第3話

 今日は雲で太陽が隠れているが、強い湿気で服が肌に張り付いて気持ち悪い。雨は降らないということでいつも通り花に水やりをしなければいけなかった。

「この花はなんという名前ですか」

 男はいつも通り、五郎が座っているときに尋ねてきた。

「すんまへん。まだ矢島さんに訊けてへんさかい、今度にしてくれへんか」

「この花はなんという名前ですか」

 大げさなため息が出てしまった。そういえばこの男、連日の猛暑日だというのに、上下茶色いスーツで毎日出社している。

「あんた、暑うないのか」

「この花はなんという名前ですか」

「あんた、ほんまに生きてるんか」

 五郎はつい本音を言ってしまった。失礼な質問とはわかっているが、もう嫌われて喋りかけてくれない方が良かった。

「生きているんでしょうか死んでいるんでしょうか」

 五郎は「ええ?」と声が漏れた。初めて男から違う言葉を聞いた。

「いや、あんた、何言うてんのや。わしも変なこと言うてしもたけど、生きてるがな」

「私は死にました。でも生きています」

「どういうこっちゃ」

 五郎は見上げると、男は目を見開いて五郎を凝視していた。五郎は今の今まで感じていた暑さが引き冷気が身体を撫でつけるようだった。よく見ると男は五郎ではなく、咲いている花を見ていた。

「生まれ変わったという方が正しいかもしれません。でも私はいまもここにいます」

「いやいや、どういうこっちゃ。そらあんたとここで喋ってんのやからここにいるに決まってるやんか」

 男の腕が静かに動いた。五郎は反射的に脚に力を入れるが、男はそっと花を指差した。

「花か? 花になんかあんのか」

 男は小さく首を振った。男の手は僅かに下がった。

「土……のなかか?」

 今度は男は頷いた。

「私は土の中から花に生まれ変わったのかもしれません」

「土の中から?」

 五郎は土を指先で軽く掘った。しかし何も出てくる気配がない。

「この中に何かあんのか」

 五郎が見上げると男の姿は消えていた。

「伊藤さん」

 矢島が会社から出てきて五郎のもとに来た。

「体調どうです?」

「わしはいつも元気です。昨日言うてた男がまた来て、この土の中になんかある言うてはるんやけど、矢島さんなんか知ってはりますか?」

「誰ですかそれは!」

 矢島は突然眉間に深い皺を寄せて怒鳴ってきた。

「いや、すいません。不審者がいるようやな」

 五郎は土を見たあと矢島に視線を戻した。そのとき、心臓が大きな痛みを伴った。茶色いスーツの男が矢島の真後ろに立ち、矢島を睨みつけていた。

「茶色いスーツの男、ほんまに知りまへんか」

「さあ、わかりませんな」

 矢島のこめかみには次から次へと汗が滴っている。異様に湿気てはいるものの、それを差し引いても汗の噴き出し方が尋常ではない。

「矢島さん大丈夫ですか。えらい汗でてはりまっせ」

「だ、大丈夫です」

 矢島は言って、五郎の元を離れた。

「この土のなかに何がある言うんや」

 五郎はぽつりとつぶやいた。しかしそれは純粋な疑問ではなく、出てきている答えを必死に否定しようとした言い聞かせだった。

 五郎は花の植わっていない花壇を手で掘ろうとした。しかし、そこは普段手入れをしておらず土が固まっていた。倉庫からスコップを取り出してきて足を使いながら掘り始めた。少し掘り進めるだけで激しく息が上がる。心臓が胸から突き出てきそうだった。昔はこんな力仕事いくらでもやっていたのに。自分は年を取ったことを実感しながら掘り進めていくと、古い布のようなものが出てきた。布の端にはボタンがついていて、スーツの袖の部分のように思えた。

 布を引っ張ると白い塊がぽたぽたとこぼれてきた。五郎は尻もちをついた。

「ほんまにおったんや……」

 背中に冷たい何かが触れるような気がした。振り返ると茶色いスーツの男が見下ろしていた。

「ありがとうございます」

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花の名前 佐々井 サイジ @sasaisaiji

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