天秤 Ⅰ

 比較すれば針のように細い一本の槍を以て全長四メートルの獣を打倒する気でいたランゼでさえ仰天した。自分が獣でも、今のは反応できなかったと。

 巨大な頭を地面に落としたのもまた巨大な凶器だった。

 ここに生まれ、心・技・体を磨き上げた男たちでも不可能。海の向こうの大陸全土を見渡しても、漆黒の大斧を担ぎ、それを高速で振り下ろせる者がどれだけいるのか。

 男は今も鎧を取り上げられているが、皆が手を焼いた白き獣を瞬殺する手段だけは解禁され、許可した者の目論見通りの結果を出した。

 瓦礫をクッションに仰向けで倒れるランゼは、頭の無くなった獣の体が倒れる無惨ではなく、人と獅子が融合した頭と自分の間に佇む男の悠然とした背中を見つめている。

 少女の視線に気付き振り向いた男の表情は浮かない。共闘を断った身の上だからではなく、このような危機に陥る前に彼女の刃となる誓いを立てたく、そうなっていれば同じく浮かない顔をしている姫君など見ずに済んだからだ。

 ランゼはザイがここに現れた理由を知らない。もう自分では彼を従えることは出来ないと、諦め半分でもあった。

 共に戦場を駆ける未来を望んだものの、このような再会は理想的でない。準備不足で、不器用同士何も言葉が出ずに瞳の奥を覗き合うのみ。

 ザイをここに召喚した者はしばらく様子身に徹するも我慢の限界。カームズ国の王を騙るくせして獣に食われる一歩手前まで追い込まれていたランゼに心底苛立っていた。

「情けねぇな。これまで散々イキり散らしていた結果がこれかよ」

「あっ、オルダル……」

 次いで現れた重臣に手を差し伸べられる。体の痺れが残っているも、オルダルに侮られるのが嫌で、苦悶の表情を浮かべながらも手を取り立ち上がる。

 いがみ合う関係性は不変だが、二人が手を繋ぐことなど今までなかったことだ。

「説明はいい。見れば分かる。お前の功績はゼロ。どうだ?自分の愚かさを分からせられた気分は?」

「反省は後でやります。敵がまだ残っています」

 一番槍になりたい。その理想は果たせた。

 それでも、今回の戦いは勝ち切るつもりでいたため、オルダルの真っ直ぐな酷評は戦士としてのランゼではなく、まだ幼い少女の心を揺るがす。それを誤魔化すように将として冷静に振る舞うと、オルダルは「より生意気になりやがって」と眉間の皺をより深めた。

 ランゼとはやはりそういう存在なのだな……と確信して。

 残る一匹と主人の女から大分離れたが、眼の良いランゼはいずれも健在だとすぐに分かった。衛兵コンビも無事、膠着状態のよう。自分たちが動かなければならない。

 最強の騎士もいる。彼がいなくても完勝するつもりでいたランゼは勝利を確信して「行きましょう」と、二人を連れて決着へ進む。



 カームズ国の主格が近付いてくる。残るもう一匹の獣が起き上がって暴れ出すと、衛兵コンビも驚愕したがやはり危害は及ばなかった。

 役割は変わらない。獣の力は観戦して分かった。標的になれば自分たちでは敵わないと。

 それでもランゼはやったのだから、自分たちもやらなくてはならない。勇気を奮い、獣と女の両方を警戒し続ける。

 総力としては有利なため二人も強気でいられた。包囲する不利な女が未だに焦る様子を見せないのは妙だが……。

「儚いものね。一途な愛を貫いても届かなければ無駄。高貴な生まれでも、戦場では皆が平等に強弱の秤に掛けられる。けど、彼の理想に則る形での敗北なら、救いだけはあったと言えるのかもね」

 窮地の自分ではなく散った獣人を偲ぶ。今のが独り言か語り掛けたのか不明でジョンクが首を傾げると、ミナはその鈍感さを鼻で笑った。

「次は貴女の番だ」

 後ろのビスタンが言うと、今度は「フフフ……」と含み笑い。強がりとは到底思えず、少年たちの方が女の不気味さから不安を覚える。すぐ傍で絶叫・悶絶している獣も含めて「異常な空間だ……」と心が乱れ始め、ダラダラ歩いてないでさっさと来いやと役者たちに怒った。

「どうする?せめて俺らくらいは殺しておくか?」

「忘れたの?私は戦いに来たわけじゃない。新種のテストに来ただけ。そして、その結果はもう出た」

「テストだぁ?」

「ええ。残念ながら失敗に終わったけどね。それにザイがランゼの味方になったことで勝ちの目も無くなった。それでも彼の望んだ展開にはなったし、私としても付き合った意味があると思っているわ」

「何言ってんのか全然分からんが、どの道あんたはもうここまでだよ」

「それはどうかしら?貴方たちの気が変われば奇跡を起こせるかも?」

 ミナは黒基調の薄いワンピースの上から豊満な胸の形が浮かび上がるよう指でなぞった。

 ジョンクは言葉では「俺らは高潔なカームズの衛兵だ!誘惑には惑わされねぇぞ!」と否定しながらも喉を鳴らし、ちょろい相棒に呆れるビスタンもやっぱり期待した。誰がどう見ても美人に違いない女が、ノースリーブでスリットの深いワンピースを着用すれば男子の心など簡単に支配できた。

 よって、女アサシンの処遇はこのままランゼたちに投げようと衛兵コンビはアイコンタクトで結託する。

 そんな非言語コミュニケーションさえも見透かされて男子たちは激しく動揺(興奮)するも、到着した残念な麗人からゴミを見るように蔑まれると一発で萎えた。

「ランゼ、派手に吹き飛ばされていたけど大丈夫?」

「……どうも、ミナ。あれくらい何てことありません」

 気さくに話し掛けてくるミナ。敵対関係とはいえ過去に縁があり、ある意味で自分が戦場へ来られた要因とも言えるため、ランゼも即断とは行かない。

 第一・第二王子を殺め、最後にはランゼをも誑かすランページ国の女アサシン、双頭のミナ。

 対して前後から囲う衛兵のジョンクとビスタン。あらゆる繋がりの中心にいるランゼと、半端なまま合流してしまった最強のザイ。否定的な言動が目立つも実はランゼを理解しているオルダル。

 瓦礫の大地より天空の月目掛けて吠える白き獣。……正体に心当たりのあるオルダルが、賊を始末する前にそれを確かめる。

「蛇の塔を守る黒い獣共とは違う、一回り巨大な白い獣。ランページ人のみを襲う習性か洗脳を受けている様子のこいつらは……」

「流石に気付いたようね」

「まあな。さっきランゼから情報を得て確信した」

 オルダルも剣を携えていない。ザイが加勢するのだから不要と判断したのだ。王城から闘技場の地下へ、それからここへ辿り着くために身軽さを選んだ。

 いつでもミナを蹴れる距離まで接近するオルダルを見て、双剣無しでもミナが手強いというのを知らない彼の浅はかさをランゼは内心で嘲ていた。

「それも魔法か?」

「そうよ。魔法はね、ここには無いらしいけど、大陸では全く珍しいものではないの。奇跡を起こす力、常軌を逸した離れ業。それが普通に存在しているの。もっとも、私たちの扱う魔法は他所と比べて大分ひねくれているみたいだけど」

「理解は出来んが、信じざるを得んな」

「オルダル?」

 既に答えを得ているランゼだが、内容までは分からない。王としての信頼を十分に獲得していれば、ミナたちの企てを一早く知れる展開もあったかもしれないが、オルダルは不信の王に『それ』を隠してきたため、今は首を傾げるしかない。

 これまでなら適当にあしらうことも出来ただろうに、少女を狂人の器として断定した今では率直に後ろめたく、円らな瞳に注目されると気まずかった。ランゼもオルダルにそのような反応をされたのが初めてで、より首を傾げた。

「教えてあげればいいじゃない。ランゼはカームズ国の女王でしょう?隠し事なんて本来極刑ものよ」

「黙れ毒婦」

 ミナの態度にこれまでの問題児を思い出して本当に手が出そうになった。

 その通り、教えるべきだったからだ。

「ランゼ、王や王子たちの遺体はどこへ移ったと思う?」

「墓地に決まっているでしょう」

「そうだ。だが、共同墓地ではない。王族や親類には別の墓地が設けられている。王城の地下に庭園があってな。そこに皆、眠っている」

「えっ……」

 王族のしきたりを知らされていないランゼは呆気に取られる。最大権力者のはずなのに、それほどの情報すら制限されていた古き主君に代わりミナが怒りを感じた。

「二年前だ。第三王子の墓が荒らされていると報告を受けて警備を強化。俺や王たちは極秘裏に犯人を捜したが、結局見つからなかった。そして、三日前だ。建てて間もない第一・第二王子の墓が荒らされた。墓には彼らの遺体が納棺されていたが、中身は空になっていた。カームズ国史上最低の失態だ。お前にも今初めて話した」

 不退転のザイでさえ「卑劣な……」と義憤に駆られるほどだが、最も怒りが込み上げているのは語るオルダル。

 犯人が目の前にいて、よく暴行を堪えられるものだと自らを称える。

「貴様だな?」

「正解」

「何故入れた?」

「警備が甘かったから。貴方が亡き王の墓前で涙を流した後なんて特にがら空きだったわ。二年前から毎日、四六時中厳戒体制にしておけば難しかったかもね」

 冒涜者が犯行を認めると、オルダルは血眼で唸った。それにはランゼも恐怖を感じた。

 次いで残る獣が夜空へ雄叫びを上げる。残響が無になるのと同時に裁判は再開される。

「理由は問わん。獣の正体も明白。白い方も、黒い連中もな。……それで?そも、死んだはずの貴様は何故そこまで自由に動ける?結果として二度も侵入を許したとはいえ、うちの警備はザルじゃない。それは二年前までの歴史が証明している。目撃者だけでなく、負傷者もゼロというのが謎だ。これだけ完璧に潜入できたのは、俺たちの知らない情報なにかをそっちのみが握っているからだろうよ」

 衛兵コンビだけでなくランゼとザイもいる。ミナに逃れる術はない。いっそ大人しく連行に応じ、独房で大人しく過ごす方がマシかもしれないと考える頃合いだろう。

 それでも毅然とした態度を曲げない。追い詰められているはずだろうに、一度死んで復活した女は無知な男たちをなおも見下し続ける。

「確かに私は亡国での戦争が終結するより前に死んだわ。今みたいに賊共に包囲された結果、お腹を刺されてね」

 新たな生命を慈しむように痩せた腹部を撫でるミナは、その眼差しを最重要人物たる少女へ向ける。

「言ったでしょう?ランページの魔法はひねくれているの。中でも『螺旋のグカ』は国一番の魔法使いで、生き物を洗脳する他にもいくつかの猟奇的な魔法を扱える。そのうちの一つが死者の蘇り。今の私はね、ただ活動しているだけで、生者ではないのよ」

 男たちには決して向けない潤む瞳で愛しい少女を見つめる。彼女への想いに偽りなど一つもなく、双頭のどちらにも見据える先にランゼがいる。

「人を獣に変えるような連中だからな。自然や動物を操作する程度なら役にも立つが、その実態に俺たちは翻弄されてきたんだ。……で、手引きしたのは誰だ?」

「ウフフ……もう分かっているくせに」

 想定外の連続に欺かれてきたオルダルだが、カームズ国随一の切れ者には変わりない。有能な彼だからこそクルーダ王は頼り、それだけでなく人情家の側面もあるから友になれた。

 敵対するミナでさえ彼が飾りの臣ではないと認めている。

 ……だが、本質は悪女だ。今と違って調子の良い時のランゼみたく、真実から遠い大人たちを嘲るのが楽しくて仕方なかった。


「蘇りの魔法は禁術だった。あのグカですら躊躇うほどにね。でも、その存在を知った彼は『面白い』と言ったそうよ。死んだ私を戦利品に扮して宝箱に詰めて持ち帰り、成功例があるかどうかも不明な禁術の実験台にしたのも彼。私は自ら希望して復活したわけではないの。成長したランゼに会えたから良しとするけどね。グカに獣を量産させて、カームズ国との決戦に備えるよう指示したのも彼。王子たちを獣の姿で蘇らせ、課題だったランページ人を殺せる駒を作り上げたのも彼の指示。私に自分たちの遺体を回収するよう手引きしたのも……彼に決まっているわ」


 愉快なミナは不愉快なオルダルの背後を指差した。

 全ての元凶。いくつもの尊い命が散った各騒乱を裏で支配していた黒幕の登場に、まさか……、やはり……と、様々な情動が生まれて混沌が起こる。

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