第53話 教主兄弟

長い晩餐が終わり、食堂に茶の甘い香りが広がっていく。


その食堂はそれほど広くはないが、隅々まで気の配られた上質な空間だ。

目を流すと主張し過ぎないよう、控えめに花が飾られている。

ぽつぽつと近況を語り合う声以外は何も響かない、静かな夜だった。


エルクは茶を流し込みながら、上座の兄を窺い見る。

食事の作法も茶を飲む仕草も、流れるように優美で、指の先まで隙がない。

目線一つにも静かな、滲み出るような圧がある。

いつ見てもこの人と三つしか違わず、しかも半分と言えど同じ血が流れているなど、信じられない思いがする。


ワーレンの嫡子として、次期教主として生を受けた兄。

物心ついた時から、この人に仕えて生きていくのだと教えられてきたし、それに疑問を抱いたことも無い。

母の腕越しにその姿を初めて見た時から、兄は常に強く完璧で、崇敬とともに仰ぎ見る存在だった。

エルクはそんな兄をずっと慕ってきたし、この先もそれが揺らぐことはないだろうと思う。

だが彼にとって兄はあまりに遠く、その思いが家族間の血の通った愛情とは言い難いことも確かだった。

ましてエレラフでの惨事を見聞きした今では、多少のしこりを覚えざるを得なかった。

久々に兄弟で晩餐でも、と兄から誘われたのは十日前のことだ。

それだけでも驚きなのに、こちらが招待されるのではなく兄自ら訪うとのことだった。

当然皆引っ繰り返った。

邸内は何日もかけて柱一本まで入念に磨き抜かれたし、使用人たちは、特に厨房は、何日も前から激戦地に赴くかのような顔をしていた。


そして今夜の席には、エルクの母メレナも陪席を許されていた。

食事の間中ずっと、微笑みつつも緊張の面持ちで兄を窺っていた母は、無事食事が終わって漸く少し気を緩めたようだった。


無理もない。エルクも緊張のし通しであった。

兄がわざわざここで食事をするなど、初めてかもしれない。

元々この屋敷はワーレンの、即ち兄のものとは言え、今は彼ら母子の暮らす家だ。

そこに、相手の領域に踏み込んで食事をする。

それはとりもなおさず、兄が自分たち母子に歩み寄り、親しみを見せているということであった。

それは自分にとっても母にとっても、母の親族にとっても喜ばしいことではあるが。


「……晩餐の味は如何でしたでしょうか、お口にあえばよろしいのですが」

「ええ、美味しかったですよ。

ディーンも一層腕を上げているようで何より。

私が喜んでいたと伝えて下さいね」

「……お伝え致します。彼もどんなにか喜びましょう」


エルクの答えに、兄は柔らかく微笑む。

その含みのない表情に、肩から僅かに力が抜けた。


頭にはエレラフで晒した醜態のことが、どこかにずっとこびりついていた。

日々多忙を極める兄が、そんなことのために自ら時間を割くとは思っていなかったが、それでもやはり安堵するものはある。

どうやら自分は思っていたより、兄を畏れていたようだ。

それが元からのものか、エレラフの件で生まれたものかは判断できなかったが。


(そう言えば、あれは、何だったのだろう……)


ふと、エレラフで課された使命のことを思い出す。

他の使徒家にも悟られないようにと、秘密裏に言い渡されたそれ。

それ自体は大過なく済んだが、だがあれは果たして、裏でどういった思惑が動いていたのだろう。


分からないことだらけだと、そう思う。

気づこうと、考えようと思えば機会も手掛かりも幾らでもあったはずなのに、平和な場所でただ暢気に生きてきた。

エレラフで受けた衝撃は、その報いだったのだろうと今は思う。

そんな思いを他所に、兄が茶を飲み終える。


「もう知っていることでしょうが、明日この邸内に住人が増えます」

「……はい。……やはり、聖者様の願いをお聞き入れになるのですね」

「ええ、聖者様がどうしてもと譲って下さらないので。

結局シノレがこの座所まで上がり、聖者様と暮らすということになりました。

君もシノレとは知らない仲ではないでしょう。

事後承諾のような形になってしまいましたが、まずはそれを話しておきたくて」

「……承知しております。

聖者様からもご連絡とご挨拶を頂ました」

「ええ。それで頼みたいのですが――……少し、気にかけてあげてくれませんか」

「それは、シノレを……でしょうか」

「それもありますが、聖者様のこともです」


思わぬ言葉に、エルクは鳶色の目を見開いた。


この屋敷を中心とする区画はエルクが兄に与えられたものであり、聖者が居を構えているのもその外れである。

同居人――というには些か距離が離れていたが、近場に住まう者として最低限の交流はあった。

だが、それ以上の関わりは意図的に避けていた。

他ならぬこの兄に、聖者にあまり関わらないようにと言い含められていたためだ。


それが、如何なる心変わりだろうか。

ついまじまじと、兄を見つめ返してしまう。


「……承知致しました。今後はお付き合いを増やすことにします」


だが、エルクがそれを聞き返すことはなかった。

兄の胸中は自分如きが詮索していいものではないと思ったし、何よりこの穏やかな空間を壊したくなかった。

今夜の成り行きは自分だけでなく、母とその実家の進退にも関わってくることなのだから。


「ありがとう、これで安心です。

……ところで、エルク」


兄の声音が微妙に変化する。

きっとここからが本題なのだろう、話が移り変わる気配がした。


「君も、もうすぐ十五ですね。

後半年もすれば成人として扱われます」

「……心得ております」

「……結婚についても、そろそろ考えなければなりませんねえ」


その話かと、思わぬ成り行きに少し驚いた。


縁談から結婚までの流れは、使徒家もその他も似たようなものだ。

男女ともに幼い頃から、釣り合いの取れる候補を数人見繕っておき、成年である十五に達すれば正式に話をまとめて婚約する。

それから数年の交際期間を経て、各々事情によってばらつきはあるが、二十になる前には結婚することが多い。

何しろ子供の死亡率も馬鹿にできないので、幼い内から一人に絞るということは殆ど無い。


尤もこれは正妻を娶る場合の標準であって、妾ならば割りと何でもありだが。

出会いがどこでも多少身分が低くても、独り身の教徒でさえあれば問題ないことが殆どで、母もその一例だ。

多くの教徒はそのようにして配偶者や妾を選ぶ。


とは言え、例外はある。

この兄もそうだ。

兄は今年で十七になっていながら、未だ婚約者がいなかった。

教主の正妻の座を狙う各家が互いに牽制し合っているせいだ。

候補を擁立するそれぞれの思惑が飛び交い、話だけなら山のようにあるのだが本決まりには至っていない。

そして兄もそんな彼らを、暫く静観して泳がせるつもりであるらしかった。

その一環としてエルクが利用されるのは当然の成り行きであるし、それ自体に反発はない。

寧ろ、わざわざこんな風に水を向けてくるとは思わず、その方が意外だった。

兄は微笑んだままで、更に驚くべきことを問いかけてくる。


「そろそろ候補の選定に取り掛かりたいのですが……

伴侶にと考えている相手でもいるのならば、確約はできませんが心に留めて置きたいと思いまして」


驚いた。

自分の結婚など、完全に政略的な利害のみで決定されるものだと思っていたから。

僅かでも彼本人の意思が反映される余地があるなど考えてもいなかったし、それをわざわざ兄が問うてくれたのは、意外であるがとても嬉しい。

しかしそう言われても、思い当たる相手などいなかった。

どう話が転がっても良いようにと、誰が好きだとか親しくしたいとか、そういうことは敢えて考えないようにしていた。

混乱しながらも、どうにか答えを絞り出す。


「……おりません。そのような者は、誰一人。

誰でも構いません。全て、猊下の仰せのままに」

「誰でもということはないでしょう……。

ですが、分かりました。色々考えてみましょう。

明々後日にはリゼルドの叙階もあることですし……

ああ、リゼルドのことは知っていますか?」

「お顔程度なら……他は、伝聞で少々。

ですが、……あの、大丈夫なのでしょうか。無論叙階は必要な儀礼でしょうが、あの方は前に、セヴレイル家のレイグ様と……」

「……ええまあ、多少の軋轢は避けては通れないでしょうね。どうなることか」


言いながら、兄は少しおかしそうに笑う。

「騒がしくなりますね。

儀式のために一族の者も上がってきますし、続けて客人を迎えるとなれば、この辺りも賑わうことでしょう。

……メレナ。暫し面倒をかけるでしょうが、弟とこの屋敷のことを頼みます」

「面倒などと、滅相もございませんわ。またいつでもおいで下さいませ」


母が穏やかにそう返す声を聞きながら、エルクは兄を見つめる。

同じく穏やかに母に頷き返した兄が不意にこちらを向き、ぶつかるように目が合った。

兄は紫の目を緩やかに瞬き、柔らかい声で更に語りかける。


「エルク。君ももうじき一人前の教徒です。

これから何かと力を貸して貰うことも増えると思いますが、その時はお願いしますね」

「……そのような……そのように仰る必要はございません。

無論何なりとお申し付け下さい」


かつての自分なら、何の衒いもなく言えただろう。

けれど一瞬、舌が強張るのを感じた。


エルクはこの教団の中枢で守られ、どこまでも平和に豊かに育てられてきた。

彼は自らを育んだシルバエルの町並みを、教団の秩序を愛している。

この平穏が続いて欲しいと願う。

けれどその安寧の下には、犠牲として踏み潰され呻吟している者たちがいる。

その現実を、未だに消化しきれない。


ずっと兄を尊敬してきた。慕ってきた。

それは今も、きっとこれからも変わらない。

けれど時々、あの惨状が瞼にちらつくのだ。

それでも十四歳の彼には、兄に従う以外の道など考えられなかった。


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救世者の天秤 勇者を縛る教団の鎖 @misaki-h

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