光を、もう一度
ぴのこ
光を、もう一度
【社会】危険ドラッグ製造 無職の男を逮捕
大阪府の危険ドラッグ製造工場とみられる拠点を大阪府警が摘発した事件で、大阪府警薬物銃器対策課と■■署などは31日、殺人と銃刀法違反と麻薬取締法違反(営利目的所持)の疑いで、無職の男(29)を逮捕した。男は現場で会社員の男(49)を銃殺した後、危険ドラッグを大量に摂取したとみられ、意識不明の状態で救急搬送された。銃声を聞いた近隣住民の通報により、この拠点の存在と事件が発覚したとされる。府警は、殺害された男は危険ドラッグ密売の主犯格だったとみている。
フラッシュバック。
過去に体験した出来事が、突発的に思い出される症状である。その経験時の感情や感覚が再現され、まるで現在目の前で起きているかのように鮮明に蘇る。思い出されるのが幸福な記憶であれば良いだろう。しかし、フラッシュバックで再現されるのはトラウマである。記憶に刻まれた辛い思い出が、日常的に、ふとしたきっかけで現実感を持って襲ってくるのだ。日常生活に多大な支障をきたす恐ろしい症状。しかしこれは、精神医学の世界では「ごくありふれた症状」なのだ。
なら、と兄貴は言った。
「フラッシュバックで引き起こされるんは、イヤ~~な気分になる最悪の記憶やろ。なら、幸せな記憶のみを記憶から引き出すことができたらどうや?な~んも不都合は無い。幸せな記憶を新鮮なままお届けや。最高に魅力的やろ?」
合成麻薬 “アポロン”
脳から幸福な記憶のみを引き出す薬物だ。ドーパミンとセロトニンの遊離増加作用を通じて幻覚を生じさせ、ありありと、追体験のように過去の幸福に浸ることができる。これが俺が開発した薬。俺と兄貴、ふたりの幸せへの切符だ。
「これはデカいシノギになるで。この苦痛から解放されたい。幸せな夢だけを見ていたい。そんな人間がどれだけおると思う?そんな人間はいくらでも金を積む。何回でもリピ買いする。このヤクは金のなる木や。よお作ってくれた!よおやった!お前のおかげや」
そう言って、兄貴は俺の頭を撫でてくれた。ああ、兄貴。兄貴。あなたに喜んでほしくて俺は。あなたに褒めてほしくて頑張ったんだ。報われた。頑張ってよかった。兄貴。ありがとう。兄貴。
俺と兄貴が出会ったのは、10年前の夏だった。
俺の故郷はド田舎の村で、俺は運悪く村を治める当主の息子として生まれた。運悪くだ。山奥の田舎にはまともな医療機関など無い。病院もビジネス。貧乏な山奥にわざわざ病院を作って患者を受け入れてくれる医者がいるはずもない。そこで、俺のご先祖様はこう考えた。ならば自らの一族が医術を修めればいい。そうして村の者を守ればいい。迷惑な話だ。
こうして、俺は幼い頃から医術を叩き込まれた。普通に医者になる人間は医学部の大学生になってから学ぶものを、俺は小学校にも通わせてもらえず、朝から晩まで叩き込まれた。
なんの気兼ねも無く自由に遊ぶ、同年代の子供たちがどれほど羨ましかったか。こんな家に生まれたばかりに不自由を押し付けられる自分の不幸が、どれほど恨めしかったか。拷問に拷問を重ね、そこらの若手の医者より遥かに卓越した医療の技術を身に着けても、俺の心には医者としての誇りや矜持など微塵も芽生えなかった。
どれほど努力を積んでも、両親からは叱責しか受けなかった。未熟だと。そんなもので家を継げるかと。
どれほど手を尽くしても、患者からは文句しか言われなかった。無能だと。あんたのせいでワシは死ぬと。
だからもう、やめた。逃げた。限界だった。家の現金をありったけ持ち出して、逃げた。とにかく都会へ向かった。都会に行けば何かがあると思ったわけではない。ただ、もう田舎の景色は見たくなかった。
到着した都会は…大阪の景色は、異世界かと見紛うほどだった。天を衝くような高層ビルは全身から煌めく光を放ち、街全体が喧騒に包まれていた。故郷では決してあり得ない景色だった。俺は街の表通りに立っているのが怖くなり、路地裏へ路地裏へと逃げて行った。
その時だ。兄貴と出会ったのは。
「……なんやお前。見世モンやないで。さっさと失せい」
息も絶え絶えに声を絞り出しながら座り込む男は、コンクリートの地面に血を流していた。肩と脇腹に銃創。一刻も早く止血する必要があった。
だが、俺の理性が警報を鳴らしていた。この男は明らかに関わってはならない人間。見捨てて、この場から去るのが正解だ。逃げろ。逃げろと。
それでも。それでも俺は、俺の直感が告げる言葉を信じた。俺はこの男を救うためにここに来たのだと。今まで積み上げてきた医術も、故郷から逃げ出したことも、全ては今この時のためにあったのだと。
銃弾で受けた傷の止血と消毒。軽い処置ができる程度の手術道具は持ち歩いていた。簡単な施術だった。治療が済むと、男はいくらか楽になった様子で声を上げた。
「…お前、名は?」
俺は名前と、自身が無免許の医者であることを明かした。田舎の村に生まれ、医者として育てられてきたことを。医学や薬学の知識はあるが、医師免許は無い。それともうひとつ、生きる目的も、俺には無いのだと。
「そんなら俺が与えたるわ。お前の生きる目的、お前の価値、お前が積み上げてきたことの意味。全部や。全部俺が与えたる」
男の言葉は力強く、その眼差しには輝きがあった。薄暗い路地裏にあって、赤黒い血に塗れていても、男の纏う空気…オーラのようなものは眩いばかりの煌めきを放っていた。おそらくは、真っ当に生きている人間ではないのだろう。俺と同じように。なのに、俺とは違う。俺には無い輝きで、俺を照らしてくれる。ああ。まるで太陽だ。初めての光、温かみ。貴方が、俺の太陽。
十九年間の夜を、日の光が照らし始めた。
違法薬物の密売人。それが兄貴の裏の仕事だった。表の仕事では数多くの人間の情報を得ることができる。その中から資産の多い人間を絞り出し、安全に取引を行える相手を見繕って接触する。無論、最初の接触は“下請け”のバイトに様子を見させてから。
本業と裏の兼業は負担が大きいことと、“本職”の極道と適度に良好な関係を保つこと。そして何より妻にバレないようにすることが大変だと兄貴は笑った。
「ま、デカい金が入るんや。やり甲斐は大きいで。それでな、ある客に腕のいい闇医者と出会ったって話をしたら、“モツ”のほうのビジネスも頼まれたんや。素体は向こうさんが用意するさかい、摘出をお願いしますっちゅう話や。やってくれるか」
俺は一にも二にもなく承諾した。この腕を活かせる機会。俺が積み上げてきた技術の意味。兄貴は約束通り、それを与えてくれたのだ。嬉しさに、ありがたさに涙が出た。兄貴の役に立とう。この命の全てをかけて。
もう倫理は捨ててきた。兄貴が捨てたものは、俺にとっても無価値だった。
臓器売買での収益も加わり、兄貴と俺のビジネスは好調だった。だが一年ほど経った頃、薬物取引の収益が減少しだした。アジアやメキシコ、アフリカなどの麻薬組織が本格的に日本に乗り出したことが原因だった。奴らの売る薬は、多少粗悪ではあるが安い。それに加え、凄まじい効能の新商品が大人気だという話だった。
「…俺らにも必要や。目を引く新商品が。誰もが欲しがる、なんぼ高くても手を出さずにはおられん。そんな薬が必要や」
兄貴はじっと俺の目を見た。「作ってくれるか」という意味であろうことが察せられた。
頷いた。断るという選択肢は無かった。俺は兄貴の役に立つためにここにいるのだ。作ろう。とにかく強力で、依存性が高くてリピート買いされやすい、とびきり売れる薬を。
表にも裏にも、心を病んだ人間は大勢いる。違法薬物に手を出すのも、多くがそんな人間だ。辛い現実から目を背け、嫌な気持ちに蓋をするために薬を飲む。ならば辛い気持ちを綺麗さっぱり忘れられる、夢のような薬があればどうか。一度飲めば憂鬱も苦痛も嘘のように消え去り、ただただ幸福だけを感じられるようになる。そんな薬があればどうか。夜を昼に変える照明のように、精神を一瞬で切り替えられるスイッチだ。それは心を病んだ者の生活に欠かせないものになるだろう。
目指す形は見えた。後は実験、実験、実験の繰り返しだ。
「よお作ってくれた!よおやった!お前のおかげや」
結局、完成には九年の時間を要した。人体実験の被験者は、客が提供する臓器売買用のものを生きているうちに使用した。試薬の効果が確認され次第、肝臓に悪影響が出ないよう首を切り離して処理。また薬の構成を変え、再実験。人体実験のデータをまとめたカルテが当初の数十倍にも膨れ上がった頃、ようやく目的の薬は、“アポロン”は完成した。
成果を出すのに九年もかかった。遅すぎたほどだ。にもかかからず、兄貴はずっと、笑顔で俺の背中を押してくれた。大丈夫、お前ならできると。ああ本当に、振り返れば思い出が溢れるばかりだ。兄貴はたびたび、俺を飲みに誘ってくれた。研究に行き詰まれば、気晴らしとして旅に連れて行ってもくれた。そんな兄貴の想いにようやく応えられた。感情が零れだして、涙が抑えられなかった。
「そんでな、お前が開発したこの薬、お前自身に任せたいと思っとる。それだけやない、俺のこの裏の仕事、まるまる全部お前に継いでほしいんや。任せられるのはお前だけや」
熱くなっていた心が、さっと冷えていくのを感じた。思考が軋む音を聞いた。
「…娘が生まれたやろ。あの子が生まれて、俺の中に恐怖が芽生えた。この仕事を続けていて、娘が立派に大人になる姿を見届けられるか?っちゅう恐怖や。お前と会った日も、その後も、商売敵やヤク中あたりの奴に襲われることがあったやろ。それでなくとも、下手を打てば捕まる可能性もある。これまで上手くやってきて、今更やけどな。そこで俺はここらで足を洗って、後はお前に任せ」
俺の思考は、兄貴の言葉を処理することを打ち切った。兄貴が、兄貴が落ちていく。俺は、兄貴が俺を照らしてくれていたから生きてこられたのに。兄貴がいなくなれば、何をどうしたらいいかもわからない。手探りで生きていかなければ。嫌だ。ああ、日が落ちていく。思考の中の夕闇は、その先の夜闇は、ひどく恐ろしく感じられた。
だから。
気が付けば、俺は兄貴を撃っていた。兄貴の死体が床に転がっていて、俺はその上に、ありったけ吐いた。兄貴、兄貴。俺の、光だった。俺を照らしてくれた人だった。その光を、俺が消した。違う。勝手に消えようとしたから。悪いのは俺じゃなくて。いや、俺が。俺が。
全てが悪い夢にしか思えなかった。明滅する思考は、やがて完全に停止した。思考は闇に包まれた。
いくらか経って、ふと目に入ったのは自身の机の上にある薬だった。幸福な記憶のみを引き出し、ただ幸福のみを感じられるようになる薬。最後の被験者は「天国」と呟いていたか。
俺は弾けるように薬を掴むと、大きく口を開けて飲み込んだ。空っぽの胃に、自分が作った薬を詰め込み始めた。これは悪い夢だ。こんなものは捨て去って、行こう、天国に。あの眩い日々にもう一度行こう。こんな暗闇からは逃げ出して、光の中へ…
【社会】大阪の危険ドラッグ製造工場殺人事件、容疑者死亡で不起訴
大阪府の雑居ビルで31日、会社員の■■■■容疑者(49歳)の遺体が見つかった事件で、大阪地検は、殺人と銃刀法違反と麻薬取締法違反(営利目的所持)で書類送検された■■■容疑者(29歳)を容疑者死亡で不起訴とした。■■■容疑者が事件後に自殺したことで、事件の全容の解明は困難を極めることが予想される。
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