第11話 焦り

 会議を終え、スマートフォンを確認した世良は一瞬目を疑った.通知が38通も来ている。それは全て妻からのLINEだった。


 18時28分『まだ終わらない?』

 18時40分『今日、早く帰ってきてほしいな』

 19時5分『まだ?ご飯一緒に食べたい』

 19時11分『晩御飯、先に食べてるよ』、揚げたてのコロッケの写真

 19時25分『遅いよ』、悲しんでいる顔のスタンプ

 19時26分『おーい』

 19時28分『無視してるの?』


 そのあとは怒った顔のスタンプが数分おきに連打されている。 世良はそのおびただしい怒りのスタンプよりも、それが19時58分でぴったりと止まっていることに恐ろしさを感じた。今の時刻は8時18分だ。今までも帰りが遅くなって怒らせたことは何度もあったが、こんなLINEを送ってきたのは初めてだ。


 まだ数件のカルテを書いていない。メールの返信やら書類の作成やらやるべき仕事が残っている。それでも今日は早く帰らなければ。焦る気持ちを抑え、カルテだけ済ませて妻にLINEを送る。


『ごめん、会議が長引いて遅くなりました。今から帰ります』


 時刻は8時38分。すぐに既読がついた。


 *******


 病院から世良たちが住むアパートまでおよそ徒歩10分程度の道のりである。病院の門を出て交差点を曲がると、道路挟んだ向こう側にスーパーやコンビニ、ドラッグストアが並ぶ通りに出る。その通りをずっとまっすぐ進み、住宅街を抜けると少し拓けて田園風景が広がる。すっかり暗くなると点在する街灯と住宅の窓明かり程度しか見えない。少し遠くに世良の住むアパートの窓明かりが見えた。

 アパートの階段を上がって玄関を開ける。


「ただいま。遅くなりました」

「おかえり」


 奥のリビングから妙子の声が聞こえた。声の調子を聞く限り怒ってはいない。リビングに入ると、妙子はいつもの様子でテレビを見ていた。食卓の上には食事を終えた皿が置かれている。


「キッチンにコロッケあるよ」

「ありがとう」


 キッチンに行くと、シンクの中は食器で溢れ、コンロには大きな鍋とフライパンが置いてあった。その間のスペースには調理に使ったまな板やボウルなどが散乱し、そのなかにコロッケが6つ入った大皿があった。世良は食器棚から平皿を取り出し、コロッケを3つと千切りキャベツを盛りつけた。炊飯器から冷たいご飯をよそい、妙子の横の食卓に運ぶ。コロッケに箸をいれて半分に割り、口に運んだ.すっかりと冷めたコロッケは衣はしんなりとしていた。


「出来たてはカリカリほくほくでおいしかったのに」

「遅くなってごめんね。でも、冷めてもおいしいよ」

「オーブントースターで温めなおしたら?」

「ああ、そうだね。そうしてみる」


 世良は平皿を持ってキッチンに戻り、残りのコロッケをオーブントースターに入れ、タイマーをセットした。


「私、先にお風呂入っちゃおうかな。入浴剤、ある?」

「入浴剤?」

「え?ないの?」


 妙子は明らかに不機嫌になった。


「朝にLINEしたじゃん、帰りに買ってきてって」


 世良はようやっとお使いを頼まれていたことを思い出した。


「あ、ごめん,忘れてた」

「は?」


 妙子の顔がみるみる怒りに染まっていく。


「ごめん、すっかり忘れちゃってた。たえちゃんのこと待たせてると思って慌てて帰ってきたから」

「言い訳しないでよ、いい歳してろくにお使いもできないなんて情けない。私、楽しみにしてたんだから!どうせ私のことなんてどうでもいいと思ってるんでしょ!!」

「いや、そんなつもりはないよ。本当にごめん。ごめんよ」

「私はあなたにコロッケを作って待ってたのに、あなたは私のお願いを聞いてくれないのね」

「ごめん」

「最っっっっ低っっっ!!」

「ごめんよ、今から買ってくるよ。まだお店もやってるし」

「もういいわよ!!」


 チンッ、とオーブントースターが鳴った。


「……ほら、食べたら」


 妙子は不機嫌な声で言った。


「ごめんね。ご飯もありがとう」

「早く食べないとまた冷めちゃうでしょ」


 世良はオーブントースターからコロッケを平皿に盛りなおし、食卓にもどる。


「今日はもうシャワーにする」


 そういうと妙子はテレビを消して浴室に向かった。


 シャワーの音だけが響き渡る部屋の中で世良はコロッケを食べた。温めなおされたコロッケは揚げたて食感を取り戻したようだったが、少ししっとりさが残った。妙子が食べていた時はきっともっとおいしかったのだろうな。そんなふうに世良は思った。


 食事を終えた世良は食器を下げようとしたが、シンクに置き場所がなかった。先にシンクをを片付けなくては。世良は流しの前に立ち、洗い物を始めた。シンクを終えたらまな板やボウル、最後にはコンロの鍋も片付けなくては。揚げ物をしたので油の処理も必要だ。そんなことを考えながら皿を洗っていると、脱衣所から頭と体をバスタオルで包んだ妙子がでてきた。シャワーを終えた妙子は少し表情が和らいだように見え、世良は少しほっとした。


「シャワーを浴びたら少しすっきりしたわ」

「今日は本当にごめんね」

「明日は忘れないで買ってきてよね」

「絶対に忘れないよ」

「ねぇ、今日はこの後、なにか仕事するの?」

「えっと……そうなんだよね。まだ自分のスライドを作れてないんだ」

「それって、今日やらないとダメ?」

「〆切が近くて。それに、仕事が溜まっちゃって。今日はメールの返信もまだできてないんだ」


 妙子は大きく嘆息した。


「家でも仕事をして、休日も仕事をして、毎日毎日サービス残業ってわけね。これってなんとかならないの?なにも早く帰ってきてっ言ってるわけじゃないじゃない。定時を過ぎたら早く帰ってきてほしいし、残業するなら残業代出してもらってよ。私って何か我儘なこと言ってる?普通のことなんじゃないの?」


 世良は何も言えなかった。


「その頑張りはいつか実るんでしょうね」


 妙子は再び嘆息してリビングに向かい、テレビをつけた。


 世良がノートパソコンに向かったときには時計の針は12時を回っていた。妙子はすでに隣室で寝ている。メールを開いたら後輩の成海脩太なるみしゅうたから文書の添削依頼が届いていた。メールや資料作り、後輩の指導……それにAIについて新たに勉強しなくてはいけない。来月からは新人や実習生もやってくる。やらなくてはいけない仕事が次から次へと降ってくる。世良はずいぶんと疲れていたが、こうした仕事を処理しなくては、自分のための時間を確保できない。自分の時間がどんどんと減っていく。近頃、世良は妙な焦りを覚えるようになった。いや、焦りが強くなったというほうが正しい。世の中がどんどんと進歩していく中で、自分は停滞して取り残されている。もっと頑張らなくてはいけない。もっと研鑽をしなくてはいけない。もちろん,もっと妻のことを大切にしなくてはいけない。そんな焦りとは裏腹に、自分の時間と体力はどんどんと少なくなり、以前はできていたようなことができなくなった。最後に自己研鑽と言えるようなことをしたのはいつだったか。



 トイレから戻った時、世良はリビングが随分と冷え込んでいることに気がついた。春が近くなり雪は溶けてきてはいるものの、夜になると外の気温はぐっと下がる。しかし、それにしても寒くはないだろうか。パジャマの上からもう一枚何か羽織ろうかとクローゼットに向かうと、リビングにある大きな掃き出し窓の端から冷気が入ってきていることに気がついた。掃き出し窓はしっかりとカーテンが閉められているが、そのカーテンと窓の間から確かに隙間風が吹いている。窓が少し開いていたようだ。部屋が冷えているのは窓が開いていたからか。窓を閉めようと、世良はカーテンの外側の端に手をかけ、少しだけめくった。すると、その小さく細い隙間から、あふれんばかりに眩い光が差し込んできた。その強い輝きに世良は思わず目を眩ましてたじろいだ。窓からは一気に風が吹き込み、カーテンは大きく舞い上がった。一気に黄金のような輝きが入り込みんで部屋中が照らされ、窓から吹き込む風はソファの洗濯物や床の上のゴミ箱を吹き飛ばした。世良は風に煽られながらも何とか手で光を遮り、目を細めて窓の方を見る。信じられないことに、目の前には青々とした草原が広がり、雲一つない真っ青な空に黄金に輝く大きな太陽が浮かんでいた。


 窓の外に広がる黄金の太陽が輝く大草原。深夜にパソコン作業をしていただけの世良は、何が起こったのか理解が追い付かないでいた。ただ、この太陽からの降り注がれる日差しはなんとも気持ちがいい。さっきまで強く冷たかったはずの風も温かく、世良を撫でるような優しい風になっていた。

 光に目が慣れてきて、草原に誰かがいるのに気がついた。一人ではない。何人かいる。いやたくさんの人がいる。みんな、遠くの太陽に向かって走っている。逆光で姿ははっきりと見えないが、男も女もいるし、足の速い人も遅い人もいる。遠くにいる人は小さな黒点のようにしか見えない。近くにいる人の笑い声が聞こえる。とても愉快な声だ。みんな一体どこに向かっているのだろうか。ただ、気持ちのいい太陽の光を受けて颯爽と草原を走っていく人々の姿はどこか華やかに見え、羨ましく思えた。

 ふと、太陽が少しずつ遠のいていくことに気がつく。足元から少し冷気が上がってきた。このままではいけない。自分も走らなくては。自分だけ置いて行かれている。早くあの人たちに追いつかなくてはいけない。そんな焦りが湧いてきた。早く、早く進まなければ。ここにいてはいけない。遠くの空の太陽の下にいかなくてはいけない。みんながそうしているように、自分も進まなくてはいけない。こうしてじっとしている間に太陽はどんどん遠くなり、足元は冷たくなっていく。焦りが胸の中いっぱいに広がり、世良は焦燥に耐え切れず窓から一歩足を出した。するとその途端、世良の世界がぐにゃりと歪んだ。その感覚は階段を一歩踏み外していた時と似ていた。窓のすぐ外には崖があり、その奈落に世良は転げ落ちたのだ。落ちた先は沼だった。あたりは深い霧に包まれ何も見えない。寒い。膝から下はずっぽりと沼にはまり、その泥水は冷たかった。ぐんぐん体温が奪われていくのがわかる。体が冷える感覚は世良に恐怖と不安を与えた。沼の底には藻がびっしりと生えている。とにかく、早く崖の上に行かなくては。一歩前に進もうと右足を踏み出すが、沼の泥がへばりついたその足はとても重かった。今度は左足を前に出す。足を沼から引き抜き、泥のついた思い足を持ち上げる。その間、右足は不安定な沼のなかでバランスを崩して転ばないように体を支えなくてはいけない。一歩前に進むだけなのに、ひどく神経を使い、体力を消耗した。霧で視界まで悪い。というよりも、どの方向に進むのが正しいのかすらわからない。寒さもまた体力を奪う。右足、左足、そしてまた右足。三歩歩いたところで世良は立ち止った。呼吸が荒く、鼓動が速い。たった三歩。三歩歩いただけなのにこんなに疲れるのか。そうして立ち止まって休んでいると、膝が冷たく感じた。沼が膝上まで来ていることに気がついた。いや違う、沼が上がってきているのではない。自分が沈んでいるのだ。ゆっくり、だが確実に沈んでいく。どんなに辛くても一歩前に進まなくては。進まなくては沈んでしまう。 右足を前に出す。さっきよりも泥が重い。今度は左足を踏み出そうと右足にぐっと力を入れる。すると、ぐんっと後ろに引っ張られ、尻もちをついた。さっき沈んでいるうちに沼底の藻が左足に絡んでしまった。いけない。こんなことをしている場合じゃない。こんなことをしているうちに太陽もみんなもどんどんと遠くに行ってしまう。自分だけこの冷たく暗い場所に置いて行かれてしまう。早く、早く追いつかなくては。何とか立ち上がろうともがくものの、焦りで動作は正確さにかけ、またすぐにバランスを崩してしまう。左足の藻はさらに絡まる。体は沈む。気持ちだけが焦り、不安だけが膨らんでいく。両手両足が沼に嵌り、身動きが取れなくなった。すると、眼前の水面から泡がボコボコと立ち昇り始めた。次第にその水面は髭を生やした老翁の面となった。老爺は不気味な笑みを浮かべ、瞳のない目でこちらを見やる。世良は恐怖を感じたが、沼のぬかるみに手足を取られ、逃げ出すこともできない.老爺の面は不気味な笑い声をあげながら大きく口を開けた。世良は身動きが取れない。気味の悪い笑い声をあげながら老爺の面は波立ち、その大きく開いた口で世良を飲み込んだ。

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