感光

灰崎千尋

「あたし、光になりたいの」

と彼女は言った。


 一迅、風が彼女を舞い上げようとする。私は彼女を繋ぎ止めようと光を焚く。彼女は力なく微笑む。私はそれをファインダー越しに見つめる。彼女と目を合わせられるのは、レンズを通してだけ。


 私と彼女は、いつもそんな繰り返しだった。






 あの日、高校の屋上で、彼女は脱いだ上履きを丁寧に揃えていた。片方の手は髪を耳にかけながら。長い睫毛の目を伏せて。

 私は断りもせずシャッターを切った。そうせずにはいられなかった。まだ名前も知らなかった。彼女は私に気付いて、ぼんやりとレンズに目を合わせた。私はまたシャッターを切る。彼女はストロボの光に目を細める。それをまた私は撮る。


「あたしまだ、写ってる?」

 彼女は首を傾げながら真っ暗な瞳で言った。


「現像したら、きっと」

 私は俯きながら答えた。


「そっか。じゃあ今日はいいや」


 彼女は揃えた上履きを履きなおして、屋上から出ていった。スカートから伸びた脚がぽきりと折れそうに細かった。

 私の命運はたぶん、その時決まった。



 苦手な体育の時間、なんとなく校舎を見上げれば彼女がいた。遠くから眺めるなら大丈夫。目なんて合わない。彼女は私になんて気づかない。

 彼女は遠目に見てわかるほど白い肌をしていて、髪の色も天然のセピア色で、そのせいで学校にややこしい証明書を出さなければならなくて。その珍しい一年生の話は、二年の私でも知っているほど広まっていた。彼女はひとりぼっちだった。ひとりぼっちで屋上に立っていた。それをこっそり見上げていた。後ろから飛んでくるボールにも気付かずに。



 間抜けな私は保健室に寝かされて、ぼんやり白い天井を見ていた。私は見上げてばかりいた。いつでも全ては私の頭よりも上にあった。だから横に彼女がいるなんて思いもしなかった。


「あたしのこと、見てたでしょ」


 クリーム色のカーテンの向こう側から、彼女の声がした。

 私は咄嗟に、声とは逆へ向いて布団にくるまった。しゃらら、とカーテンの開く音。


「あたし、まだ写ってる?」


 あの日と同じように問われて、布団に埋もれたままの口で「うん」と答える。

 紙に写し取った彼女は、その透き通る白さがモノクロームによく映えた。そして何より、その頬。そのそばかす。それはまるで星空だった。これまで撮った何よりも愛らしくて、愛おしくて、口づけしそうになったほど。


「あたし、光になりたいの」

と彼女は言った。


「だから撮ってよ、あたしのこと」


 彼女の指が、私の浅黒い頬に触れた。それはひどく冷えていたけれど、しっとりと柔らかかった。



 ミニチュアのビル街のごとく並んだ換気口がうるさくて、屋上は不人気だった。だから私はいくらでも彼女を撮れた。彼女はポーズを取ったりはしない。私もポーズなんていらない。彼女の影を白と黒で浮かび上がらせることができたなら。深く沈んだ眼がふとレンズを見てくれたなら。私がシャッターを切ることで彼女の望みが叶うなら。それが全てだった。


「あたし、光になりたいの」

と彼女は言う。

 その目は夜の湖のように暗く凪いで、私の姿なんて映さない。それでいい。ファインダー越しに見る瞳は鶯の羽の色。けれどプリントしてしまえばグレーの濃淡でしかない。それがいい。

 ほとんど言葉を交わすことも無く。私のフィルムは彼女の姿で埋め尽くされた。今そこにいる彼女を、刻みつけなくては。光で焼き付けなくては。そうしないと彼女は霧のように消えてしまうんじゃないか。彼女はきっといつか光になるのに。私はそう信じてやまなかった。

 一枚一枚が、彼女への捧げものだった。賛美だった。祈りだった。現像した中で一番出来の良いのを、いつも彼女へ渡していた。それを眺める時の彼女は、ときどき意外そうに目を瞬かせて、その瞳へ僅かにハイライトが灯る。それを撮るのを、彼女はほんのり嫌がった。その横顔の薔薇色を私では写せない。それだけが残念だった。



 学校の保健医に呼び止められた。保健医が言うことには、彼女はホームルームが終わるころに保健室にやってきて、けれどもいつもふらりと抜け出してしまうらしい。「だからよろしくね」などと言われたところで、私はその時初めて彼女の下の名前を正確に知ったくらいで。「だからよろしくね」などと言われたことが無性に腹立たしかった。それ以上に自分を恥じた。私はその日、屋上へ行かなかった。



 一度、たった一度だけ、彼女を暗室に連れて行ったことがある。

 その日は放課後もやけに日差しが強かった。日の光に晒されながら彼女はずっと座り込んでいて、桃色の唇がぎゅっと引き結ばれたままなのも気になった。私は撮るのを中断した。


「あの……現像するけど、来る?」


 勇気を振り絞って言うと、彼女は少し腰を浮かせた。けれど不安そうな顔ですぐにまた腰を下ろしてしまった。


「現像してる間は、誰も来ない。先生すら入れないから」


 私がそう付け加えると、「じゃあ、行く」と彼女がついてくることになった。

 おかしな気分だった。私の部室なのだから私が案内するしかないのだけれど、彼女を先導していると思うと落ち着かない。人目を避けながら、ひょこひょこと後ろを振り返ってしまう。といっても、確認するのは彼女の脚だけ。

 写真部の部室は、先人が改造して暗室にできるようになっていた。けれど残りの部員はみんなデジタルカメラを使っていて、いま暗室を使うのは私一人。

 私は扉に『作業中』の札をしっかりとかけて、扉と暗幕を閉めた。機材や備品でごちゃごちゃとしている中から椅子を引っ張りだして、彼女を座らせる。バットやトング、溶液を準備して、灯りを切り替える。セーフライト。露光に影響しないその光で、部屋は赤く染まる。

 がたり、と彼女が立ち上がった。赤い赤い光の中ですら、彼女は私よりもずっと白い。でもそれだけだ。濃淡だけがここにある。

 私は初めて、彼女を正面から見つめた。歳は一つ下だけれど、頭一つ分私よりも背の高い彼女。その顔を私自身の目で見上げる。


「こわい?」

 私は尋ねた。


「……ううん」

 彼女は首を横に振る。

「落ち着く」


「私も、そう」

「同じだ」

「同じだね」


 私は一歩、彼女に近づく。広がったスカートの裾が触れ合う。カメラ無しにこんなに彼女へ近づいたことはない。

 赤い赤い光の中で、彼女の唇はつややかで、鼻筋はくっきりとして、頬に星屑が散らばっている。そこに睫毛の影が落ち、瞳。


「ひとみ」


 私は彼女の名を呼んだ。

 彼女は一瞬目を見開いて、それから眉を下げて微笑んだ。


「あたし、あなたの名前知らない」

「……亜衣」

「アイ?」

「うん」

「同じだ」

「え」

「ひとみもアイも、目だよねってこと」


 こんな時に限って、カメラのフィルムは取り出したまま。

 いや、これは私の目で見るべきだ。焼き付けるべきだ。今までで一番柔らかな彼女の瞳。そこに私が映っている。まばたきすら惜しい。


 私はきっと、すごく、不器用に笑みを浮かべながら、「同じだね」と答えた。


 赤い赤い光の中に、彼女の姿を引きずり出す。その時のまま、あの時のまま、物憂げな彼女が水の中に泳ぐ。それを吊るして乾かしていく。吊るされたを、彼女は静かに眺めていた。

 そのうちの一枚は、ひどく白飛びしてしまった。日差しが強いのに、現像で露光を長くやり過ぎたんだろう。膝を抱えて蹲る彼女の、腕と顔との境目は白くぼやけて、反対に制服のディテールは黒く潰れている。やり直そうと手に取ろうとしたその時、彼女が私の腕を掴んだ。


「それがいい」

「どうして。失敗したのに」

「もうすぐ光になれそうだもの」


 彼女はきっと、形を無くしたいのだ。

 薄々わかっていた。だけど、私は。


「写真って光で切り取るものでしょう。たくさん撮られていくうちに、少しずつあたしは透明になって、光だけが残るの。そうよ、きっとそうなる」


 彼女は少し掠れた声で、歌うように言う。言いながらするすると離れていこうとする彼女の手に、私はぎゅっと手を重ねた。


「消えないで」


 ぴくり、と彼女の手が震えた。


「もうずっと、私にとっては光だよ、ひとみは」


 彼女が息を呑む音が、耳元で聞こえた。

 それから私の手を振り払って、暗室から走り出てしまった。

 赤く沈んだ部屋に色が戻っていく。外はなんて、眩しい。



 その後しばらく、彼女は屋上に来なかった。そっと覗いた保健室にも、来てはいないようだった。私は、間違えたんだ。

 私は、彼女のいない屋上を撮った。彼女の跡を追うように。うるさいだけの屋上を撮った。少し頑張れば登れてしまいそうなフェンスの隙間を。彼女がよく座っていたへりを。あの日、上履きを並べていた場所を。彼女の入るべき余白を。

 私が授業を抜け出してまで写真を撮るようになると、放任主義だった写真部の顧問がやってきて私に言った。

 彼女は、ひとみは、転校が決まったのだと。



 最後に彼女に会ったのも、もちろん屋上だった。

 いるはずのない彼女が、あの頼りないフェンスの前にいた。私はやっぱりカメラを構えて、彼女の後ろ姿を、振り向くさまを撮った。


「ごめんね」

と彼女は言う。

「最後に撮ってほしくて」


「謝らないで」

 私はファインダーを覗いたまま、シャッターを切る。今日みたいな青空が、今日みたいな笑顔の彼女には似合う。


「あたし、光になりたいの」

「うん」

「でも、もう少し頑張ってみる。ここじゃない場所で」

「うん」

「だからこのまま、さよなら」


 彼女は突然、私を抱きすくめた。


「アイも、あたしの光だったよ」






 そうして、彼女は光になった。

 私を置いて。

 光の欠片だけを残して。

 

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