天秤 Ⅱ

 二人の男が緊迫感を無視して呑気に歩いてきた。

 うち、先を歩く者には驚きもない。中間地点から双方の戦況を窺っていたランゼの教育係だ。ある意味で彼女を後押しした愉快犯でもある老成は、いつも通り緩い口角のまま両手を上げて脅されていた。

 剣先を背中に向けられているクロスは拾った剣を失っている。無力な人質と化したのだ。彼が支配される姿など初めて見たため、ランゼは後ろのサプライズゲストよりもそれに驚いていた。

「クロス……」

「申し訳ありません、ランゼ様。無傷で済むと言われて迷わず降伏しました」

 危機的状況でも余裕だった。その気になれば老成の毅然を崩すことも出来ただろうに、加害者はそれをせず、あるいは老成の性格やランゼも知らない彼の在り方を考慮し、脅しは無駄だと判断したのかもしれない。

 そこまで考えられるのは、この場ではオルダルのみだった。

「役者は全員揃ったようだな。それは結構」

 その風貌も、声も、誰よりも高い視点から世界を計れる才気も、彼のもので間違いない。

 衛兵や騎士、それらを志す若者たち、そうでない者ですら一度でも彼と関われば底知れない才覚だと認めるようになる。真面目なビスタンは勿論、不良のジョンクでさえ彼には純粋に憧れていた。

 その彼は、五日前に殺されたはずだ。他でもなく同色の笑みを浮かべている女アサシンによって腹を貫かれたはず。オルダルと、逃げ遅れた村人を探す兵たちを除き、全員がその瞬間を目撃していた。

 これは現実なのか、未知の魔法に欺かれているのではないかとカームズ側は目を疑う。しかし、何度目を擦っても視界に映る情報は変わらなかった。

 その者はクロスと共に立ち止まると、まず「ランゼ、覚醒したか?」と問うた。ミナと同じく、最も気になるのはランゼの心なのだ。

「……兄上」

 王子たちは生きている。敵とはいえ、嘘を吐くはずもない彼女の発言。

 死した白い獣は第二王子・フルーガだった……と推定。

 生き残っている一匹の正体が消去法で判明すると、彼を愛していた侍女に同情するも、それ以上に、現れた彼は獣ではなく人の形のままなのが却って妙となる。


 第一王子・タクト。次期国王として誰もが支持した真の指導者。

 ランゼに足りないもの全てを兼ね揃えていた貴公子が、自身を殺めた女アサシンの陣営側として復活したのだ。


「生きていたとはな。いや、もう驚きもしないが……」

 オルダルは埒外の連続に頭が混乱するも、思考を止めて熱を冷ました。

 元は敬語で接していたタクト王子に対し、女アサシンと同様に敵意を以て睨み付ける。戻ってくる可能性は無いのだろうと断定して……。

 タクトは鬼の形相を鼻で笑い飛ばした。それだけだった。

 貴公子の視線は再びランゼに移る。「あと少しで死んでいたな」と、昔みたく兄として妹のやんちゃを弄る顔には愛情があった。

 彼は裸の上半身に馴染みの白いブレザーを羽織っている。

 そして、胸と腹の間には顔と同じ大きさの光る石が埋め込まれていた。

 妖しい光を放つその異物に注目がいく。タクトは面倒くさそうに「この要石こそが蘇生した証だな」と詳細を省いて答えた。

 皆が呆気に取られる中、ランゼだけは首を傾げた。ミナは今の自分を「生者ではない」と言った。同じ魔法で復活した彼女も黒衣を脱げばこのようになっているのかとランゼが見つめると、ミナは困ったように微笑んだ。

「さて、説明はいるか?生存競争だからなぁ。話すだけ無駄だと思うが」

「まずは話し合いからじゃないのか?」

「あの時はまだ『正義の味方』だったからな。もう嘘を吐く段階は過ぎた。気に食わない奴はぶっ殺せ。比較しろ。比較されろ。弱者は引っ込め。……いつだってそれが俺の本音だったよ。もっとも、大陸から流れてきたこいつらを始末しなかった結果で、俺はこのように『機会』を得られたわけだがな」

「機会……」

 先にそれを手に入れていた兄に、通じ合うものがあると感じるランゼ。

 衛兵コンビどころか、対話しているはずのオルダルでさえ、タクトの視界にはランゼしか映っていないのだと思えてならない。

 タクトが蘇生したのは最近のことだが、きっかけは六年前からで……あの時、あの場所にいたランページ人の女子二人、そしてクロスだけが彼の『表』に立ち会っている。

 しかし『裏』に関しては不明。現在協力中のミナでさえ彼の深淵は覗き込めていない。

「……やけに楽しそうですね」

 深淵を覗かせるに値する。そう評されているランゼがオルダルに代わる。

 ランゼとしては復活や裏切りの経緯より、彼の目に映る世界がどういうものであれば、その決断に至るのかが気になった。

「妹よ、俺は昔のままだ。死んで生き返った程度で人格は変わらん。それを己で証明してしまった。ただし、今の俺は第一王子ではなく『天秤のタクト』だがな」

 名を改めたタクトはあっさりと人質を解放した。自由になったクロスがランゼの傍に帰る中、タクトは不敵な笑みでランゼだけを見つめる。今の発言は誰よりもミナを抉ったが……。

「心は同じですか。その心が、早くから私たちを欺いていたとしても」

「私たち、か。すっかりカームズの代表者だな。残念だったな、ミナ。お前の愛するランページ国のお姫様は俺たちの敵だ」

 ミナは内心の動揺からおもむろに腕を組む。加えて無言。その様子から、現在の主君が他国の王族ということに不満があるのも明らかとなった。

「兄上、何故カームズを裏切るのです?」

「……」

「チッ……お兄ちゃん、どうしてランページ側につくの?」

「俺の理想のため……としか言えんな。未来への投資などと嘯きながらも離島に留まり、競争や進化にも意欲的でない小国など俺の性に合わなかった。とにかく俺は比較をしたいんだよ。あと、借りもあるしな」

「借り?私たちは助けられた側ですが……」

「そうでもないぞ。お前たちと運命的な出会いを遂げたことで俺はこうなれた。お前とグカには特に感謝している。本当だ」

 ランゼの急成長はタクトにとって想定内のことだった。ランゼは戦場でこそ化ける気質なのだと見抜いていたからだ。

 探り合いでは勝てないとランゼも痛感していた。仕方なくお約束に則っても彼の思想が全く引き出せず、無念。

 彼の言うように生存競争であるのなら、敵対者の意思など気にしてはいられない。

 何より夜間だ。このタイミングで黒い獣たちが押し寄せてくるようなら、そのままカームズ側が陥落させられる恐れもある。逃れた村人もいるため、続行はまずいとオルダルは焦り、タクトが本心を打ち明けないのであれば、今はそれでも構わないと休戦を願う。

 しかし、この戦闘狂は興奮を堪えていた。獣を討ち取れなかったことが心残りかつ不完全燃焼で、勝算の揃った今こそが理想の『機会』なのだと無意識に鼻息を荒げる。

 そんなランゼでさえ、先を行くタクトの言動までは無視できなかったということ。

「今夜はここでお開きとしよう。俺たちの負けってことでいいぞ」

「私たちとしてはここで一気に仕留めたいところですがね」

「そう思っているのはお前だけだ。それに采配ミスだぞ。ランページ村の住人が減ったおかげで黒い大群がここまで進めるようになった。続けると言うならそっちが不利になるが、それでもやるか?」

「私とザイが皆を守りながら戦います」

「やめておけ。獣は二十五匹まで増えた。それらからカームズ人を庇うのは、お前たちでは無理だ。一匹ずつ確実に相手取る術でもあれば話は変わるがな」

 やる気のランゼに味方の男性陣が溜め息を吐く。勇敢さと戦術には目を見張る部分があるも、まだ逸っている。犠牲を鑑みないのは致命的だった。

 白い体毛を震わせていた残る獣がおもむろに接近する。衛兵コンビは身構えたが、ランゼと大人たちは何もなくただ見つめ、裏切りの王子と女アサシンが獣に歩み寄っても手を出さなかった。

「ランゼ、条件を揃えて蛇の塔に来い。知りたいことはそこで全て教えてやる。……思考を放棄して思い切り暴れるだけにしてもな」

「暴れていいのです?」

「それがお前だろう?好き勝手に『狂奔』しろよ。俺が許す」

「……狂奔?」

 聞いたことのない単語を受けて、ランゼは未体験の感覚に陥った。一度全身が痺れ、そして単語が頭に残留し、浸透したような……。

 その様子を一瞥してタクトは獣の前脚に乗ると、丁重な扱いで背中へ運ばれた。ミナは自力で獣の背中に飛び移った。

「急げよ!白はこいつで最後だが、黒い方はまだ増やせる余地がある。さっさと出陣しないとそっちの勝率が落ちる一方だ!」

 勝ち誇るタクトの号令で獣が駆け出した。目指すは彼らの根城、カームズ側にとっての災いの象徴へ。

 追いかけることもせず、叫び返すこともない。ランゼたちは去り行く獣の疾走を見送るしかなかった。

「お前は残らなくていいのか?」

 タクトは自らを殺めた女にそう聞いた。轟く獣の足音が阻害してランゼたちには聞こえていない。

 対してミナは、儚い眼差しと震える声で「夜明けにはまだ早いわ」と返した。彷徨い、躊躇う女の瞳に映る彼女の姿は遠い。すぐに粒となり、やがて消えていった。

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