第12話 初めて出会ったあの日から


「うわぁ!」


 声を上げて世良博斗せらひろとは飛び起きた。目の前ではノートパソコンがスリープモードになっている。いつのまにか寝てしまったらしい。全身にはびっしょりと汗をかき、体はすっかりと冷え込んでいた。鼓動は速く、呼吸は乱れ、喉がひどく渇いていた。世良は立ち上がって台所に向かい、蛇口をひねってコップ一杯の水を飲んだ。

 随分と嫌な夢を見た。時計の針は二時半を指していた。1時間くらい寝ていたらしい。もっと長い時間に感じられた。今日はもうやめにして続きはまた明日の朝にやろう。そう思ってパソコンを片付けて寝室に向かう。ゆっくりと戸を引いて中を覗くと、ベッドの上で世良妙子せらたえこが大の字で寝ている。掛布は投げ飛ばしてしまったようで、足元の方で申し訳なさそうにしている。妙子を起こさないようにそっと掛布をかけ直し、妙子が悠々と伸ばしている右手を寄せてできたベッドの隙間に入った。これだけのことをしても彼女はまだ起きず、そのことに世良は安堵した。彼女はよく眠れるようになった。自分の横ですやすやと寝ている妻の顔をみて、世良は七年前に妻と初めて出会った日のことを思い出した。


 *******


 北野大学理工学部は都市部から少し離れた自然豊かな場所にある。その敷地の横には小高い丘があり、自然科学博物館が設立されて百年を迎える。進藤寛斗しんどうひろとは知り合いとふらりその博物館を訪れた。無料で人がほとんどいないいいところがある、と患者から聞いたのだ。博物館は三階建てで、エリアごとに棟が分れている。正面入口のある棟は大きな円柱状に作られていた。玄関の横で受付を済まして建物の中にはいると、理科室の匂いがした。石を基調として作られた広い円形のエントランスホールがあり、その縁を囲むように大きな螺旋階段が設置されていた。天井の一部分はガラス張りになっており、螺旋の中心を照らすように柔らかい日差しが入る。ところどころに古さを感じるものの、掃除は行き届いていて、 荘厳な雰囲気を漂わせていた。ホールの中央には建物全体のジオラマと液晶モニタが設置され、モニタからは博物館の歴史を解説する男性の声が流れている。男性は個々の博物館は資料の保管を目的に作られたのだと語る。時代を感じさせる固い口調は、荘厳なエントランスホールとは何とも不釣り合いだった。

 話には聞いていたものの、人はほとんどいない。それどころか、今のところ入場者は自分たちを除いていないようだった。エントランスホールには左右に展示室への出入り口がある。さらに奥には植物園に繋がる連絡路があった。順路はない。進藤寛斗たちは左の部屋から見て回った。1階から三階まで数々の鉱物や標本、天体模型などが展示されている。事務的で味気のない並べ方で理科の便覧を眺めているような気持ちになったが、展示のボリュームは無料としておくにはもったいないくらいだった。途中で一人二人,おそらく理工学部の関係者だろうという人がいた。最後に植物園へ向かう。連絡路はガラス張りのトンネルでできており、蒸し暑かった。通路の脇には無造作に鉢植えの植物が置かれている。植物園の建物は大きく重厚な扉がついていた。操作パネルで開閉するものらしい。この扉は温度管理をするために必要なのだろうと進藤寛斗は思った。扉の横には植物園のマップが建てられており、植物園はいくつかのエリアに分かれていた。説明書きによると植物が生育しやすい気候条件を分けているとのことだ。

 植物園はこれまでの無機質な展示とは違い、少し凝った展示の仕方をしている。どうやら植物の生態をなるべくそのまま再現しようとしているらしい。パネルを操作して扉を開けた。最初のエリアはシダや苔などの植物のエリアで、原生林を思わせた。入口からまっすぐに道が続き、中央の滝に繋がっていた。滝の流れる音がなんとも心地よかったし、周囲はひんやりとした涼しい空気に包まれていた。その滝の端に当たる部分で園芸用のエプロンをつけた女性が一人しゃがんで作業をしていた。進藤寛斗はその後ろ姿がなんとなく気になった。作業を終えた女性は立ち上がると振り向き、進藤寛斗と目が合った。


 ほんの一瞬だけ見せたその自然な笑顔は世良の脳に強烈な衝撃を与えた。彼女はとても幸せそうに微笑んでいたのだ。誰もいないと思っていた彼女は進藤たちに気がついて一瞬びくっと驚いた。すぐに観覧者だと気がつき、無表情になって小さくおじぎをしてそそくさとその場を立ち去った。進藤寛斗は雷に打たれたかのように全身がしびれて身動きがとれずに立ち竦んでいた。その瞬間の彼女の表情は今も忘れることはない。

 これが進藤寛斗と世良妙子が初めて出会った瞬間である。



 植物園の帰り際、エントランスホールに向かうガラス張りの連絡路で、進藤寛斗は再び世良妙子と出会う。進藤寛斗は思わず声をかけた。


「あの、さっきは驚かせてしまったみたいですみません」


 急に声をかけられた世良妙子は訝しそうに見やりながらも、


「こちらこそ、失礼しました.植物園は楽しめましたか?」


 と返事をした。


「はい、とてもたくさんの植物があって驚きました。知らない植物がたくさんあって、今日だけじゃ回り切れなくて、もっと知りたいなって思いました」


 進藤寛斗がそう答えると、世良妙子は表情を崩さずに答えた。


「もしよかったらご案内もできます。もしまた来館さられるようでしたら、受付におっしゃってください」

「そうなんですね、絶対また来ます」


 世良妙子は一度も笑うことなく、お辞儀をしてその場を去った。そしてその翌週に進藤寛斗は再び植物園を訪れて、世良妙子に案内をしてもらった。このとき、世良妙子は一度も笑うことはなかったものの、進藤寛斗は自分の恋心に確信を持った。世良妙子はとにかく人間が苦手で、会話は煩わしく、大抵は不愛想でそっ気のない態度をしていて、いつも一人だった。実際に会って話す世良妙子はいつも無表情で冷たく、まるで人間に捨てられた子猫のような警戒心を感じられた。それでもあの日見た彼女の表情が進藤寛斗に与えた衝撃は、彼の心を繋ぎとめるのに十分過ぎるものだった。進藤寛斗は三週連続で植物園に通い、世良妙子を食事に誘った。食事は断られたが連絡先は交換してくれた。二人は連日のようにLINEをした。これは、世良妙子もまた、LINEを律儀に返し、会話がなかなか終わらなかったことにもよる。そうして会話を交わすたびに、進藤寛斗は世良妙子への想いが強くなり、ある日その想いが溢れるように告白をした。


『ごめんなさい、あなたが悪いわけではないの。私は人が苦手だから』


 こうして一回目の告白は失敗に終わった。しかし、このどこか煮え切らない返事は進藤寛斗を諦めさせることはできなかった。


『じゃあ、お友達としてこれからも仲良くしてください』


 世良妙子はこの申し出は快く快諾し、二人の関係は続いた。それから数か月後に進藤は二回目の告白を試みるも、またも同じようにフラれた。


 図書館に付き合ってほしい、とLINEを送ってきたのは世良妙子のほうだった。二人が初めて出会ったあの日から、およそ十ヶ月後のことであった。はじめてデートに誘われた進藤寛斗の内心は舞い踊るほどに歓喜していたが、LINEを見たのが昼休みのスタッフルームだったので平静を装った。

 その週の土曜日の午後、二人は市内の図書館で初めてのデートをした。進藤妙子は赤みがかったブラウスにモスグリーンのスカートを穿き、ブラウンの小さなバッグを持っていた。綺麗な輪郭はまるで凛としたお花みたいだな、と進藤寛斗は思った。そうした進藤博斗の印象とは裏腹に世良妙子はむすっとした表情のまま、終始ほぼ無言で図書館の本を読んだ。まるでロボットと一緒にいるみたいだった。進藤博斗は何か怒らせるようなことをしたのだろうかと心配になったが,それを確認する術はなかった。それにもしかすると、想いを伝えてからはじめて二人で会ってくれたのは、今日で別れを告げる気だからなのかもしれない。今日で二人の関係が終わるのかもしれない。期待と不安が入り混じったドキドキのせいで、読書には全然集中できなかった。手はじっとりと汗ばんでいた。

 そんな進藤博斗の様子を気に留める様子もなく、世良妙子は黙々と読書をした。彼女は小説を三冊本を読み終えると、


「そろそろ疲れたので帰りましょう」


 と言った。


 それぞれ本を返して、図書館のわき道を歩いて帰りながら、進藤博斗はやはりダメなのだろうと落胆した。最後にせめて素直な気持ちを伝えておこう。そう思って今日感じた印象を伝えた。


「なんだか、お花みたいにきれいですね」


 返事はなかった。しばらく無言が続く。


「今日は豚汁です」

「えっ?」

「今日は豚汁です」

「えっと、一緒に食べるってこと?」

「そうですよ。お腹は空いていませんでしたか?」

「いや,嬉しいよ。えっ?一緒に食べてもいいの?」

「何が嬉しいんですか?そんなことより、スーパーで買い物します。」

「えっ!?世良さんが作ってくれるんですか?」

「そうですよ。それとも進藤さんが作ってくれるのですか?」

「すごく嬉しい!!一緒に作ろう!」


 この後、二人は買い出しをして世良妙子のアパートで豚汁を作った。勝手のわからない台所で進藤博斗はあまり役に立たず、世良妙子に悪態をつかれた。その度に進藤博斗は嫌われたかもしれないと不安になった。この日以降,世良妙子はあまり進藤博斗に料理をさせなくなった。豚汁少し薄味だった。食事を終えると、世良妙子から進藤博斗に交際を申し出た。もちろん進藤博斗は二つ返事で快諾した。世良妙子は交際を始めてもしばらくは不愛想でそっけない態度で、めったに笑うことがなかった。そのうち、お互いの家に泊まるようになった。はじめのうちは世良妙子はちょっとした物音で目を覚ましてしまい、進藤博斗は寝るときにひどく神経を使った。不愛想でそっけない彼女、ほとんど笑うことのない彼女、寝るときに気を休めることができない彼女。それでも進藤博斗は恋人と一緒に入れるその時間が愛しくて仕方がなかったし、彼女にもっと笑っていてほしい、たくさん笑える日常を一緒に過ごせるようになりたいと思った。そうして辛抱強く交際を続けるうちに、進藤妙子は進藤博斗が隣にいるとぐっすりと眠れるようになった。少しずつ仲良くなり、二人でいるときには気の置けない仲になった。以前よりも会話が弾み、人間らしく感情を表現し、ちょっとしたことで機嫌を悪くした。今となっては腹を抱えて笑ってくれるときもあるし、気兼ねなく何でも話せる。親にも話せないことを話せる。


 交際をはじめて二年後に二人は夫婦になった。妙子の強い希望で、姓は世良にすることにした。進藤家では一悶着したのだが、博斗はそれでも妙子と一緒にいることを選んだ。君を幸せにする、と約束をした。


 *******


 妙子が寝返りをして、世良の体をその手足でぎゅっと抱きしめた。彼女は眠っている。世良がその腕を握り返すと、妙子は幸せそうな笑顔を浮かべた。寝室にはスー、スー、という妙子の寝息がだけが響いていた。


『私って何か我儘なこと言ってる?普通のことなんじゃないの?』


 今日、妙子にそんなことを言わせてしまったことを後悔した。サービス残業を減らしてほしい、休日は仕事をせずに一緒にいてほしい。ただそれだけのことがどうして実現できないのか。なぜ一番大切に想っている人ではなくて、家族でもない他人のために時間を使うのか。明確な回答を出せないまま、ただ謝るしかなかった。


(お前は妻のことを本当に幸せにできているのか)


 目を瞑るとそんな言葉が頭に響いた。


―――――――――――――――――――――――

第一章 終

第二章『嫌いな季節』へ続く(更新までしばらくお待ちください)

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セラピストの憂鬱な日々 灰色文学 @hai_iro08

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