いずれ浜辺に打ち上げられて
惣山沙樹
いずれ浜辺に打ち上げられて
兄のくぐもった悲鳴が聞こえてくる時は、毛布を頭までかぶり両手で耳を押さえて待つ。
それがいつから始まったのかは知らないが、兄はすっかり諦めている様子で、父が満足して寝た後に一人でシャワーを浴びている。
おかしい。おかしいよ。父親が息子を犯すなんて。
現場を見たことはないけれど、父が兄を煽る言葉を聞けばそうだとわかった。いつか僕も同じ目に遭うんじゃないかと気が気でないのだが、兄はそんな僕の心を見透かしたかのようにこう言うのだ。
「タクは俺が守る。親父の相手は俺がする。だから安心しろ。なっ。兄の俺が犠牲になればそれでいいんだから」
母は物心ついた時にはいなかった。蒸発した、のだという。兄に詳しく話を聞いたところ、赤子の俺と幼児の兄を放り、記入済みの離婚届だけを置いて出て行ったということらしい。それ以上は兄もわからないのだという。
僕はあらゆるものを恨んだ。酒に酔い兄を蹂躙する父を。二人の息子を見捨てた母を。現状を変えられず兄に守ってもらうだけの弱い自分を。
せめて、せめて僕の背がもう少し伸びていて、ガタイも良ければ自信もついただろうか。しかし、高校生になっても身長は百六十センチほど、握力測定では女子に負ける始末だった。
兄は高卒でどこかに就職していて、懸命に働いていたが、給料は父の酒代に吸われていった。父は家に帰ってくることが減り、どこかでフラフラ飲み歩いているみたいだった。そして、帰宅したと思えば兄に手を出すのだ。
「やめて……もうやめて……やめて……」
何度枕を濡らしたかわからない。兄の身体は快楽を得るまでに作り変えられたようで、悲鳴は嬌声になっており、その事実が受け入れられない僕は嗚咽を漏らすのみだ。
未来のことなど考えられなかった。何一つ。大学なんて行ける金は到底ないし学力もなかった。進路希望票にはとりあえず就職に丸をつけたが具体的な職種なんてまるで見当がつかなかった。
高校二年の夏休み。夕食にカップ麺を食べて自分の部屋で宿題をしていた。イヤホンで音楽を聴いていたため、父が帰ってきたことがわからず、肩を叩かれ振り向いてようやく気付いた。
「タクだけかぁ?」
「うん……兄ちゃん仕事だよ」
無精ヒゲまみれの汚い父の顔は酒のせいだろう、真っ赤になっていて、おぞましい口臭がした。
「じゃあタクでいいや……」
「えっ」
右頬をぶん殴られた。机に伏せると髪を掴まれて、何度も何度も頭を机に叩きつけられた。それから腕を引っ張られてベッドに張り倒され、今度は腹を踏みつけられた。
「おぇっ……!」
仰向けのまま僕は吐いた。目の前がチカチカして意識が飛びそうになった。
「おいおい、吐くなよ汚ねぇなぁ。服、脱げ。全部な」
ついにその日が来たのだ。今から自分の身に起こることへの恐れはあったが、どこか安堵していた。兄の苦しみを僕も味わうことで兄弟が公平になる。僕はさっさと全裸になった。
「兄弟でもヤスとは違うなぁ。タクは細いなぁ」
父のごつい指が僕の肌を這い回った。まるでムカデのように。ちろり、と胸の突起を舐められて、僕は身震いした。
――大人しくしてたらすぐ終わる。これでいい。これでいいんだ。兄ちゃんにできたんだから、僕ができないわけはない。
僕の肌が父の唾液でベトベトになった頃、父はカチャカチャと自分のズボンのベルトを外し始めたので、僕は目を瞑って覚悟を決めた。
その時だった。
「親父! タクに手を出すなって言ったじゃねぇか!」
僕は目を開けた。兄が父に掴みかかっていた。二人はもみくちゃになり、兄が父にまたがり、首を絞めた。
「この野郎! この野郎!」
呆然とその様子を見ることしかできない僕は、やっぱり非力でちっぽけな存在だった。このままいけば最悪の事態になるとわかっていても、声一つ出せなかったのだ。
ジタバタと手足を動かしていた父が次第に静かになり、確実に息の根が止まった後も、兄は絞め続けていた。ツン、と酸っぱい臭いがした。父が失禁したようだった。じわりと床に尿が広がる様子を見て、ようやく僕は兄に声をかけた。
「兄ちゃん……父さん、死んだよ」
「あっ……」
兄は立ち上がり、父の死体を見下ろしながら、ブツブツ言い始めた。
「そうだよな。最初からこうしておけばよかった。親父が俺との約束なんて守るはずないもんな。なんだ。こんなに簡単なことだったんだ。もっと早くしておけばよかった。タクが汚される前にこうしておけばよかった……」
僕はフラリとベッドからおりて兄を抱きしめた。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
「ごめんなぁ。ごめんなぁ、タク。俺、タクのこと守れなかったな」
「この後……どうするの?」
「そうだな……とにかくタクは服着ろよ」
僕は汚れた服を洗濯機に放り込んで新しい服を着た。その間に兄は父の尿を拭いていた。何も言わずとも、僕には兄の考えていることがうっすらとわかっていた。自首なんて絶対にしないであろうということだ。
「カーシェアの予約取った。海に行くぞ、タク」
車の後部座席に父の死体を寝かせ、僕は助手席に座った。兄弟でドライブなんてこれが初めてだ。兄は窓を開け、タバコを吸いながら運転した。
「タク。これからは新しい日々が待ってる。もう親父に怯えなくていい。だからな、今日は記念日なんだよ」
僕は兄の言葉を信じることにした。父がいなくなったことで、ようやく僕たちは前を向いて歩いていける。その最後の儀式のために海に行くのだ。
「兄ちゃん。ありがとうね、兄ちゃん。大好きだよ」
「ん……俺もタクが好き。ずっと一緒にいような。ずっと。ずっと。ずっと」
兄は二時間ほど車を走らせた。たどり着いたのは断崖絶壁の海浜公園だった。もう夜中だ。駐車場には僕たちの車しかなく、辺りは静まり返っていた。
二人で父を担いで崖のギリギリまで来て、せーので投げ落とした。荒波に揉まれ、父はたちまち見えなくなった。
父の死体は、いずれ浜辺に打ち上げられて、事件になるのだろう。それとも事故や自殺で片付くか。それは運次第といったところだ。
兄はタバコを吸い始めたがオイルライターをつけっぱなしにしていたので僕は尋ねた。
「兄ちゃん……何してるの?」
「俺はさ、洋楽のライブとか好きでよく動画観るんだけど。たまに観客がこうしてライターかざすんだよな。ペンライトみたいなもんか。それやってる」
海は黒く、空も黒く。境目が見当たらなかった。さざめく波の音が曲代わりということなのだろうか。僕はそれを聴きながらぼんやりと兄が持つ光を見つめた。
「タクはこれからどうしたい? 将来のこと」
「えっと……どこかには就職する。それで、兄ちゃんと二人で仲良く暮らしていきたい」
「仲良く、か。そうだな。そうしよう」
兄はオイルライターのフタを閉じた。しかし、僕の脳裏にはゆらめく小さな灯火が焼き付いていた。
帰り道、すっかり安心しきった僕は、車の振動が心地よくて眠ってしまった。起こされたのは、兄の優しい口づけによってだった。
「に、兄ちゃん?」
「なぁタク。俺たちは共犯者だよな。互いが互いの秘密守るよな。そうするよな」
「もちろん、そうだけど……」
寝ぼけた頭では、兄の言うことが今ひとつ飲み込めなかったのだが、帰宅して玄関でまたキスをされて、ようやく身体でわからされた。
「兄ちゃんっ……!」
「タク、これからはタクが俺の相手してくれよ……できるだろ……俺のこと好きなんだろ、なぁ、なぁ」
僕をまさぐるその手は、知らない雄のものだった。
いずれ浜辺に打ち上げられて 惣山沙樹 @saki-souyama
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