第3話


 




 仔馬の柔らかい毛を撫でてやる。

 父親譲りの、大きな黒い瞳だ。



「伯符」



 孫策は振り返った。

 周瑜が緩やかな螺旋階段を下りて来るのが見えて、すぐにそちらに駆け寄って行く。

「もう起き上がって大丈夫なのか?」

 周瑜は盧江の帰りに眠りについてから、目覚めるまで、一月以上眠ったままだった。

 また毒自体も彼女の身体の機能を止め、解毒をするためには何日間も高熱に晒されなくてはならなかった。

 虞翻の健診では、体力も含め、毒によって痛んだ体中の機能が正常に戻る為には、数カ月要するだろうということだった。

 実際にこの一週間ほど、周瑜は起き上がっても、長時間歩きまわることが出来なかった。

 身体を支える足に疲労を覚え、眩暈も感じたのだ。

 だが、眠り続けるのはよくないと、数時間ずつでも回廊を少し歩いたりして、周瑜はずっと身体を慣らしていた。

 この<王妃の庭>まで周瑜が降りて来たのは、城に戻って初めてのことだった。


「うん。今日は体調が良い。少し庭を歩きたくなったから」


 そうか。

 孫策は周瑜が庭にやって来たことに安心して、彼女の手を握り締めた。

「少し歩くか。疲れたらすぐ言え。俺が抱えて連れ帰ってやるからな」

 周瑜の頭を撫でてやる。

「うん」

 頷いて、周瑜は孫策が構っていた仔馬に気付いた。

「ああ、来たのか」

「うん。淩統がな、盧江に行った帰りに、連れ帰って来てくれた」

 周瑜が近づいて、まだ細い、馬の身体を優しく撫でる。

「やぁ。この前会ったな。私を覚えているか?」

 馬が耳をくるくる動かしている。

「逃げないな。親父に似て度胸がある」

「はは……そうだな。まだ毛が薄くて柔らかい」

 周瑜は空を見上げた。

「策。今日はまた、夜は雪が降るかも」

「そうだなぁ。ここじゃ寒いか。中に入れてやろう」

「うん」

 周瑜が微笑む。

「……伯符?」

「ん?」

「陸家のこと……君はどう考えてる?」

「ああ……それなんだがな」

 くしゃくしゃと孫策が自分の髪を掻き混ぜた。


「俺はこの件を、これ以上騒ぎにはしたくない。

 だけど今日もあいつらと話して来たが、他の豪族の気を引き締める為にも、陸家には重罰を与えた方がいいという意見も多い。

 元々、反董卓軍に参戦する為に江東連合に参加しなかった陸家には、風当たりが強いんだよ。

 俺はそんなもんは個々の家の事情があると思ってるんだが、陸家が長く袁術と同盟関係にあっただろ。富春ふしゅん攻めの時も、名門だが袁術を止めなかったと、孫家の中に恨みは根深い。それに来て今回、お前が盧江で巻き込まれたからな」


「ごめん……私のせいで、問題を大きくしてしまった」

 孫策は首を振る。

「何言ってんだ、周瑜! お前が詫びることじゃない」

 一瞬声を張ったが、すぐに孫策は周瑜の身体を両腕で抱きしめた。

「お前は今回の件では何も悪くないんだ。謝ったりするな。

 ……お前が気掛かりなのは、陸遜のことだろう?」

「うん……。あれからこちらに顔を見せてないのは、多分、城のこういう雰囲気が分かっているからなんだろうな。

 陸遜の傍系ぼうけいは、本家に何かあれば身代わりになるべき使命を負ってる。

 厳しい処罰がなされた場合、陸遜の立場は陸家で悪くならないか、少し気になってる……。

 私を助けてくれたのは陸遜なんだろう?」

「そうだ。あいつが、解毒の薬を作る素材を持ち帰ってくれた。

 泰山の地下洞窟にとんでもない化け物がいて、喰われかけたって淩統が言ってたからな」

「だとしたら、私の命を救ってくれたのは陸遜だ」

「……一度陸遜を城に呼ぶか?」

「……。いや。やめておいた方がいいだろう。それは尚更、陸遜のここでの立場を悪くする。

 孫権殿や張昭殿も快く思わないだろう」


「あーめんどくせえ! なんで自分の妻の命救ってくれた奴に正面からありがとうって言っちゃなんねえんだ!」


 孫策が声を荒げると、二人の後を、窺うようにトコトコとついて来ていた仔馬が小さく嘶いた。

 周瑜は馬の方に歩いて行って、よしよし、と撫でてやっている孫策を見つめた。

 窮屈そうだ。

 孫策は理想を掲げて、この国を建国した。

 彼が窮屈だと思う政は、周瑜は間違っている気がした。


「……君の言う通りかもしれないな」


「ん?」

「伯符。……私に考えがあるんだが」

 しゃがんでいた孫策が立ち上がる。

「なんか思いついたみたいだな」

 彼は笑った。

「いや。そんな大層なことじゃないけれど、私も、助けてもらった相手に素直に礼が言えないのは、おかしいと思うんだ」

 孫策が戻って来て、周瑜と向き合い、彼女の腰に腕を回した。

「いいぞ。それならこの件はお前に預ける。俺はどうしたらいい?」

「陸康殿を、城に呼んで欲しいんだ。それだけでいい」

「陸康殿を? 分かった。すぐにする」

「うん」

 きゅん、と声がした。

 きゅんきゅん鳴きながら向こうから<烈火>が駆け抜けて来る。

 そのまま孫策達の方に来ようとしたが、見慣れない仔馬に気付き、ぴたっとそこで止まった。

「お。出会ったぞ」

「仲良くなるかな?」

「さてどう出るか……」

 仔馬は耳をぴくぴくさせていたが、じっとして子虎を見ている。逃げ出す様子もない。

 子虎は近寄れず、ウロウロしていたが、不意に低めの四つん這いになると、大きな口を開けた。

 小さいながら、虎らしい歯が見える。

 だが実際はまだ噛む顎の力が全然ないので、甘噛みすら出来ないのだ。


 きゅん!


 顔は牙を剥いてなかなか様になった顔をしたが、出た声があまりに子犬のようで、孫策が吹き出した。


 きゅんきゅん!!


 一生懸命鳴いているが、仔馬は無視をした。

 やがて鳴いていた虎は疲れたのか、みゅう……と今度は猫のような声を出してから、一目散にそこから逃げ出して行った。

「あいつは虎の心構えがなっとらんな。もっと鍛え上げんと」

 孫策が笑っている。

「子犬とか猫みたいな声を出す」

「<緋湧ひよう>のように立派に咆えるようになるにも修行がいるんだなぁ」

 大変だな、と周瑜もくすくすと笑った。


「君とこうやって、動物たちとこの庭にいると、……帰って来たんだなって思うよ」


 孫策は周瑜をもう一度抱き寄せる。

「……安心する」

 孫策の温かい胸に顔を埋めて、周瑜は幸せそうに言った。




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