覗き人

kou

覗き人

 夏の盛り。

 日が落ちたアパートで、一人の女性が台所に立っていた。

 理沙は大学を卒業して数年が経つ社会人だ。彼女は広告代理店で働いており、日々の仕事に追われる忙しい生活を送っている。

 台所に立つ理沙の足元には一匹のサバトラ猫がすり寄っていた。このサバトラ猫は、理沙の友人からの預かり猫のミミだ。

 友人はミミを飼っていたのだが、実家に帰る用ができた為、その間、理沙が預かることになったのだ。友人宅には何度も遊びに行っており、ミミも理沙のことを覚えていたため、預けられたミミは彼女によく懐いていた。

「はいはい。ちょっと、待っててね」

 理沙はレトルトパウチの封を開け、餌皿へと中身を移していく。その匂いに釣られてか、ミミはニャーと鳴いて、しきりに理沙の足に体をこすりつけてきた。

 理沙はクスクスと笑いながら、六畳間の洋室でミミの前に皿を置くと、待ってましたとばかりに、ミミが身を乗り出して音を立てて勢いよく食べ始めた。

 その間に、理沙は鍋にかけていたレトルトカレーをカレー皿によそったご飯にかける。お手軽な食事だが、暑い盛りの季節は調理が面倒で仕方がない。だから、どうしても手抜き料理が多くなるのだった。

 カレー皿を手に洋室に入るとコタツ机にそれを置き、テレビの電源を入れる。

 映画が映る。

 理沙はスプーンを手に取り、カレーを食べ始める。口の中にピリッとした程よい辛みが広がり、食欲を刺激した。

 ベランダの出るガラス戸は網戸にしているが、それでも室内の温度は外気よりも高く、額にうっすらと汗が浮かんでくる。

「風通しを良くしないとダメね」

 理沙は玄関に向かうと、ドアを少し開けて蝶番の箇所に木切れを噛ませた。これで、ドアの隙間から風が通り抜けるようになる。

 ベランダから吹き込む微かな風が、まるで猫の足音のようにそっと彼女の頬を撫で、額に滲む汗を少しだけ和らげていた。

「いい風」

 理沙は冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、洋室で冷たい麦茶を一口飲んだ。氷のカランという音が、静かな部屋に小さく響く。

 彼女の側にミミが寄り添うと、その場に寝転がる。

「ミミは毛皮を着てるから、夏は暑そうね」

 理沙はそう言うと、ミミの体を撫でる。ミミは気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らしながら、されるがままになっていた。

 理沙は、映画を観ながらくつろぐ。

 明日は休みなので夜更かししても問題はなく、日々の疲れを癒すかのようにのんびりとテレビを眺めていた。

 その時、ふとミミを撫でようと手を伸ばすと、なぜか空振りをした。

「え?」

 驚いて視線を向けると、そこには先程までいたはずのミミの姿はなかった。慌てて辺りを見回すと、洋室の入口にミミが座っていた。背を理沙の方に向けて座っている。前足を揃え後ろ足を折りたたみ、上半身を起こした座り方は通称エジプト座りという。

 エジプトの『バステト』という猫の姿をした女神の姿勢が由来。野良猫もよく見せる座り方で、いつ敵に襲われても対応できるよう、周囲を警戒している状態だと考えられている。

「どうしたの?」

 理沙は四つん這いになってミミに寄る。

 ミミは大きな瞳でじっと玄関の方を見つめていた。瞳孔は大きく開き、耳を立て、全身で音を拾おうとしているようだ。

 理沙はミミの視線の先を目で追う。

 特に変わった様子はなかった。

 明かりの無い暗い廊下の先には、少し開いたドアがあるだけだ。

 何もない廊下をじっと見つめるミミの姿に、理沙は微かに笑みを浮かべた。

 しかし、その笑みはすぐに消え去ることになる。

「何もないじゃない」

 理沙が呼びかけると、ミミは低い唸り声を上げる。いつも温厚で穏やかなミミの姿しか知らない彼女には意外なことだった。

 その唸り声を聞いた瞬間、急に背筋が冷たくなった気がした。

(え?)

 戸惑いながらももう一度玄関を見てやった瞬間、彼女の心臓は凍りついた。

 開けたドア。

 その薄暗い隙間から、微かな影が覗いているのが見えた。

 玄関の隙間から、体長30cmほどの全身が緑色をした人型の者が、じっとこちらを覗き込んでいる。その目は暗闇の中で爛々と輝いていた。

「ひっ!」

 理沙は思わず声を上げたが、その声はかすれてしまう。恐怖のあまり、身体が硬直して動けなくなった。心臓の鼓動が耳の奥で響き渡り、冷や汗が背中を流れ落ちた。

 緑の者は微動だにせず、一瞬も目を逸らさずに理沙を見つめ続けている。

 理沙は、その視線に捕らわれ、動けなくなってしまった。

 まるで動けない悪夢のようだ。

 緑の者はじっと見つめ続けている。

 その存在はまるで異界から迷い込んだ存在のようだったが、その目には人間のような知性は感じられず、ただ本能に従って立っているように思えた。

 理沙は恐怖のあまり、ミミを抱き上げると、部屋の奥へと後ずさりした。部屋の隅に身を寄せ、膝を抱えて震える。

 何か武器を持って追い払うべきなのかもしれないが、そのような考えは全く浮かばない。むしろ、少しでも動いたら部屋に侵入して来る気がして、動くことができなかったのだ。

 外部に連絡をしようと思ってもスマホはコタツ机の上だ。距離はたった1m程だが取りに行くこともできないし、そもそもそんな勇気はない。スマホに近づくということは玄関に近づくということになり、との距離を詰めることだ。それができるハズもなかった。

 腕に抱いたミミは真顔のまま低い唸り声をずっと上げ続けている。

(この子を守らないと!)

 理沙は震えながらもミミを強く抱きしめると、彼女は覚悟を決めた。心の中で何度も自分に言い聞かせた。

(大丈夫……大丈夫だから……)

 そうしている内にの姿が消えていることを願いながら、固く目を閉じて祈るのだった。

 ……どれくらいの時間が経過しただろうか。

 理沙は、崖から落ちるような感覚に身体を震わせ目を覚ました。

 いつの間にか、理沙は眠ってしまっていたようだ。

 ベランダから見える景色を見ると、外が白々と明るくなり始めているのが見える。時計を確認すると朝の5時だった。

 腕に抱いていたミミは眠っており、そっと床に下ろすと理沙は息を殺し這うようにして玄関を、そっと覗き見た。

 すると昨晩見た時と同様に、玄関が少し開いたままだったが、そこに何もなく、ただ静かな朝の光が差し込んでいる。

 しかし、彼女の心にはあの夜の恐怖が鮮明に残っていた。

 理沙は玄関のドアを二度と少しでも開けたままにすることはなかった。

 が何だったのかを知ることもなかった。

 ただ一つ確かなのは、彼女がその夜に見たものが、決して夢や幻ではなかったということだ。

 それ以来、理沙は夜になると玄関をしっかりと閉め、鍵を掛けるようになった。

 理沙の生活は少しだけ変わったが、その恐怖の記憶は消えることなく、彼女の心に深く刻まれ続けた。

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