第51話 振り出しに戻る

水を向けられたそれは、リゼルドにとって気の進まない事柄ではあった。

だが使徒家の当主としては避けて通れない。

リゼルドは誰もが認めるヴェンリル家当主だが、実のところ正式な儀式は終えておらず、名実揃ってはいなかった。


つまらない通過儀礼である。

無味乾燥なただの義務であるが、だからといってやりたくないかと言えば違う。

苦渋だけでは満たされない、甘露だけでは詰まらない。

全て呷ってこそ、人生に張りが出るというものだ。


「……まあ、僕の場合。生まれた時点で孝行は終わってるようなものだけどね」


そこだけは一応訂正を入れておく。

ついでに良い機会なので、ここぞとばかりに要望を出してみることにした。


「ふふ、シノレだっけ?

あの勇者の待遇だけど。

潰れない、死なない程度に考えてやってくれないかな。

どうせ生まれつきの教徒じゃないし、そういうのはもう山程居るんだしさ。

あれはあれで、別の使い道があるんじゃないかなあ?」

「……ええ、まあ。

聖者様にもベルダットにも言われましたからね。

君にまで言われるとは思いませんでしたが。

ですがルダクなど、危惧を感じている者もいるのですよ」

「はっ、セヴレイルがそう言ってるの?

なら尚更肩入れするよ、あの勇者がのさばれるようにね」

「意地を張るのも程々になさい。

役割は違えど同じ使徒家でしょう」


諭すようなその声に、リゼルドはただ笑っただけだった。

教主の言葉に答えもせずに、再び念押しするようにして要請を突きつける。

それは教主云々に限らず、相手が誰だろうと不遜で非常識と謗られる振る舞いだ。

だがリゼルドは、結果を出し続ける限りそれが許されると知っていた。

彼はヴェンリルであるからだ。


「本当、考えてやってよね。

どうしても後見が決まらないなら、ヴェンリルの養子にして僕がやっても良いから」

「ええ。いざとなればそうするかもしれませんね。

君の考えは覚えておきましょう…………

それにしても、随分と気に入ったようですね。珍しい」

「はは、そう見える?

うん、聖者様共々お近づきになりたくなっちゃった」


別に好意を抱いたわけではない。敢えて言うなら好奇心だ。

あの土壇場で聖者を背に庇って見せた勇者の姿は、退屈に倦んでいた彼にはそれなりに興味深いものだった。

敵わないと承知で向かってくる者は嫌いではない。

何よりあの取り合わせを面白く思う。

この閉鎖的な聖都に突如現れた二人の異分子が、どんな波紋を広げるのか。


だからこそリゼルドは、勇者の立ち位置を気にかける。

ちょっとやそっとでは崩れない足場を築いてほしいのだ。


「聖者様は良いよねえ。

黙って突っ立ってても周りが勝手に感激してくれる。

でもあのシノレはそうもいかないだろ?

結局勇者って、教団でどういう位置づけになるの?

レイノス様は、どう考えてる?」


そのための言葉を並べ立てて、一気に畳み掛ける。

身を乗り出した拍子に流れ落ちた黒髪が、濡れたような輝きを帯びた。


「儀式ついでに、あいつを他の連中にも紹介したいなあ。

……聖者様に貸しを作るって意味でも、丁度良いんじゃない?」



「――っ!!?」

異様な寒気を感じて、シノレは一瞬立ち竦んだ。

何だろうか、今のは。

まるでとんでもない危険と厄介事が列を成して押し寄せてきそうな、いやそれは元からか。


だが今のは、何だろう。

どれだけ逃げても猛然と寄ってくるような、悍ましい何かが背筋を駆け抜けた気がする。

あの後倒れてからシノレは聖都に連れ戻され、束の間の自由は泡と弾けた。

一日と少しの無謀な逃避も、全ては夢か何かだったかのように。

半年暮らした自室で目覚めた時には、全てが元に戻っていた。

意識が戻って真っ先に訪ねてきた教育係は、あからさまなほど常軌を逸した表情で、正気が危ぶまれるような血走った目をしていた。


「ああお前というやつは、お前はお前はお前はお前はお前は」


顔を赤くして青くして、顔中ぎりぎりと動かし一頻り百面相をした教育係は、やがて壮絶な目つきでシノレを睨みつけた。


「……当然だが、叙階は取りやめだ。

どうやら私は甘すぎたようだ。

これを機に一から、改めて教徒の在り方というものを叩き込んでくれる!」


それだけ憤然と言い捨てて去っていき、やがてやって来た教徒たちに、淡々と看病された。

全員、何事もなかったかのような振る舞いを崩さなかった。

結局シノレは突然熱を出して寝込んでいた、そういうことになったらしかった。


元々頑丈なので一日もかからず床離れし、何事もなく、半年続けてきた日常は再開された。

違いと言えば、教育係の教練がそれこそ業火のような苛烈さになったことだろうか。

朝から殆ど親の仇を見るような形相で扱かれた。

見殺して逃げようとしたことに多少負い目は感じているので、全て甘んじて受けたが。


「まあ、次は無いんだろうね」


次にまたやらかせば、その時こそ粛清だろう。

教えの説得力を底上げする、最上級の看板である聖者はともかく、自分に大した価値を見出されていないことは分かっている。


だが少なくとも、食事の際に薬の気配は感じなくなった。

元々、最近はかなり微量であったし、今のところ反動で妙な症状が出ることもない。

心身ともに大きな波がなく、安定した状態が続いている。

今はそれだけで上々だ。

裏でどんな根回しや駆け引きがあったかは知らないが、取り敢えずは奴隷から家畜扱い程度には格上げしても良いと見做されたようだ。

例えそれが聖者を繋ぎ止める、そのためだけのものだとしても。


振り出しに戻った形だった。

逃げ出した時は、これでも決死の決意だったのだが。

結局流されて、元の場所まで押し戻されてしまった。

けれど我ながら意外なことに、それをそこまで悲観していない自分がいる。

無論機会があれば逃げるだろうが、今はそれよりも確かめたいことがある。

色々と反芻している内に、目的地に辿り着いた。

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