第4話



 二日後、陸康が城に呼び出された。

 陸康と共に、陸遜もやって来た。


「陛下、……妃殿下、お許しいただけるのならば。……妃殿下のご無事の姿に、安堵しております」


「ありがとう。養父上ちちうえから、貴方が私の無事を心配していてくれたことは聞いている。こちらこそ、心配をおかけした」

「いえ……」

 陸康は深く平伏した。陸遜も数歩下がった所で、同じように深く一礼をする。

 周公瑾しゅうこうきんという存在が、孫呉にとって意味するところは、あまりに重い。

 建国の王たる孫伯符そんはくふの、たった一人、寵愛する妃だ。

 身に覚えがないなどという言い訳が通用するはずがないことを、陸家の当主たる彼はよく知っていた。

 周瑜がもし、命を失うようなことになっていたらと思うと、背筋も凍る。

 陸康は、周尚を通じて、孫策と周瑜とは懇意にさせてもらっていたが、いかに孫策と親しくさせてもらおうとも、たった一人の王妃を死なせては、例え陸家を根絶やしにされても、仕方のないことだった。

「顔を上げてくれ。

 元々、盧江に行くと言ったのは私だ。

 陸家に何か、我々に対して意図することがあるとは思ってはいない」

「いえ、妃殿下……、盧江で不手際があったことは、事実ですから」

「私を呼んで、何かがあるたびに厳罰を与えていては、誰も江東江南の豪族は私を招いてくれなくなってしまうぞ」

 周瑜は溜め息をついた。

 孫策が隣の玉座で、口許を押さえて笑いを押し殺している。


 ごほん!! と咳払いをしたのは張昭だ。

 孫権も厳しい顔をしていた。


「陸康殿。俺は貴方に恩があると思っている。

 貴方は曲阿きょくあの城から逃れた時、富春の城を失い居城を失った俺達に寝床を与えてくれた」

「ですが殿。陸家は元より、袁術亡き後、仕えるべき主君を探しておりました。

 孫家以外の主君を選んでいたらば、どのようになっていたのかは明白な事実。

 曲阿から逃れた我々にもし攻撃を与えるようなことがあれば、それは当主が愚かと言わざるを得ません」

 孫策は手で制した。

「別に攻撃しなかったんだからいいだろう。余計なことを言うな」

「我々が陸家に恩を感じるようなことは何もないということを、一言、申し上げただけです」

「そうか。じゃあもう聞いたから口を閉ざしてろ。これから周瑜が喋る」

「陸家と孫家は、今まで不幸にも、今ほど信頼し合って付き合うことが出来なかったが、それは過去のこと。

 江東の情勢を考えれば、貴方がたには袁家との付き合いがあった為、袁術と犬猿の仲にあった孫家とそう簡単に貴方の個人的な一存で近づくことが出来なかったことは私はよく分かっている。ここにいる皆も、それは理解出来ている」

 理解出来ていると、周瑜は言った。

「はい。勿体ないことにございます」

「その証に、袁術の死後、貴方は我々に手を貸して下さった。

 当時は劉繇りゅうよう王朗おうろう許貢きょこうと他にも名のある豪族たちがいたにも関わらずだ。

 それに、あの時は袁術を殺し、下手をすれば朝廷からも孫家には懲罰が与えられるほどのことだったのだから、あの時陸家が孫家を助けてくれたことに、礼は申しても他意があるなどという必要はないかと」


「お二人が、過去のことを言うなと申されるはよく分かりました。

 わたくしもただでさえここで、小うるさい説教ジジイだと思われているので、これ以上小言は重ねたくありません。

 ――では、此度の件の話をいたしましょう。

 陸康殿も仰られた通り、此度の件は妃殿下の身に毒を盛られたことが明確になった以上、国として下手人は挙げねばならん。

 何といっても、陛下の唯一のご正妻というだけではなく、孫呉に置いて、王妃は王の共同統治者であらせられる。

 つまり、陸家はその領地において、我が国の王を危険に晒したということだ。

 見逃せば国の威信に関わる!

 使えるべき豪族が、王の命を、緊張感も無く扱い、危害を与えても大した咎めも受けぬなどと思われたら、国のいしずえが揺らぎますぞ!!」


 張昭の声が響いた。

 立ち会った武将達も、文官達も、口を閉ざしている。


「――……張昭の言うことは一理ある」


 孫策が口を開いた。

「俺は貴方が好きだが、周瑜に危害が与えられたことに関しては、こう見えて内心怒り狂ってる。いつもの俺なら周瑜が無事であったのだから構わんだろうとキャッキャ無邪気にはしゃいでいる所だがな。

 今回は周瑜が本当に死にかけた。見過ごすわけには行かん。

 貴方にはこの一月、下手人げしゅにんを挙げる時間は与えた。

 その成果はあったか?」

「……申し訳ございません」

「うん。まあいい。建業の宮廷医師も、軍医も、街のありとあらゆる腕の立つ医者にも周瑜を診せたが、十日もの間、城もその病状が特定できず時間を使った。混乱はこちらも同じだ。

 その間に、毒を盛った奴は逃げたんだろう。

 俺もその時、運悪く建業を離れてた。文句は言えん」

「いえ……」

「下手人を挙げれば、こいつらも陸家のせいではないと納得出来たと思うが。

 陸康殿。悪く思わないでくれ。

 これも国の為だ」

 陸康は目を閉じる。

「……はい……。覚悟はしております」

「そうか。では王妃の暗殺未遂に関わったとして、陸家は厳罰に処す。

 王妃の暗殺未遂なら、反逆罪だ。

 盧江太守には死罪を与える」

 何も言わず、陸康は平伏した。

 陸遜は後ろで、静かに手を握り締めた。


 陸康とて、邪悪な人間というわけではない。

 陸遜の父を死に追いやったのは、陸康の更に先代のことだ。

 だが、彼は父親の言いなりで、駿しゅん流の跡継ぎである陸瑁を外戚に養子に出し、これを絶やそうとした。

 嘆願したのは陸遜だ。

 陸康が陸遜に<六道ろくどう>の長になれと言ったわけではない。

 だが、承諾し、彼は今まで当主として、<六道>に相応しい闇の仕事を、陸遜に任せて来た。

(私はこの人を恨んでいるのだろうか)

 陸遜は自分に問う。



 この世には、他の者がやらない仕事を、引き受けようとする人間がいる。



 淩統から聞いた、孫策の言葉を思い出し、陸遜はそっと目を閉じた。

(……それを理解してくれる人がいるなら)

 例え望まなくても、影で生きなければいけない人間がいるのだということを、知ってくれているのなら、自分の想いも、父の犠牲も、きっと報われる。

 陸遜は心を決めた。

 陸康や後継の陸績に何かあれば、身代わりになって死ぬというのが、傍系の当主の習わしなのだ。

 陸遜は、父親である陸駿の傍系の血に、誇りを持っていた。

 陸駿の「息子」は死を恐れて使命を全うしなかったなどと、決して言われるつもりはなかった。

 陸駿の血筋は本流に対して常に誠実で、勇敢であると示す。


 この世で背負った使命はたくさんあるが、それが最も重要な使命なのである。


 迷いは無い。

 これで自分は死ぬのだなと思った今も、悲しみや未練や、後悔などは陸遜の胸には浮かばなかった。

 それだけでも、救いだ。



「……盧江太守には死罪を命じるが、私は今回、陸遜に命を救ってもらった。

 彼がいなければ、その働きがなければ、死んでいたと、伯符殿もその目でご覧になっている。

 貴方は陸遜の育ての父だ。

 陸遜の父はかつて、長安の変で亡くなったと聞いた。

 私にとって恩義のある、陸遜から二番目の父親まで奪いたくない。

 よって、陸遜の働きに免じて、盧江太守には恩赦を与える」



 陸遜は思わず、顔を上げていた。

 驚いた顔をした陸遜と、周瑜は目が合う。

 周瑜は小さく笑んだ。


「陸康どの。……これは命令ではなく、私からの素直な願いだが。

 陸遜の、陸家で負う使命がどのように難しいものかは、私もよく理解しているつもりだ。

 陸家には陸家の誓いごとがある。それに口は出さない。

 だが、陸遜には此度のことだけではなく、今までにも幾つか、すでに私も伯符殿も命を助けてもらっている。

 その働きに報いて、今回の沙汰にした。

 そのことよく、承知して貰いたい。


 ……陸遜を大切にしてやってくれ」



「――はい。承知いたしました。ご温情、感謝いたします」



 陸康が深く平伏する。

「うん。良ければな、周尚殿の所にも顔を出してやってくれ。きっと心配しているはずだからな」

 孫策が付け足せば、もう一度、陸康が謝辞を述べて一礼した。

 孫策は頷き、周瑜を促して退出した。

 全ての人間が部屋から出て行くと、陸康は深く息を付き、思わずそこにそのまま尻を付いた。


「ご当主」


 陸遜がすぐに、手を差し出し、肩を使って陸康を立ち上がらせようとした。

 だがその手を、陸康が握り締める。


「すまん。伯言。

 今回は本当にお前に救われた。ありがとう」


 陸康の表情には安堵と、本当の感謝の気持ちが現われていた。

 

 ……この人は他者に命じるだけではない。

 本当に、陸家の全ての人間の命を、彼もまた背負っているのだ。



 


◇ ◇ ◇





「周瑜さま」



 私室に下がろうとしていた孫策と周瑜が振り返った。

 陸遜が駆けて来る。

 彼女はすぐに、そこに膝をついて、深く一礼した。


「ありがとうございました」


 陸遜が言えたのは、それだけだった。

「伯言。膝などつくな。さっき言ったことが、私と伯符の素直な気持ちの全てだ」

「うん」

 孫策も頷く。

 周瑜が陸遜を立ち上がらせた。

 だが、周瑜は陸康に言葉を与えた。



『二度と父の名は、使い捨てさせない』



 顔を見れば分かった。

 周瑜にだけは話した。

 王の血が欲しくて、孫策の子種を狙った。あれはただ一度、魔が差したことだった。

 だがそのことは二度と口にしないし、孫策にも触れないと陸遜は周瑜に誓ったのだ。

 自分が王の子を生めば、陸家本筋に、駿流はもう侮られなくて済む。

 陸遜の望みはただそれだけ。

 だから周瑜は、陸康にあんなことをわざわざ言ったのだろう。

 陸遜を重んじなければ、これからの恩赦は無いと。


「……これくらいのことしか出来ないが」


 周瑜が言うと、陸遜は俯き、首を大きく振った。


 少しだけでも、陸遜の望みに、近づいただろうか?


「……陸遜には、伯符の命も救ってもらったな。

 命だけじゃない。私の心もだ」

 周瑜は微笑むと、首から下げていた指輪を陸遜に見せた。

 曲阿きょくあの城で周瑜の手に戻った、孫策の指輪だ。

 確かに、孫策が生きて、いずれ帰還するのでその時に備えるよう、暗に示す意味であの時周瑜の元に届けた。

 陸遜は微かに目を見開く。

「なぜ……」

 周瑜は笑って、珍しく驚いた表情を浮かべた陸遜の髪を、くしゃくしゃと掻き混ぜた。


「陸績を、怒らないでやってくれ」


 その一言で、陸遜の表情が曇った。

 理解したのだろう。

 陸績が全て話したのだ。

「あの子は、本当にお前を慕ってるんだな。

 お前が前に投獄された時、必死に私に嘆願して来たんだよ。

 陸遜。 

 お前が思ってるよりもずっと、お前が重ねて来た善行は、周りの人間の心を照らしていると思うぞ。

 お前はいつもすぐに、他人の為に自分の命を投げ出すが。

 どんなことがあってもお前に生きて欲しいと願ってる人間がいることも、忘れるな。

 勿論私もその一人だし、伯符もな」

 周瑜が孫策の顔を見上げると、孫策が笑みを返した。


「その腕、大丈夫か?」


「……はい。順調に回復しています」

「そうか。良かった。

 だがお前の請け負う仕事は油断ならん。身体は万全に直せよ」

「はっ。」

「私も今、身体を治してる所だ。

 春までには馬に乗れるようになりたい」

「私も、そのように考えています」

 陸遜が応えると、孫策が声を出して笑った。

「支障が無いようなら、近々出仕してくれないか? 力仕事なんかさせないし、私の側にいて助言をしてくれるだけでも助かる」

「はい。では明日、参ります」

「そうか。ありがとう」

「仔馬もありがとうなー。陸遜。可愛がってる。今、名前を決めてる最中だ」

「名前はもう決まったぞ。は……」

「<はくふ>はやめろ。もう犬に付けただろ」

「馬にはつけてないぞ」

「名前が重複するとややこしいからやだ。あとそれは俺の名前だ。なんで俺の名前を動物につけるんだよおまえ」

「呼びやすい」

「他のにしろ。はくふ禁止令を出すぞ」



 陸遜は回廊の向こうから聞こえて来る声に、笑ってしまった。

 くすくすと笑い、それから、笑みを止めて、目を閉じた。

 込み上げて来る何かを、押し込む。




『どんなことがあっても、お前に生きて欲しいと願っている人間が』




 その気持ちは分かる。

 かつて、陸遜の中にも、その気持ちはあった。


(いや、今も……ずっと、この胸の中にある)


 大きな温かい手で、自分を撫で、抱き上げてくれたひと。


 大好きだった父。


 自分はその人を守れず、死なせた。

 だから、その人の名誉だけは守り抜こうと思ったのだ。

 その為に命を投げ出すことは、当然だと思っていた。


(でも……)


 生きてこそ守れる何かも、確かにあるのなら。



 陸遜はしばらく閉ざして、平静を取り戻した瞳をゆっくりと開いた。

 冷たい風が回廊を通り抜ける。

 しかし、射し込む太陽の光は温かく陸遜の身体を包み込んでいた。





<終>



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