ういんか

押田桧凪

第1話

 僕が生まれてからおじいちゃんは丸くなった、といつもお母さんは言っていた。教習所で働く教官だったということもあり、車の運転にはとりわけ厳しく、脇見運転はもちろん、片手で運転しようものなら絶縁するとでも言いかねないような気迫だったらしい。ぶぅぶ。じぃじ。アハッ似てるね。今、おじいちゃんのこと呼んだね。嬉しいなぁ。孫の溺愛ぶりを傍で見ていたおばあちゃんは負けじと「バァバダヨー!」とアピールするが、じぃじの手に握られたトミカを目で追って、僕は両手を宙に振り上げていたそうだ。


 おじいちゃんは、数年前に運転免許を返納した。


「ヘッ、返したら国から金がもらえるとばい」なんて強がっていたけど、実際には目の病気が原因だと僕は知っている。おじいちゃんは外の景色を眺めることが無くなり、間もなくして、入院することになった。


 おじいちゃんの居る病室は常にカーテンが閉め切っていて、家族の誰がお見舞いに行っても、むすっとしている。僕はおじいちゃんが寝ている隙に、ベッドの横にあの頃一番好きだったおもちゃ──トミカのパトカーを置いて病室を後にする。側面の塗装は剥げていて、ほとんど見る影もないような、涎でまみれてもなお愛してきた物だった。ドアの隙間から漏れ出る光が回転灯に反射して、一瞬だけ光って見えた。


 翌日、おじいちゃんからメッセージが来た。


〈莉人が置いてくれたと?〉

〈うん。また運転できますようにって〉

〈無理ばい〉


 その言葉を、待っていた。僕は『できるよ!』と返信する。今なら、できる。僕は、おじいちゃんの目になりたいと思った。


 僕たち一家の一台の車。お父さんかおじいちゃんがよく乗って、たまにお母さんも趣味で乗った。僕はおじいちゃんが車を乗りこなす背中を追ってきた。だから自動車学校に通って、免許を取った。助手席から眺めた世界は、確実に僕の人生を変えてきた。


『自動運転免許』が導入され、ことが一般的になり、『代替運転』と呼ばれるその技術は国土交通省の認可を受け、公道における使用が許可された。車載センサーであっても、自動運転の追従走行中は別の車両のウィンカーを認識できないといった部分を補うべく、専用のヘッドセットを用いると遠隔で車から見える視界を連動リンク中継ブロードキャストしてウィンカーを出す、ライトをつけるといった機能を外部に権限移譲することができるようになった。僕は運転助手としておじいちゃんを任命する、と免許を取った時から決めていた。



 小さい頃、僕はトンネルが怖かった。閉じ込められたような気分がして、苦しくて、ゴールが見えないからだ。いないいないっ、バァー! 目を開けると、そこには青空があった。「もう大丈夫」とおじいちゃんは言った。


「目ぇ、つぶっとくとよ。じぃじが開けてって言うまで、ずっとつぶっとくと。そしたら、怖くない。絶対に、大丈夫」


 砂場で友だちとトンネルを掘っていて、手がつながったときの体温のぬるさと感触と、エレベーターとか飛行機でうっと唾を飲み込んだときの耳を通り抜けていく風のような爽やかさでもって僕の視界を照らしてくれたのは、おじいちゃんだった。


「次、右かね?」

『いや、次の次の交差点やね』

「わかった。でも、こっちの道ちょっと通りたいけん、通っていい?」


 もともと目的地は、閉店間際のアウトレットモール『マリノアシティ』だと知らせていた。


 おじいちゃんは僕にとっての光だった。実際、ウィンカーになっていた。視界はおじいちゃんと共有されていて、おじいちゃんは方向指示器の一部でもある。


 路上教習の初日、仮免実技の日、卒検の日。あんなに僕の心を脅かしてきた、心音と共に高鳴る合図チッカンが、今ではこの上なく心地よく聞こえる。おじいちゃんはウィンカーであり、カーナビでもドライバーでもある。一緒に運転している気がする。だから、僕は運転するのが好きだ。


 見せてあげたい景色があって、連れて行きたい場所があって、誰かの目にも耳にもなれる、この車が好きだ。速度無制限区間を走るときは、ちょっぴりおじいちゃんに見張られている気がして緊張したけれど。


『あー懐かしいわ。じぃじもよく通ったとよ、この道。なんで知っとうと?』


 福岡タワーや百道ももち浜が見えてくる。砂浜の近くには、レッドブルを無料配布する車が停車していた。


「おばあちゃんに聞いたけん」

『あぁ、そうかそうか……』


 ここのレンガ畳の階段に腰掛けて、告白して付き合い始めたことも聞いたのは内緒にしておく。


 ハンズオフ走行が可能になって、自動運転が主流になって、おじいちゃんは「機械がドライバーの意思に介入することがあったらダメやろうもん」と憤っていたという。人間の教官としてAIに仕事を奪われることが、その意味を失うことが怖かったのかもしれない。走る楽しさを知ってほしいという思いで始めた仕事に誇りを持っていたのだろう。


「おじいちゃん。今、僕は走っとーよ。もちろん、おじいちゃんと一緒にね。人間と機械の境目なんてもう分からないけど、それでも助けられることがあって、おじいちゃんの鳴らすウィンカーの音が僕は好きだから、少しでも長生きしてね」と僕は言った。


『……』


 その突然の発言に戸惑っているのか、おじいちゃんからの応答は無い。動揺を映しているのかチッカン、チッカン揺れるライトが少しだけ早くなったような気がして、僕は思わず笑う。


 もし、もおーし! あの頃たくさん遊んだ糸電話も、今じゃこんなに離れていても通じてしまうくらいに発達してて、僕たちは見えない糸で結ばれている気がした。それは血とか縁とかそういうのよりももっと確かで、このドライブを絶対に忘れたくないっていう思いなのかもしれない。


 レーザースキャナ、マシンビジョン、GPS……。いろんな技術がここ数十年で導入されたことを、僕はおじいちゃんに知って欲しいと思った。悪天候による作動解除、昼夜による機能差はあれど、カーブでの走行安定性や衝突被害軽減ブレーキの機能向上に僕は感謝しているから。


 運転を僕に教えてくれた人がいること。それを継承していくということ。自動化が進んで、物理的な距離を縮めて会話することも少なくなっちゃったけど、僕は全部「助走」だと思うんだ。あの場所に行きたいと体が求めるのと同じ速度で車は走れるから。車線中央をキープしましょう。適切な車間距離を保ちましょう。〜しましょうって教わったやり方を、自動運転の機械もならうけど、なんで行きたいのかっていうのは、人としての気持ちが伴うからさ。


 ドアミラーにまるでそこにおじいちゃんが映っているかのように、僕は話したくなった。


「今日、僕がマリノアに行きたいのはさ、おばあちゃんに昔、子供服や福袋をたくさん買ってもらって、あっそれにレゴも。なくなった本屋さんで本も。そういう何かプレゼントを買いたくて、おじいちゃんと一緒に選びたいなって」


 おじいちゃんは黙っていた。でも僕にとってそれは肯定だったから、話すのをやめた。ハザードランプがいち、にっ、と二秒点灯する。ありがとうの合図だ。


「どういたしまして」


 ふと筆記試験の問題集に書かれた断片を僕は思い出す。

 ──交差点を左折する場合は、徐行しながら左後方の安全を確認し、巻き込み事故を起こさないようにする。


 直接で安全を確認するから、正しい。だから、もちろん正解は〇だ。でも、今はもう一人じゃない。


 僕はハンドルを二人ぶんの力で強く握った。

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