異聞三国志【夢寐より醒めて】

七海ポルカ

第1話








 にゃん……、




 小さな鳴き声が聞こえて、周瑜はそっと瞳を開いた。


 夜色の瞳を眠たげにゆっくり瞬かせていると、後ろから、ぎゅ、と力が籠った。

 そこで初めて、男の腕の中に抱かれていることに気付く。

 周瑜が胸に不安を覚える前に、肩越しに、頬が寄せられる。



「……一瞬、眠ってた」



 囁くような、優しい孫策の声がして、周瑜の胸に安堵が満ちて広がった。


 笑みを含む。

 孫策は寝台に寝かせたままになっていた周瑜の両手を左右それぞれに握り締めると、胸の辺りに重ねて、一層、強い力で抱きしめて来る。

「この前とは全然違うのが分かるから。

 ……お前が温かい」

 孫策は周瑜の髪に顔を埋めるようにして、彼女の柔らかい匂いを嗅ぎ、温かい体温を感じた。

「本当に氷みたいだったんだ」

「そうなのか……。

 解毒が出来たということは、私が口にした毒も特定できたのか?」

「いや。陸遜の師匠が、お前の症状を見て、一番似た病状に効く薬を調合したんだ。薬が特別なものだったらしいんだが」

 くす……、と周瑜が笑った。

 ああ。周瑜の、柔らかい笑い方。

 孫策は見たくなって、肩から顔を覗き込む。

「どうした?」

「ううん『にゃん……』て聞こえた」

 孫策もはは、と笑った。

烈火れっかがさっき入って来た。いま、出て行ったけどな。

 ヤンチャ坊主が珍しく、空気読んでくれたな」

「猫みたいな鳴き声だ」

「だな」

 周瑜はゆっくりと、片手を動かして、白い敷布の上に這わせた。

 見慣れた寝室。

 朝の光と、夜の星が見れるようにと、特別に造られた王の寝所だ。

「……本当に建業に……、私達の家に戻って来たんだな」

「そうだ。戻って来た」

 すぐに孫策が周瑜の手に、上から重ねて、指を絡め、きつく抱きしめた。

「もうお前を脅かすものは何もいないし、……お前は今、俺の腕の中にいる」


 周瑜は目を閉じた。

 今でも思い出すと、身が凍る。

 周瑜が見た悪夢は三つ。

 一つ一つに魂が抉り取られて行った。

 あと一つ、何かを見ていたら、……きっと心が壊れて狂っていたと思う。

 孫策は自分の腕の中で周瑜の身体が震えたのを感じた。


 孫策の命を失うこと。

 孫策の心を失うこと。

 孫策に捧げるべき、この身体を引き裂かれること。

 

 あれは、確かに悪夢で、ただの夢だった。

 だが、どれもが、決して脈絡のない所から飛び出したものではない。


(確かに、全部、起こり得る可能性があったもの)


 幼い頃から無謀な<闇討ち>に、孫策を付き合わせて、一歩間違えれば本当に、あんな風に大望も何もない場所で彼を死なせるところだった。

 自分がこの孫呉という国の、戦う全ての男達の、父親である、太陽である孫策を奪う所だった。

 それならば一人の方がいいなどと、強がって孤高を背負い込んでも、自分以外の女に恋をし、彼女を愛し、人生の伴侶としていく孫策を側で見ていて、死ぬほど辛かった。 

 私だけを見て欲しいのだと、言おうとした言葉を、第一の悪夢が過り、飲み込めば、周瑜はあっさりと三番目の悪夢に飲み込まれた。


 孫策以外の人間と結ばれ、彼以外の男を受け入れ、身体を蹂躙される――あの感覚。

 袁術との記憶は、行くところまで行かずとも、あの恐ろしい可能性をいつも含んでいた。


「周瑜……、大丈夫か?」


「策」


 周瑜は身を捩った。

 自分から腕を伸ばして、孫策の首に絡ませる。


(伯符)


 脳にこびりついた、袁術の、まるで地獄に自分を引きずり込もうとするような、囁く声。

 孫策だ、と周瑜は幾度も思って、胸を幸せで満たす。

 今まで孫策に出会い妻になったことも、周瑜は全てが偶然上手く行って、そうなったのだと思って来た。

 でも違う。

 

(私はダメになっていた。偶然なんかじゃない。

 そうでなければ、駄目だった)



「周瑜」



 この声が無ければ、きっと帰ってこれなかった。

 そして、帰りたいと願えなかった。

 全ての悪夢を、強く、切り裂くほどには。

 どんなに辛いことが自分にあり、また、例え、孫策自身に辛いことがあったとしても、耐えてくれと、そんなことしか言えなくても、

 周瑜は思い知ったのだ。


(共に戦える今が一番幸せだ)


 彼を愛しているから戦から遠ざけるのではなく、

 心を打ち明けず、愛を失うのでもなく、

 ただ友のように側にいいわけでもない。

 この世界の自分には孫策の愛情が不可欠で、孫策からの愛が無くても、彼に、周瑜の女としての愛情が否定されても――きっと生きていけない。


「君がわたしを呼んでくれたから、わたしは今、ここにいられる」


 ごく薄い、青灰色の瞳が周瑜を見下ろす。

 不思議そうな顔だ。

 彼にとってはそれは当たり前すぎて、当然のこと過ぎて、何故そんなことが今更そんなにも感謝されるのか、分からないだろう。

 一瞬見せたきょとんとした顔が可愛くて、周瑜を微笑ませた。


「さく。……孫策、愛してる。好きだよ」


 まだあまり四肢に力は入らなかったが、周瑜はあらん限りの力を込めて、孫策の身体を抱き締めた。


「君がいれば、もう他には何もいらない」



<闇討ち>ももうやめる。


 一人で戦っていれば、そのうち闇に包み込まれる。

 そして、自分は完全なる闇の中を、孤独に彷徨えるほど強くはない。

 この体に微かに香るように流れる、天帝の血。

 その血に少しでも恥じぬよう、今までは戦い続けたつもりだが、もうここまでだ。


 でもその代わり、自分には孫策がいる。

 彼は国の父になり、いずれ北に出現した<呂布>という凶星を討ちに行くべき使命を負っていた。

 孫策がいくら戦の申し子でも、あれは天の災い。

 

 ……必ず死闘になる。


 全ての戦う意志と、守護と、祝福を、少しの曇りも無く彼の許に集結させなければならない。

 もし、呂布を討てたなら、洛陽と長安、この二つの巨都を手中に収めた<董卓>にも迫ることが出来る。


 報いを受けさせる、と孫策は言った。


 董卓はこのまま、この世で悪逆の限りを尽くして、子供が、周囲の人間の思惑など何一つ顧みず、やりたいことをやって、思いのまま暴れ回り、そして遊び疲れたら満足気な笑みを浮かべて散らした世界の中で眠りにつく――そういう風に、この世に在るつもりだ。

 天から降った災いのように、あと十年か二十年か、この世に苦しみだけをもたらす。

 董卓は、自分の後の、平穏な世界だけを約束した。


 そんな馬鹿な話があるかと、孫策は怒り、咆えた。


 

『好きな遊びを存分にしたまま、神のように死ぬなど、俺が決して許さん!!』



 董卓が死ぬまでに呂布を討ち、二都を制圧し、董卓を捕縛し、必ず人として裁き、処刑する。

 その後に訪れる、もう元に戻らない傷を負った世界の中で、人の悪心が全ての元凶だったのだと、世界の人間が知った上で、少しだけ時の流れが緩やかになったと、人々が感じられてこその平穏にだけ、意味がある。

 董卓が暴れ始めてから死ぬまでの、あの時間は一体何だったのかと、……最悪、天の意志があればまた同じことが起こるのではないだろうかと、人々の心に毒のような不安が蔓延したままでは駄目なのだ。


 自分に世界は変えられなかったが、孫策と共に戦えば、きっと彼の切り拓く道が、世界を変えるものになる。

 周瑜は信じた。

 だから、孤独で戦わなくても世界はきっと変えられる。


(きみといれば、きっと。必ず。)


 視線が交じり合う。

「どうした……?」

 突然改まって周瑜がそんなことを言ったので、孫策が小さく息を零して笑った。

「俺だってそんなの、同じだ」

 周瑜を抱き締めたまま、柔らかい毛布に二人で転がる。

 深く、唇が重なった。




「俺もお前以外は何もいらない」



◇ ◇ ◇



 にゃん……、と声がずっとしている。

 星の描かれた薄布を通して、寝所には明るい、朝の光が差し込んでいた。


「陛下……お目覚めでしょうか?」

 

 玉蘭ぎょくらんの声がした。


<王妃の庭>には、玉蘭すら、立ち入りを許していないが、王の寝所に入ってくることを許されている女官は彼女だけだった。

 腕の中で、安らかな顔で眠っている周瑜の表情を、自身も若干うつらとしながら眺めていた孫策は、彼女を起こさないようにしながら、慎重に上半身を振り返らせる。


「うん……。周瑜は今しがた眠りについたばかりだ。

 今日は、もう少し眠らせてやってくれ」


 衣擦れの音がする。

「かしこまりました。では、何かあればお呼びください。用意いたします」

「ああ。ありがとう」



「……孫策さま?」



 遠ざかろうとした気配が足を止める。

 天蓋から降りた布に遮られて向こうからこちらは見えないのだが、網目が掠れ、こちらからは少し、侍女の姿が薄い影のように見えるようになっている。

「ん?」

 自分も、周瑜を抱えながらもうひと眠りくらいしようと思った孫策が呼び止められ振り返った。


「あの……本当に、周瑜様を救って下さってありがとうございました」


 玉蘭の声が微かに震えていた。 

 そうだった、周瑜の無事を祈っていたのは自分だけではなかったのだな、と孫策は思い出す。

 自分のことに一生懸命で、まだろくな説明もしてやれてないことを、悪かったなぁと思いながらも、まぁ、今はそれはいいだろう。

「わたしは正直、今回ばかりはもう駄目かと思ってしまって……、でも、やはり周瑜様は、孫策様がおられれば大丈夫なのですね。

 そうでさえあれば、なにがあっても。

 わたし……――もう二度とそれを疑いません。」

 玉蘭からは見えなかっただろうが、孫策は微笑んだ。

 嬉しい言葉だ。

 この女も孫策と同じように、周瑜に出会って、自分の運命が変わったのだろうと思う。


「俺はずっと周瑜の無事を祈ってただけだ。

 命は陸遜が張った。見かけたら、礼を言っといてくれ」


「はい。かしこまりました」

「そうだ。それからな」

 一礼して去ろうとした侍女を今度は孫策が呼び止める。

「それ。ずっと鳴いてるからエサやってくれ。にゃんにゃん五月蝿いんだ」

 周瑜が気にする、と孫策が笑う。

 また扉が開いたのをいいことにこちらに入って来たのか、ずっと猫のように鳴いている。

「かしこまりました」

 玉蘭も少し吹き出して、頷き出て行った。

 鳴き声が遠ざかる。

 静かになった。


 朝の光の中、長い、夜のような色の髪を褥に広げ眠る周瑜の美しい顔を眺めながら、孫策は優しい表情で見下ろした彼女の額に口付けてから大きく欠伸を零すと、柔らかな毛布に包まって、もう一度その身体を深く腕に抱きしめて、共に眠りについたのだった。

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