、とホッとしたことに自ら驚くと、軽く声を出して笑った。闇夜のなにかも同じように笑ってくれる。怖さは無くその声が心強かった。

 やがて山頂につく、片枝だけが異様に張り出した古木のある広場のようなところで、その片枝にはロープのようなものが吊り下がり風もないのに、ゆらゆらと揺れているのが見えた。

 それに酷く怖さを覚えて、私はそちらに背を向けて夜空を見上げていたのだ。


「こんばんは」


 不意に木の方から人に呼びかけられる。驚いてそちらを見ると、この場にひどく似合わない背広をきた中年男性の姿があった。互いの顔がわかりにくいぎりぎりの距離で立つ彼の声は、何故か耳元でよく聞こえてくる。


「星空が綺麗でしょう、私もここへ来てね、しっかりと見て涙したものです」


 彼の表情は暗さゆえに窺い知ることはできない、けれども何故かひどく歪んだ笑いをしているのではないかと直感が告げていた。


「貴女もしっかりと見つめたらいい、落ち着かれたら言ってください、私がロープを引きましょう」


 不意に首が引っ張られて締まった気がした。驚いて首のあたりに手をかける、手に持っていたはずのロープが首に絡み付いている。結び目から伸びすぎた一筋は辿りたいとも思わなかった、どうせ、あの木の枝に括り付けられているに違いない。闇の中の声が妙に弾んだ笑い声をあげて楽しそうだ。

 星空を眺めながら私は生きてきた全てを見つめ直してみた。

 最初は温かな家庭のもとに生まれた。

 3歳の時に両親が不仲になって離婚して、どちらにも引き取られることのなく、児童養護施設へと入所、同じような境遇の子達と過ごしながら、両親に捨てられた悲しみと恨みを募らせては、誰もいない運動会、授業参観、学芸会、入学式と卒業式と数多くの温かさのない行事を済ませて、努力の末に大学へと進んだ。

 でも、うまくいかなかった。いや、うまく生きようがなかったのだ。

 人付き合いとしてのサークル活動にもある程度参加しながら、生きるためにアルバイトを掛け持ちする。ある時、怪我をして働けなくなり、しかたなく夜の世界へと身を預けたのだった。

 稼ぎは良い、聞いたこともないような心地よい言葉に癒されながら、卒業までを過ごした。社会人になってからも特定の付き合いは続いていたが、どれも上辺だけの付き合いのみ、そこに優しさも温かさもないことに気がつくまでには30歳を通り越していた。

 仕事は順調だけれど穴の空いた風船のように心は萎み続けてゆく、友人はいたけれど親友まではいない。心を許せる人なんて見つけることも出来なかった。1人孤独に生きてきて1人孤独に死ぬのだと不安に陥り泣き腫らしたこともあったが、今はその悲しみすら消えている。

 どれくらい夜空を眺めてぼんやりとした時を過ごしたのだろう、空が白み始めている。星々が消えゆく中で、隣にふと人影が立っていた。


「由美」


 幼い頃に聞いただけの声、だけれどそれが母の声であることを本能的に心が捉える。

 

「ごめんなさい、私たちがきちんと貴女を育ててあげられたらよかったのに…1人にしてしまって本当にごめんなさい……。迎えにきたわ、これからは3人一緒に暮らしましょう」


 優しい母の笑顔と父の微笑みが思い浮かぶと心が軽くなる。ああ、見捨てられた訳ではなかったのだと安堵した途端、首の縄が力一杯引かれた。

 喉の閉まる苦しみに抗おうとする生きた身体が地面や草などを手で掴むが、嘲笑うかのように激しく引きずられる。痛みに顔を顰めようとする度に父と母が頑張れと微笑んでくれる。

 やがて木下の男が見えた。

 朝日を浴びて色づくあたりを無視するかのように漆黒を纏う背広姿の男、気持ち悪いほどに口角をあげてニタリと笑っう口元には唾液が糸を引いている。目と鼻はなく口のみであった。

 初めて恐ろしく怖いと感じることができた。恐怖ではなく、潜在的ないや生物としての本能的なものであるだろうか、そうして男らから視線を父と母に向けると、そこにいたのは黒い影だけだ。首の縄はいよいよ締まりを見せて私の体はゆっくりと上に吊り上がってゆく。抵抗しようにも力が入らない、視界がぼやけて音が徐々に聞き取れなくなってゆく、やがて爪先立ちとなり最後のひと引きでの瀬戸際に強烈な生の叫び声が辺りを劈いた。


「なにしてる!やめなさい!」


 背中から聞こえる生気を伴った怒鳴り声とともに、辺りに何かが撒き散らされてゆく、白い粒があり一面に振りまかれ、時より傷口に入り込んでは激痛を与えてくる。


「声に耳を傾けるな!連れていかれるぞ!」


 激しい怒りを露わにした声が、やがて直ぐ側に立つ。とたんに首の締まりが消えて、私の体は温かく力強い両腕で横抱きにされる。


「目を瞑れ、何も聞くな、何も見るな、何も感じるな」


 耳元でそう囁かれるよう言われた私はその言葉に従う、やがて背中の温かさが体に馴染んできた頃、意識は急速に遠のいていった。


 次に起きた時、白い病院のベッドに寝かされていて、隣には制服姿の警察官が寝息を立てていた。その両腕は真っ白な包帯が巻かれていて、ところどころ血が滲んでいる。


「ん……。あ、起きたか?」


 寝ていた警察官が気がついたようにこちらを見た。両頬にたくさんの細い擦り傷のある顔が嬉しそうに笑う、その温かな笑顔に思わず頬を綻ばせると、彼はさらに嬉しそうに陽気を纏っだ笑顔を向けてくれて、其れを見て恥ずかしくなった私は思わず両手で顔を覆ってしまう。それほどに魅力的で輝いた笑顔だった。


 あの出会いから3年の月日が過ぎ去っていた。

 

 続けていた仕事にピリオドを打ち、過去の生活全てを持ち物ごと洗いざらい捨てた。そして新天地で働き直しながら彼と過ごしている。

 最初は話友達のような関係であったけれど、あの事件以来どうしても彼から離れられなくなってしまった。


「新しく始めるのに過去は必要?」

  

 生きてきた寂しさも、重ねてきた愚かな行為も、洗いざらい話して明かし受け止めてくれた彼の優しさに助けられながら、彼の転勤を追いかけて流転を繰り返した。突拍子もない体験をしたが故に、揺り戻しのような不安感が消えるまでにかなりの時間を要し、やがて安堵して過ごせる土地へ辿り着いた。

 中山道の宿場町、奈良井の宿。

 34番目の宿場町を彼と散策した折に言い表すことのできない安堵感に包まれた。宿場町特有の緩やかな時の流れと、何処か懐かしさを含んだ空気が肌に馴染み、その感情に絆された私は数日の思案を経て転居を決めた、面白いことに不動産屋で引っ越し先を探すと条件の折り合う物件がすぐに見つかり、そこにもまたそこはかとない運命を感じた。

 それ以上に嬉しかったことは彼も同じように心を惹かれたらしく、奇しくも縁のように奈良井駅の隣にある奈良井交番へと異動となり地域の安全を守っていた。

 古い街並みの一角、空き家となっていた一軒の借家にすんなりと住み込んだ私は、仲良くなったお隣さんの漆器店を手伝いながら、アルバイトの在宅ワークもこなして生計を立てていた。慎ましやかな収入ではあるけれど、それに不満を抱くことはない、心安らかで穏やかな日々の暮らしというものを過ごしている。意外だったことといえば、夜の世界で外国人と付き合いから覚えた言語が、ここにきて接客で役に立つとは考えもしなかった。

 昼間は多国籍の喧騒に包まれる街道も、夕刻を迎える頃合いともなれば古来からの夕刻の静寂を漂わせ始める。店の手伝いを終えて帰宅し、土間脇に据え付けられた古いタイル貼りの炊事場で米研をしながら脇で煮込んでいるカレーを時より確認して夕食の準備をしていると、磨りガラスの入った格子戸が開いた。私服姿の彼が玄関を潜ると中へと入って来て微笑む。


「ただいま、今日はカレー?」

「おかえり、そうよ」


 同じ屋根の下ではないけれど、阿吽の呼吸のような出迎え、そしてゆっくりと近づいてきた彼に背中から抱きしめられた。人肌の温かさと心優しい熱が背中一杯に広がりを見せて、熱に絆されるように全身の力が抜けて気持ちが和らいでゆく。


「研修、疲れた」

「ふふ、大変だったわね、もう少しだけ待っててね。あ、ちょっと……」


 腰回りを抱きしめていた両手が服の上から乳房を包み込んで軽く愛撫のように揉みしだく、口で注意しながらも体の芯がじんわりと溶けて満ちゆく。


「ごめん……。手伝えることはないかな?」

「そうね、食卓の準備をしてくれると助かるわ」

 

 土間から上がりかまちを経た先に囲炉裏を伴った和室がある。そこに膳を用意しては2人で日々の疲れを癒すようにたわいもない話をし、時より晩酌を楽しみながら慎ましやかな幸せを味わっていた。

 

「了解」

 

 熱が離れていく一抹の寂しさが心を揺さぶる。

 

「泊まっていっても大丈夫だから……」

「うん、ゆっくりしていく」

 

 付け加えるように少し甘い声を口にするとお膳を棚から出す音が途切れて嬉しそうな返事が聞こえてくる。

 研修後はなにか沸ることがあるのか、繋がりを求められることが多く全身で愛された翌日は心地よい身体の怠さと柔らかく絆された心に満たされるのだ。

 こんな関係へと至ったのは奈良井へと移り住んでからだ。

 それまでは彼も私もそうなることを薄々では望んでいながらに、互いに気を使って話題にすることすら避けていた。だから今の猛々しい反動から察するに彼には相当に酷な我慢を強いてしまったと思いながらも、その腕の中で悶える安らぎを甘んじて享受している。

 

 進展のきっかけは唐突なことからだ。

 引っ越の荷物を運び入れてからというもの、アルバイトの副業が殊の外忙しくなってしまった。段ボールがうず高く積まれた部屋ばかり、猫の額ほどの一画で日々に追われていた時分、利嬉々として進まない片付けに剛を煮やした彼が手を貸してくれた。数時間で段ボールから数年間の荷物が救い出されて部屋へと並び、そして装いを新たにしてようやく新居となった室内で安堵した彼が夕焼けに染まる宿場町を散歩でもしようと言った。

 夕暮れの人通りの少なくなった街並みをゆっくりと歩き、すれ違うご近所や宿場の方々と挨拶をする度、駐在さんとの関係を探るような視線を浴びる。気持ちがやや疲れ気味となってきて夜風に吹かれてながら憂鬱な気分を散らすように奈良井川の流る音を聞きながら対岸の堤防を歩いた。


「偶には橋でも渡っていこうよ」

「うん」


 彼が手を握ってゆっくりと引き寄せるその手に導かれるように歩幅を合わせた。

 眼前には奈良井川に掛かる木曽の大橋の立派な姿があった。宿場町の雰囲気に良く似合う東海道五十三次 日本橋 朝之景 に似た橋は、その緩やかな曲線のアーチが可愛らしい、しかしその可愛らしい見た目とは裏腹に橋下を覗くと複雑な木組の支えが幾重にも重なり合っていて力強く見える。


「落ちないよね」

「頑丈だから大丈夫よ」


 橋板の隙間から見える川の流れに彼の勇ましい進み足が躊躇いを見せた。可愛らしい一面の彼に小さく私が笑うと、それを聞いた彼が少し頬膨らませたて怒ったような顔をした。負けじと真似するようして互いに向き合うとやがてどちらからともなく笑みが零れていった。鮮やかな夕日に染まる橋板を踏みしめながらアーチの中ほどまで歩いてゆくと彼が不意に足を止めた。


「どうしたの?」

「こうしたい。嫌なら拒んでいいから」


 そう言って私の両肩をしっかりと掴んだ彼はゆっくりと唇を重ねてきた。目を閉じて自然なまま素直に唇を自らの唇へと受け入れる、そしてどちらからともなく柔らかな感触と繋がった手の指を絡めるようにしてしっかりと握り合った。たった数秒間のできごとなのに長い時のように思えて、やがて離れてゆくことに寂しさを感じる。思わず眼を開いて彼の瞳を見つめると囲炉裏の熾火のような焔が見えた。


「由美」

「なに?」

 

 厚みのある緊張した声に返事が上擦る。焔が宿る瞳に射抜かれた私は動きを止めて次の言葉を待つ。熱気を帯びた真っ直ぐな言葉にただ流されないようにと少しだけ奥歯を噛んでその時を待つ。


「結婚を前提に付き合って……、いや、僕の妻なって欲しいから付き合ってください」

「面白いこと言うのね」

 

 平静を装いつつ心臓の早鐘を悟られないようにして、実直で輝きを放つ熱い視線から逃れるように視線を逸らした。そして欄干に両手をつきながら奈良井川の緩やかな川面を見つめる。二つ返事でその言葉に頷いてしまいたかった。彼の胸の内に飛び込んで頷いてしまいたかった。けれど、奥歯を噛み締める力がそれを邪魔した。

 夕焼けは色をなくして辺りには宵闇が漂い出し、カチカチと橋を照らす燻んだスポットライトが光を放つ、ぼんやりとした光が辺りを包んで、まるで心模様を映し出しているかのようでもあった。


「前にどんな女か話したよね」

「確かに聞いたね」

「そこまで真剣に考えなくてもいいよ、もしかしたら飽きることもあるかもしれないし」

「飽きないよ、それに奥さんにするなら由美じゃなきゃ嫌だ」

「どうして?もっといい女なら沢山いるよ。若くて綺麗な人達が世の中には沢山いるんだよ、無理して焦って今決めなくても……」


 冷たい刃のような言葉がすらすらと口をついて出てゆく。

 一番でありたいのは間違いなく、彼の隣で暮らしていきたいとの思いはあるのに、すれ違いざまの他人の視線と夕闇の寂しさが、自らの過去を呼び起こしては身勝手な思慮の配慮を心の陰に湧き上がらせた。

 付き合う関係ではないからこそ話せることも距離を取ることもできる。だから、この関係は許されているといった気持ちもあったのかもしれない。でも、そのくびきを解き放ってしまえば、色々な面倒ごとを彼に背負わせること繋がってしまうかもしれないと考えると怖くて恐ろしくて堪らなかった。

 あの助け出された時のように、再び同じような、いや、それ以上の危ない目に彼を遭わせる可能性だってあるかもしれない。そうなってしまって、万が一にも失うかもと考えるだけで心が張り裂けそうになる。

 だからと言って離れていくことなど考えることすら辛くてできやしないのに。


「由美、本心じゃないでしょ」


 同じように欄干に手を置いた彼が一呼吸をおいてそう言いながら、再び優しく手を握った。柔らかな温かさが沁みて身勝手な言葉を恥じる。

 

「うん、本心じゃない……、気持ちは一緒よ、それは本当。でも、色々と考えてしまうから……」

「由美はせっかく吉蘇る路にいるんだから、これからのことを考えていこうよ」

「吉蘇る路って?」

 

 話を逸らすためにそんなことを口にする人でないことはよく知っている、だから聞き返しながら彼を見つめる、焔の宿る真剣な眼差しがそこにあって再び重なり合った。


「木曽はさ幾つかの表記があるんだけど、その中にね吉蘇る路きちよみがえるみちと書いて吉蘇路と記すものがある、細かいことは置いておくとして、その素敵な名前を冠する街道に2人して立ってるんだ。1人では辛いことでも2人でならそれを幸せに変えることができる、過去は過去、それを今更かえることなんてできない、だったらこの先を2人で良くしていこうよ」

「魅力的だけど……過去はついて回るのよ……」

「きつい言い方をすればそうだね。だとしても過去に生きるよりはるかにいい。僕だって隠したい過去はある。それに警察官は危険と隣り合わせで由美を1人取り残して逝ってしまうかもしれない。でも、沢山『もし』を考えて過ごす日々より、2人で考えて新しく歩んで行くほうが有意義だと思わない?」

「それは……そうだけど」

「由美が僕と居て落ち着けたように、僕も由美が居てくれたから落ち着いていられた。一途に僕を見てくれている人が居てくれることが、こんなにも温かくてありがたいことだとは考えも及ばなかった。」

 

 握られた手に少し力が込められる。

 あまり詳しいことを話してはくれないけれど、過去に大きな失恋をしてそこからずっと1人がいいと出会った頃に言っていたことを思い出した。そんな彼がここまで言ってくれることが何よりも嬉しい。


「初めて出会った怖い日のことを思い出させたくはないけれど、ああいった物怪の類とも妖怪の類ともとれる変なものが心に付け込もうとするときには、本人が心の奥底で臨んでいたことを具現化して誘うって聞いたことがある。ご両親が出てきたと前に言っていたけど、そんな未来を望んでいたということなんじゃないかな?だったら全く違うかもしれないけれど、僕は由美と一緒にそんな未来を歩みたい」

 

 トンっと何かが背中を押した気がした。

 あの日すれ違ったパトカーの運転をしていた彼が助けてくれなければ、その後も途切れることなく関係を続けていなければ、今、この時を予想することなどできなかっただろう。そのままであったなら、あそこで死を受け入れるか、その後も死を受け入れることを必死に繰り返していたのかもしれない。偶然にすれ違ったパトカーを彼が運転していて、すれ違った私の車がどうしても気になり、朝方に追加で警邏に出てくれたおかげで置き去りにされた軽自動車を見つけてくれた。

 鍵すらかかっていない車はセキュリティアラームをけたゝましく鳴らし必死に助けを求めているようだと感じとった彼が、普段なら霊感やそんなことを感じることのないのに、妙な気配察してそれを恐れることなく追いかけてくれた。

 偶然が重なればそれは必然、なんて言葉が思い当たる。


「だから由美」


 握られた手に力が入った、指を開いて彼の指を招き入れるように絡め合う。

 遠くの駐車場に今も大切に乗っているあの軽自動車がこちらに顔を向けて止まっていて、そのヘッドライトの目が素直になりなさいとでも諭しているかのように一瞬きらりと光る。

 

「後悔するかもよ?」

 

 みっともない最後の抵抗を口にする。

 

「しないよ。由美は僕が居なくなったら後悔しない?」

 

 それを聞いてすぐに視線を上げて彼を見る、焔の沸る真剣な眼差しと凛々しい男の顔がそこのあった。

 

「する」

 

 考えることなくすんなりと断言する言葉が口をつく。

 

「僕も一緒」


 優しい微笑みに絆されて同じ様に浮かべて見つめあったのち、欄干の重ね合っていた手が互いの身体を包むまでに時間は掛からなかった。


「雄介、末長くお願いします」


「由美、こちらこそよろしくお願いします」


 日が落ち切ってあたりは闇に包まれていた。橋を照らすスポットライトの灯りが互いの顔に濃淡をつけて、表情を際立たせる。そのまましばらくの抱擁の後に2人して夜空を見上げた。木曽の宇宙そらがそこにあって綺羅星のような輝きを宿した星々があの時とは違う優しい光を放っている。

 ふと夜空に流れ星が流れた。

 

「良い旅路になりますように」

「詩人みたいなことを言うのね」

「格好付けすぎかな?」

「ううん、私も同じ思いよ」

「なら、よかった」

 

 互いの身体を包む手を解く、暖かな熱の残る片手はお互いに離さずに握り合ったままに、ゆっくりと橋を降りてゆく。橋板を踏む心地よさは登りよりも軽くて暖かい。過去のあちら側から未来のこちら側へとでも言い表すかのような木曽の大橋、いや、吉蘇の大橋を2人して渡り切った。

 裏路地を抜けて宿場町の通りへと抜けると人通りはなく静かな風が吹いていて、ところどころの家々から笑い声や話し声が聞こえてくるのを聞き流しながら、ゆっくりとその風で少し熱を覚まし我が家へと帰り着いた。


 木曽の路は山深く谷深い、そして、険しく厳しい。それはまるで人生のようでもあるかもしれない。

 でもそうであったとしても私達なら歩いて行ける。

 吉蘇路という蘇りの道なのだから。


 夕食を摂り終えて、カレー鍋の残りは雄介の明日のお弁当へとなった。

 洗い物を終えてカレー皿の水気を拭いていた雄介が鍋の片付けをする私をジッと見つめてくる。

 

「なに?」

「今日、許可が降りたから、今度、署に来てくれって」

「そ、分かったわ」

「意味、分かってる?」

「もちろん、あとでゆっくり聞かせてもらうわ」

「そういうことなら」

 

 警察官の妻になるためには身辺調査や身元調査が入り私はどれも合格ということに安堵した。私達の吉蘇路の道はしっかりと歩んでいくことができている。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

焔が宿る路をゆく 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ