第52話 聖者の巡礼と贖罪

「こんにちは。入るよ、聖者様」

「……ご機嫌よう、シノレ。お疲れでしょう、お掛けになって」


聖者の住居を訪ねたシノレは遠慮なく、挨拶もそこそこに椅子に腰掛ける。

聖者はじっと、窺うようにこちらを見つめてきた。


あれから日に一度はシノレに会わせて欲しいと聖者は懇願したらしく、午後にこうして時間を取ることになった。

身の安全と異変の有無を自分で確認したいのだろう。

というか同じ場所に住まわせたいとすら言い張っているらしい。

どうしてそこまでしようとするのかは知らないが。


ワーレンの邸宅としてその名に恥じぬ豪奢さではあるものの、どこか寂しげな印象が拭えない。

そう思うのは、この離れに住まう主人のせいなのだろうか。


聖者は、何も変わりない様子だった。

未だに教団への嫌悪感は消えていない、どころか強まったほどだが、しかし聖者がいる。

あれから色々悩みもしたが、こうなっては腹をくくった。自分自身すら守れるか怪しい身ではあるが、シノレを呼び、庇い、最後まで案じたこの女の願いと行く末を、見定めたいと思う。

どうせ当分逃げられないだろうし、不本意な現状維持に腐るよりも、目的を見つけて邁進する方が精神的に良い。

それだけのものは示してもらったと思う。

腑に落ちないことが多過ぎるのはもうある程度見逃すとして、それでも細かい疑問は色々とあった。


「ね、聖者様。聞いて良い?」

「お答えできることであれば」

「逃亡奴隷に捕まった時、どうして外に出ていたの?」

「……あの時は……少し頭が痛んだもので、外の空気を吸いたくて」

「ふうん、そうか……」


棒読みで答えたシノレは、思案するように黙り込む。

そんなシノレに、聖者はそろりと視線を送る。

その様子は妙に緊張しており、何というか、おずおずという言葉が似合う。


「軽率な行動で迷惑をかけました。お詫びします。

……貴方の人生を狂わせたこと、それにお怒りであることも、よく分かっております。

その上私は貴方の疑問に、充分に応える資格を未だ持ちません」


常日頃の傲慢なまでの神々しさにそぐわず、まるでただの少女のような顔だ。

固く握り合わせた指の関節が白く浮いているのが、妙に鮮やかに見えた。


「……それでも、貴方しかおりません。

私の、勇者となるを、受け入れて下さいませんか」

「いや、ここまで来て何で遠慮がちなの。

……まあ、もうこうなったら仕方がないし。様子見はさせてもらうけどね」


要は、折り合いをつけて受容したというわけだ。

いよいよ危うくなればまたその時考えれば良い。

だから仕切り直し、改めて関係を築きたいと思ったのだが、相手は謎に頑なであった。


「代わりにと言っては何だけど。そろそろ名前教えてよ。

いつまでも聖者様っていうのもあれだし」


困ったような目をした聖者に、断る暇を与えず畳み掛けてみる。


「もう一蓮托生みたいなものでしょ?

これ以上僕を庇えば、幾らあんたでも危ないと思うし」

「……まだ、それはお教えできません。

……今の貴方には、私を知る必要がおありではありませんから」

「それはあんたの判断であって、僕は必要を感じるから聞いているんだけど」


不審げに睨みつけると目を逸らされ、

「そう焦らないで下さい」と呟かれた。


ここ数日で気づいたが、この女はしばしば顔を傾ける癖があるようだ。

伏し目がちなので分かりにくいが、目線がどこか不安定というか……斜視なところがある。

それが現実離れした雰囲気を底上げしているのだと、最近気がついた。


「焦るっていうか、そもそも名前を教え合うのは付き合いの基本じゃないの?

その態度、不誠実と思われても仕方ないと思うよ?」


その糾弾に一言もなく、聖者は居心地が悪そうに俯いた。


教徒の論理は相容れないものの、所々、部分的には分からなくもない。

今のシノレにとっては、この聖者のことこそが何よりも一番分からない。


その麗質と存在感故に先代教主に選ばれ、使徒家にも容認され、使徒家の装束すら許されて、たった八年で教団の中央に自らの場所を築いた。

そんな聖者が、どこにでもいるような奴隷の子供だった自分を求めたのは何故なのか。

今のシノレには知る術がないし、無理に聞き出すつもりもない。


とは言えせめて呼び名くらいはと思うのに、当人の反応はこれだ。

こちらは全てを知られているというのに、聖者は名前さえ明かしたくないとは。

勝手に執心して巻き込んでおいて、一方的にもほどがある。

だが、シノレはそれに今までほどの不快感は覚えなかった。

それはきっとあの短い逃避行でシノレを庇い助けた事実があるからで。

シノレに垣間見せた、血を吐くような切実さのせいで。

そして、その声音に拒絶の色がなく、寧ろどこか真摯な、労りの気配さえあったからだろう。


その時、「シノレ」と名を呼ばれる。

あの時、あれほど激しくシノレを打ち据えた瞳と声は今は静かに、柔らかい光の中を漂っていた。

ゆるく睫毛を伏せながら心持ち傾けた顔は、出会った時と何も変わらず美しい。


神の徴。生ける神秘にして奇跡。地に降された恩寵の化身。

仰々しく呼び習わされる聖者の、その名すら誰も知りはしない。

何のために何処から来て何処へ行く何者であるのか、何一つ明かされぬまま、ただ聖なる者と尊ばれるその人。


けれど、あの時シノレは、誰も知り得ない彼女の一端に触れたのだ。

そしていずれ全てを知るだろう。

そんな不可解な確信を、心の何処かで感じている。


本当に危うくなるまでは付き合ってやろうと、そう思ったのは、それ故かも知れなかった。


「私は、世界を見たい。

刻限が訪れるまでに、少しでも広く、多くを知っておきたい」


聖者は横顔を向け、何処か遠くを見る目をしていた。

光が満ち溢れるような瀟洒な作りの窓を見つめ、譫言のような言葉を紡ぐ。


「いつか――きっと、そう遠からぬ内に、私の巡礼は始まります。

私の終わりが見えたなら、その時は全てを明かしましょう。

だからどうか、ともに来て見届けて下さい」


神秘、奇跡、恩寵、――天上の芸術。

聖者を飾り立てる数多の美辞麗句が浮かぶ。

白い光を帯びて、綺羅びやかに取り巻くそんなものが、今はまだその実像を覆っている。

シノレはまだ、それに触れられない。

光の中心にいる聖者は、確かにこの上もなく清冽で、魂を抜かれそうなほど高貴であり厳かだった。


「私の巡礼を。私の贖罪を。それができるのは、貴方しかいないのですから」

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