第2話
陸遜は盧江の城の厩舎側で、壁に寄り掛かりながら、足と動かせない片手の手の甲を使い、非常に器用な格好で書き物をしていた。
「りくそ~~~~~ん」
かなり急ぎの用だったので、集中して書いていたのだが、名前を呼ばれたことに気付き顔を上げる。
見遣れば、向こうから、馬に乗って淩公績が駆けて来るところだった。
「淩統殿」
「陸遜! おはよう!」
馬の尻尾みたいに一つに結い上げた髪を揺らしつつ、彼は側に来ると元気よく、地に降り立った。
「おはようございます」
淩統は笑顔で寄って来たが、自分の足を机代わりに書き物をしている陸遜の様子を見て、目をぱちぱちした。
「すっごい体勢で書き物してんね。家の中で書けばいいのに……」
「ああ、もうすぐここに部下がやって来るので」
「あ。そうなの。」
「はい。<
「なに書いてるの?」
「偵察部隊が持ち帰った情報に対しての返答です」
「へぇ……本当に陸遜が長として全部あいつら動かしてんだね」
陸遜はその言葉には、唇で小さく笑んだだけで何も言わなかった。
言っている間に、陸遜は書き終わったようだ。
筆を口で咥え、さっさと、紙を重ねて滲まないようにすると、折れて動かない右手など、最初からそうだったかのように手の甲を使いつつ、主に動く左手で文を丸め、手首に掛けていた紐を小指で取る。
あまりに見事な素早い手つきに、見送ることしか出来ずにいた淩統が、あっ、と動く。
「俺が結ぶよ」
文と紐を受け取り、代わりに結んだ。
実のところは手助けなどいらず、陸遜はサッと自分で結んで仕上げられたが、淩統がやけににこにこして「俺がやりますから!」という空気を出して来たので、いや、余計なことをしなくていいですとわざわざ断るのもかえって時間が掛かりそうに思って、陸遜はありがとうございます、と言っておいた。
そうしていると、<六道>の者がやって来た。
「これを、江陵に」
「はっ」
陸遜と<六道>の者達の間には、余計な会話というものは一切存在しない。
挨拶すら、言葉では存在しない。
ただ彼らは、陸遜の前に来ると、深く一礼して、陸遜は一つ頷いて返す。
自分のことを考えると、余程希薄な遣り取りなのに、だが彼らの間には何か、淩統が実家に戻った時、館の者から受ける暑苦しい抱擁や愛情以上の、濃い繋がりを感じ取るから不思議だ。
「筆をお持ちします」
陸遜が手に持っていた墨に濡れたままの筆を、<六道>の男が受け取ろうとした。
「あっ!」
手渡そうとした陸遜はいきなり淩統が声を出したので振り返った。<六道>の男も、思わずそちらを見る。
淩統は筆を指差した。
「それ俺が今から陸遜に、俺が洗ってあげるよって言うつもりだったのに」
琥珀の瞳を瞬かせてから、陸遜は<六道>の男に筆を渡した。
「いいですよ。行って下さい」
「はっ!」
風のように男は去っていく。
「俺だって少しは、気は利く男だぞ。筆を洗ってあげようかなぁくらい気づいた」
淩統が唇を尖らせている。
陸遜は、あの<
淩公績はどうでもいいことを喋ることが多い男なので、彼の言っていることをいちいち気にしても仕方がないのである。
「淩統殿は、お元気そうですね」
話題を変えるように陸遜は言った。
「平地に戻って、明るい表情になられたみたいだ」
淩統が半眼になる。
「ええ、まあ……。もう二度と山登りはしたくないっ! って心底思いましたからね。
平地のありがたみが毎日身に染みてますよ」
「それは、良かった」
陸遜は後ろの小屋から顔を出して、自分の栗色の髪をモフモフ……、とした馬の首を、動く手の平で撫でてやった。
その様子に、淩統は目を輝かせる。
彼は馬が好きだ。
馬の世話も好きなのだ。
だから、他人が馬に触る手で、その人間がどういう人間かが分かる。
陸遜は淩統のように馬に対して目に見える形で溺愛している様子を見せたりはしないが、首を撫でる手つきが、ちゃんと落ち着け、いい子だ、と馬に呼びかける確かな触れ方をしている。
初めて会話をした時も、確か盧江のここの城だった。
陸遜は馬の世話をしていて、あの時も、馬の手入れの上手い兵士だなと、瞬間的に淩統は思ったのだ。
陸遜の馬の触れ方は、馬が好きか、もしくは彼らのことをよく理解している人間の触れ方なのだ。
ただ、よく理解しているということは、興味深く思っているということなので、
(つまり俺と、馬が好きっていう趣味は一緒なんだな)
淩統は勝手にそう思って嬉しくなった。
にこにこしながら長身の淩統がそこに立っているので、陸遜はふと気づく。
「淩統殿は……盧江の城に来られたということは、何かこちらに用が?」
「ああ、周瑜殿が今朝目を覚ましたみたい。父上から聞いたから、報せに」
陸遜は瞳だけ輝かせて、小さく笑んだ。
「そうでしたか。それは
「ああ、いやいや。俺は父上から聞いて、陸遜に教えてあげたかっただけだから。陸康殿には君から伝えといてよ」
「……? はい……。分かりました。あの……ではなぜわざわざこちらに」
そんなことくらい、人を使えばいいのに。
当然そう思ったが、淩統は照れたように髪を掻いている。
「それを言わせますか。陸遜さんは、積極的ですねえ」
「?」
「そら、喜ぶ顔が見たかったから、なんだけどな……」
「あ。そうですか。それはわざわざ、ご苦労様です」
照れ照れしていた淩統はがくっ、と片方の肩を落した。
陸遜は苦笑する。
彼は、……彼女は、すでに二十歳を越えていたが、恋愛事になど時間を費やしたことは一度もない。それでも日々、人間の思惑に触れていることで、人間の心の動きには聡い。
当然、向けられる感情に対して無頓着ということは決してないのだった。
自分に殺気を向けられても気づくのだ。
好意を向けられたってそれには気付ける。
ただ、淩公績という男は見かければ女にはいい顔をする男だったので、その点陸遜は一切信用していなかった。
混乱の最中、自分が女だということを知って、面白くて、今は物珍しくて懐いているのだろうと思う。
陸遜があまり相手にしてくれなかったので、淩統は息をつく。
「陸遜さー。なんで城に戻らなかったの?
オレ、孫権殿とか張昭さんにもすっげーよくやったよくやったってみんなにいっぱい誉めてもらったよ?」
陸遜は壁に寄り掛かっていた体を戻した。
ゆっくり歩き出す。
あの巨大な<
取れかけたのだ。当たり前である。
骨も砕けていたので、彼女は今、右腕は動かないように固定して、とにかく傷の治癒を待っている状況だ。
袖を通していない、衣の裾が風に吹かれて大きく揺れた。
「陸遜、ああいう場所にちゃんといないから、誤解されんだよ。
ホントは今回のことだって、ほとんどあんたが頑張ったのに、絶対今までのことあったって、孫権殿、陸遜のこと労ってくれたって。
今からでも遅くないし、ほら、傷の手当てがあったから挨拶が遅れたって言えばいいから、一緒に城行こうよ」
盧江の庭までやって来た。
「いえ。今回は……」
「なんで?」
「周瑜様は盧江に来られた折にあのような状態になられたのです」
「それが?」
「私も陸家の一人として、責めは負わねばなりません」
「けど、別に陸家の人が毒を盛ったわけじゃないんでしょ?」
「今その仔細は調べさせています。少し思う所があるので」
「おもうところ?」
「まだ、確かなことと言えないので、口には出来ません」
淩統は肩を竦める。
「別に確かなことにする前に、確かなことじゃないですけど、もしかしたらって、話してくれればいいのに」
「そんないい加減なことは、私の立場では許されませんよ」
陸遜は池の周囲を、ゆっくりと歩き始めた。
淩統はそこから、彼女の背を眺めた。
男のように短い髪。
首を俯かせると、白い項が見える。
陸遜は体つきも細いから、距離を取って眺めると、心許なく見えるのだ。
これが戦場では苛烈な剣を操り、どんな敵にも躊躇いなく斬りかかって行くというのだから驚く。
それに、あの足場の悪い中での機動力だ。
(なんか実際見たのに、まだ信じらんねえな)
淩統は枯れた水辺のススキの向こうに佇む、陸遜を眺めながら思った。
「陸家に罪人がいなくとも、この城で起きた不始末に対して、一族の者、特に長である陸康殿は責任があります。
しかも相手は、妃殿下。
今回はご無事に戻られたため、その点では安堵しましたが、周瑜様がもし亡くなられていた場合、孫策殿と言えども、陸家を許しはしなかったでしょう。
あの方の、感情というよりも、国の王としての立場が陸家を許しません」
「なにか大きな処罰が来ると思う?」
陸遜は唇だけで笑んだ。
「さぁ、それは私には判断できません。全ては孫策殿、もしくは妃殿下である周瑜様がお決めになられること。
私は陸家の人間ですから、いかに今回尽力しても、それは免罪符にはならない。
喜びの場所に私がいると、城の方たちも複雑な心境になられ、折角王が帰還されたという祝いの空気に盛大に水を差します。
ですから今回は私はこちらで、遠慮させていただきました」
「理には適ってるけど、どうも釈然としない」
「貴方は釈然としないことが多いんですね」
陸遜がまた歩き出す。
「孫権殿ってなんで陸遜をあんなに嫌うんだろう?」
彼女は笑む。
そんなことはありませんだとか、気のせいでしょうとか、そんな意味のない言い方をされるよりは、余程淩公績の素直な指摘の仕方は好ましかった。
「私は今までも、
静かな声が返って、淩統はもう一度陸遜を背を見た。
「けど…………、策様はあんたをすっごい信じてたよ」
陸遜が振り返った。
冷たい冬の風が吹き、彼女の衣の腕の部分が、大きく揺れた。
「オレ、話したんだ。あんたが地下洞窟に向かった後、策様はあんたが、なんか危ないことしようとしてるんじゃないかって、気づいてた。
周瑜殿の為に。
あんたは戦場では勇敢で、平時も周瑜殿の為に心底働いてる」
『周瑜が言ってたんだよな。
陸遜は、陸家の傍系の血筋で、本流の命令に必ず従うのが仕事でさ。
その決まりは絶対なんだよ。
権がさ、陸遜のことを、信用出来ねえってよく言うだろ。
多分あいつは、信用出来ないんじゃなくて理解出来ないんだよな。
人が人に使われるっていうことがまだ……。
けどこの世界には、やりたくないことでもやらなくちゃいけない奴はいっぱいいるし、拒否することすら許されてない奴だっているんだ。
……周瑜が陸遜を気に掛けてたのは、きっと陸遜がそうだからなんだろうと思う。
陸遜は他人が嫌がる仕事はまず自分がする、って考える奴だからさ。
あいつはまだ若いけど、今まで多分ずうっと、そうやって生きて来たんだろうな。
陸康殿に命じられたことは、何であれこなす。
それがあいつの存在理由なんだ』
陸遜はじっと、淩統の言葉を聞いていた。
『そうだよな。
お前は、父親の跡を継いで、仕えてくれてるだろ。
オレや周瑜を慕って、仕えてくれてる奴もいる。甘寧とか、玉蘭なんかもそうだ。
家族だから、友情があるから、恩義があるから……。
けど陸遜は命じられてるから俺たちの為に戦ってる。
権や張昭は「だから陸遜は信用出来ない」って言ってんだ。
でもそんなの、……おかしくねえか?
命じられてたって心に揺るぎが無ければ、愛情を持ってる奴らと同じくらいの働きは出来るし、あいつはやってる』
確かに、次男の孫権には陸遜は疑心の目を向けられたり、見かけられると、疎ましそうな表情をされることの方が多いが、孫策にそういう目を向けられたことは一度もない。
「そうとも、言ってた。
俺その時思ったんだよ。策様ってすげーあんたのこと信じてるんだなって」
陸遜はしばらく押し黙っていたが、小さく笑んだ。
「私というより、孫策殿が何より信じておられるのは周瑜様ですね」
「まぁ、そうとも言う。
……けど! 同じことだろ。その周瑜殿があんたを信じてるんだから」
(信じる、か)
一番信じられるものを失った日、陸遜は全てを信じることをやめた。
尊い人間には会った。
信じるべき、人間だ。
陸遜にとっては、
周瑜も。
これほど自分の心を照らしてくれる相手を、信じないことはおかしいと、自分でも思うような人間。
白い息を吐く。
まぁいい。
信じる信じないなどと口に言うことに、意味などはない。
陸遜は人柄などで、相手に信じてもらうことの出来ない人間だった。
多くの偽りを抱え、沈黙を抱え、魂を委ねられる友も家族も一人もいない。
それでも与えられた任務を果たすことで、仕事だけはきちんとこなす人間だと、そう思われることである程度の信頼は受けられる。
そのことは知っている。
歩き出そうとした脚が止まった。
『この世界には、やりたくなくてもやらなくちゃいけないことをしてる奴がいる』
孫策のその言葉は、胸に染みた。
彼がそう思うのは、……きっと周瑜の<闇討ち>を、側で見て来たからなのだろう。
他人が嫌がる仕事や使命を、引き受ける人間がいることを、孫策は知っている王だ。
それだけでも、この<呉>という国は少しだけ未来は明るい。
孫策と周瑜が陸家に対して、どのような措置を取るのかは分からない。
陸遜は洛陽を調べさせ、あの日盧江の城で見かけた侍女の素性を探っている。
見立てはあった。
日々、醜い争いと人の策謀の中に身を置く陸遜は、人の悪心に鼻が利いた。
恐らく、部下たちは洛陽から長安に向かっているだろう。
沙汰が下るまでに戻るといいが、長安は今、守りは固い。
<六道>の者でもなかなか情報収集は難しいだろう。
陸遜が思い描く通りの真実を部下が持ち帰れば、陸遜はそれを、孫策に伝えるつもりだった。
だが、陸家への厳罰が予想される以上、陸康にそのことを報せれば、その情報を引き換えに陸家への罪が軽くなるよう、そう取り計ろうとすることは明らかだ。
陸遜はそれは、嫌だった。
孫策と周瑜に対して、救ってやったことを盾にするようで、自分を信じてくれるあの二人の信頼を、逆に利用するように思う。
ただ、陸家本流に仕える陸家<六道>の長として、陸家の当主は守り抜かなければならない。
もし陸康が処断されることになれば、陸遜は自分の首を差し出すつもりだ。
別に望んでではない。
そうする決まりなのだ。
父も、陸家の当主に死が迫った時、身代わりになって命を落とした。
孫権や張昭など、予てより自分に不信を抱く者達は、恐らくこれを機会に全ての危惧を一掃しようと望むはずだ。
あとはどうなるかは分からない。
自分の命の行く末は、常に他人の決めるところにある。
自分の処断の後に、周瑜に毒を盛った相手の情報を伝えるならば、託すべきは陸績か。
(……いや、弟か)
陸遜は考え巡らせた。
蘇州の屋敷にいる弟の
まだ十代で、<六道>の話では真面目で聡明ではあるようだが、争いごとには向かない性格をしているかもしれないと報告が入っている。
(真面目で優しくては、陸家本流とは戦えん)
陸瑁にも、孫策にとっての周瑜のような、そんな妻がいてくれれば良かったな、とついそんなことを考えた。
差し当たってもし、自分がいなくなった後に本家の人間が
父親の血筋をまず第一に、陸康への義理と責任を果たさねばならないのが、いつも悩ましい所なのだ。
そこに加えて今は孫呉の忠義も考えなくてはならない。
(弟に全てを託す。これだけ、必死に生きて、私は死ぬ時にたったそれしか出来ることが無いのか)
洛陽か長安にでも行って、いっそ派手に、董卓か呂布の首くらい取りたいものだ。
そうすれば、孫策と周瑜にもいい土産が出来るし、陸家の名誉は守られ、自分の父の名も、一族の名も、長く讃えられるだろう。
(そんな人生が良かった)
周尚に相談された陸康が、陸遜に周瑜の側仕えを命じ、周瑜という人間に仕えられたことは幸いだったが、盛大な戦功は地道な忠義よりも明るい。
「また、なーんか一人で難しいこと考え込んでる顔」
横から淩統が覗き込んで来る。
「いえ。別に」
「俺、そんなに落ち込ませるようなこと言ったかな。策様のことも、ちょっとは君が喜ぶかなと思って話したのに」
「喜びましたよ。嬉しかったです。信頼していただいて」
淩統は唇を尖らせる。
「……なんか違うなあ……。嬉しいってそんな淡々と処理する感情じゃなかったと思うんだけど……」
「まぁとにかく、淩統殿もお帰りになられた方がいいかと。
今は陸家、事実上の謹慎の時期ですから。
出入りすると御父上に叱られるのでは?」
「へへっ。うちの父上をあんま見くびらないで欲しいなあ。陸家が謹慎中だからあんたに会いに行くななんていう心の狭い男じゃあありませんよ」
淩統は妙に嬉しそうに胸を張った。
そういえば、淩家は母親がいないようだが、ここは父子の仲がいい。
淩統を見ていると、母親がいない分の愛情を父親である淩操がきちんと注いでいて、親に愛されて育った人間なんだなということがよく伝わって来る。
「そうでしたね。すみません」
陸遜はまた、小さく笑った。
淩統は、今回のことで、それまで全く知りもしなかった陸伯言という人間の、様々な面を知ったように思う。
女であることも勿論その一つだが、
それまで見かけるたびに勤勉なだけの、にこりともしない人物だと思っていたが、そんなことはなく、彼女もちゃんと日常的に笑うことはあり、
……その笑みが、ずっと見ていたいと思うほど綺麗で優しいのに、いつも小さくて、一瞬で消えてしまうことも。
「一緒に策様たちに会いに行こうよ。陸遜。二人とも喜ぶよ」
「今は遠慮しておきます。呼ばれることがあったらすぐに行きますが。
わざわざ報せをありがとうございました」
陸遜は拱手をしようとして、片手が使えないことを思い出し、一礼した。
数歩歩き出して、首を傾げる。
不満気な顔をしていた淩統も、反対側に首を傾げた。
「どうかしました?」
「あの……」
陸遜は口を開いて、すぐに閉ざした。
「いえ。どうでもいいことでした。すみません」
「ちょーっと!!! なにその、すっごい気になるじゃん!! 今言いかけた! なになになに!!」
淩統が慌てて駆けて来る。
「いえあの、なんでいきなり『陸遜』になったんですか?」
淩統は以前から、自分を『伯言さん』などと
いきなり今日、陸遜と呼ぶようになっていて、素朴に疑問に思ったのである。
だが指摘した瞬間、淩統の表情がぱあっと輝いた。
「気付きましたか! 陸遜!」
「いや気付きましたかというか、」
「だって俺達今回のことですっごい仲良くなったじゃん?
二週間寝食も共にして、あと変な蛇の怪物みたいなとも一緒に戦っちゃったし~ ああ、まあ俺はそんな大したこと、してなかったけどね。主に陸遜の足場になっただけだけど。
それでも一緒に危険を乗り越えちゃったじゃん?
だから、そろそろ俺たちももう一段階進んでいいんじゃねーかなって思ったっていうか」
「……はあ、」
陸遜は淩統を見上げた。
「それがその、呼び名を変えた理由なんですか?」
「だって、なんか『りくそん』って可愛いじゃん? すっごい陸遜に似合ってるっていうか、響き可愛いよね。呼びやすいし。りくそーん! って。
それになんかこう、綺麗で女の子らしくて君にすごく似合ってるっていうか。
陸遜 陸遜! ってほらね?」
「いやそんな無意味に人の名前大声で連呼しないでください」
「またそんな照れちゃって」
「いえ照れてはないですが……一応これでも私は隠密方の首領なのであまり、」
「あっ!!」
淩統がいきなり大声を出す。
「つーか陸遜、それが気になったってことは、俺が今日『伯言さん』って呼ばなかったこと、どうしたのかなって思ったってこと!?」
「いや、思いましたよ。いきなりだから……」
「じゃあ陸遜は『伯言さん』って呼ばれる方が良かったかな!?」
「いえべつにそういうわけでは」
「あ~~~!! ちょっと悩んだんだよね。伯言っていう名前もさあ、すっごい君に似合ってるからさ。俺はどっちでもいいんだよ! ただ、二人の関係を一歩進めるにあたって、いつまでも『伯言さん』『
ちなみに、陸遜は凌統を『公績さん』と呼んだことは一度として無い。
「君が! 伯言さんって呼ばれてたいなって言うなら、全然呼ぶ!!」
がしっと陸遜の手を握り締めて、淩統は真剣な表情になった。なぜ今こんな真剣な表情になれるのかは陸遜にはよく分からなかったが。
「……いえ別に……私は……貴方の思うがまま好きにしていただいて結構ですが」
「陸遜」
「はい?」
「思うがまま好きにしてくれていいなんて……結構君たまに大胆なこと言うよね。けど、俺、君のそういう所も好きだ」
陸遜はさすがに、ばっ、と淩統が握り締める手から自分の手を救い出した。
「そういうことは他のお嬢さんに言って差し上げたらどうでしょうか」
「他の女の子なんかともう付き合ってないよ」
淩統が抗議した。
「あれは、好きになれる子を探してたんだってば。勘違いしないで」
「いえ貴方の女性関係については私は全く興味がありません」
「陸遜みたいな女の子、初めてなんだ。一緒にいて俺にあんな山登りさせる子もいないし、あんな変な大蛇みたいなの一緒に退治した子もいない。君は他の女の子とは全く違う!」
「まぁそれに関してはそうだと思います」
冷静に陸遜は返した。
「山登りや怪物退治がしたいなら、他の方にお願いしたらどうですか」
「いやだ。俺は山登りも怪物退治も本来大嫌いだ」
曇りのない瞳で彼は言った。
「あ、そうですか」
「でも君となら何度でもしたい。」
ぎゅ、と陸遜の手を両手で握って来る。
「これって凄いことじゃない?」
「……まぁ、すごいかどうかは私には分かりませんが……」
「なんで。だってこんなに無駄に運動するのも無駄に戦うのも嫌いな俺が、君となら何度でも山に登っていい気持ちになってるなんてすごいことなんだよ!
それだけ陸遜が魅力的なんだ! 好きです」
見つめ合う。
「……ああ……、それはどうも、ありがとうございます……」
気のない陸遜の返事に、淩統はフッ……、と笑った。
「昨日までの俺なら、その君の気のない返事にガッカリしてたところだが、今日からの俺は違うぞ。君が色んな使命を背負ってるから、素直に自分の気持ちを口に出せない女の子だってことはもう分かってんだらな。
要するに男の俺は、君のその気の無い返事の奥に隠れた、本当は素直に口にしたいけど口に出せない、俺への好きって気持ちを探してあげなきゃダメなんだよ」
そんなものいくら探してもないですよ、と陸遜は言ってあげたかったが、これでも一応、呉でも名高い勇将である淩操の息子だ。
馬鹿かお前はとも言いづらいし、悪い人間ではないことはもう分かったので、あんまり傷つけたくもなかった。
人間は傷つけると、面倒な生き物なのである。
陸遜はそれを知っていたので、押し黙った。
「あれれ。黙っちゃった。可愛いね」
ニコッと笑って明らかに、頬にでも口づけて来ようとした気配の淩統の顔を、さすがに先手を打って押さえた。
「淩統殿。貴方が誰をどう思うと貴方の勝手です。私にそれを止める権利はない。
けれど私は<六道>の長。貴方も彼らを見たはずです。私達の負う仕事は、ふざけながらは出来ない。
私にふざけて触れるのは止めて下さい」
静かな顔で、しかし、琥珀の瞳で淩統を真っ直ぐに見上げ、陸遜は言った。
一瞬、空気がぴりとする。
「陸遜……」
淩統はさすがに真面目な顔になった。
それはそうだろう。これでも武将の息子だ。
人の戦気には聡いはず……
「――の瞳って本当に綺麗だねぇ。宝石みたいだ。なんでだろう?」
不意に目をキラキラさせて言って来る。
陸遜は口を閉ざした。
「これでも色んな女の子の目を見て来たけど、君みたいな綺麗な瞳は見たことないよ」
「あの。私の話聞いてました?」
「聞いてましたよォ。ふざけながら触れられるの嫌なんでしょ? 真剣に真面目に触れればいいんでしょ。勿論そうする。だから問題ない」
「……そうでなくてですね……、ああ、もういいです。私はこれで。色々やることがあるので」
「やることってなになに? そんな腕じゃ大変でしょ。俺手伝うよ!」
淩統がついて行こうとすると、モフッ、と誰かが肩を引っ張った。
誰かというか、馬だ。
淩統の馬がここまでついて来て、更に自分を置いて行こうとする主の肩のあたりを咥えて引っ張っている。
「こら、引っ張るなよ。今大切な話を……あーコラ! 髪を引っ張って食うな!」
ひひん、と嘶いている。
「あー! 陸遜が逃げる!」
「いいじゃないですか。寂しがってますよ。そっちと遊んであげてください」
「じゃあ陸遜はいつ俺と遊んでくれんの」
淩統が膨れている。
「他を当たって下さい。私は忙しい……」
陸遜は歩き出した。
風が吹き、また大きく煽られた陸遜の袖が大きく揺れる。
「ああ、そうだ……」
離れて行く陸遜が足を止めて振り返ったから、淩統は一瞬期待した顔を見せた。
「馬で思い出しました。
淩統殿、建業の城に戻られるのなら、馬を一頭連れて行っていただけませんか?」
「馬? なんで。ヤダ。だってこいつ見ての通りすげー妬くんだもん。俺が他の馬を可愛がってから会いに行くと、拗ねて厩の端っこに行って、数日間絶対出て来なくなるし」
「そうなんですか?」
「そうですよぉ。俺って女にも馬にもモテるから」
「そうですか。なら遠慮した方がいいですね。結構です」
がく、と淩統は身体を傾ける。
「いやいやちょっと……! ちょっと陸遜! なによ! もうちょっとおねだりとかしてよ! なんでそう君はすぐ諦めちゃうのさ!」
「いえご迷惑かと」
「迷惑なんて言ってないじゃん! こいつが嫉妬するって言っただけ。大事な用なんでしょ!? 他の奴にどうせ頼むんだったら俺を頼ってよ!
こんな奴拗ねたってニンジン入り口に吊るしておけば出て来るからいいんだよ! そんな小難しいこと分かってない……いて!」
淩統が肩を噛まれている。
「分かってるかもしんない……」
肩を摩っている淩統に、陸遜が苦笑する。
「駄目だったらいいんですけれど、仔馬を一頭、建業の城に連れて行っていただきたいんです。
うちにいる<
「ああ、なんか父上から聞いた。策様の馬なんだって?」
「はい。呂布と遭遇した時に乗ってた馬らしく、お気に入りだそうですよ。
帰還された後、しばらく落ち着かなかったので、盧江の城で預かっていたのです。
その馬の仔馬が生まれて、周瑜様がそれをご覧になりたくてこの城にいらしゃったのですが……」
「なんだ。そうだったの」
淩統が馬の鼻筋を撫でてやりながら、頷いた。
「その仔馬を連れて帰れって?」
「周瑜様も孫策殿も、<黒朧>の子供が生まれるのを楽しみにしておられたとか。
きっと見たいと思われるでしょうが、孫策殿は今は周瑜様の側におられたいでしょうし――盧江の城には周瑜様をしばらくはお連れしたくないでしょうから」
「……それって陸康殿の意見?」
「え?」
「陸康殿」
陸遜は陸康の名が今なぜ出たのか、分からなかったようだ。
「……? いえ……別に違いますが……何故です?」
「ふーん。じゃあ陸遜が自分でそうしようって思ったんだ」
「思ったというか……。そうした方がいいかと」
「優しいじゃん」
淩統が明るい顔で笑った。
「陸遜ってさあ、そういうところ、もっと人に隠さず見せればいいのに。
俺の見た所あんたって、真面目だし、仕事きっちりだけど、別にどこかの誰かさんほど堅苦しくもないし、ちゃんと笑ったり、誰かの為に何かをしようとかも考えるし、優しい所もいっぱいあるのにさあ。そういうの隠してばっかいるから、優しいのに冷たい人だとか誤解されんだよ」
陸遜は瞬きをしてから、苦笑した。
「御教授、痛み入ります。――で、どうです。頼めるでしょうか」
「いいよ。俺、面倒臭がりだけど好きな子の頼みってつい引き受けちゃうから」
「そうですか。ではよろしくお願い致します」
陸遜は歩き出す。
「陸遜! 『伯言さん』とどっちで呼んだ方がいい?」
後ろから声が聞こえたが、陸遜は立ち止まらなかった。
(どっちでも構いませんよ。
名前など、さして私には、重要な意味はないものですから)
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