奴隷剣闘士 Ⅳ

 従者二人を制してランゼは独房に入り、扉を閉めた。

 ランゼはザイを除けば今この国で最も強く、彼の方も手枷を付けられているとはいえ、極めて危険な状況に他ならない。シャンナが仰天して扉を叩くも、ランゼは「大丈夫だから」と隙間から余裕を見せる。

 その表情は大人の忠告を無視する時の適当さではなく、確かな自信が感じられたため、シャンナも諦め、クロスなどこうなると予測していたように扉の隣にもたれた。

「偉大なる第一王女様を信じましょう」

「無茶をしたがるのは知っていますけど、いつも前振り無くなので驚かされます……」

「シャンナ殿はお優しい。ですが、本当に大丈夫なのですよ。ランゼ様は断じて淑女ではありませんが、相手は紳士ですので」

 外側で好き放題に言う教育係に苦笑し、改めて密室で彼と向き合う。

 闘技場の主役にして、今や一番の叩かれ役。ランページ国がまだ存在していた頃はこのように対面することもなかった、あるいは記憶に残っていない最強の男。筋肉隆々の体躯に黒一色の鎧を纏い、黒鉄の大斧を嵐の如く振り回す戦場の主。

 第一王子・タクトが指揮した連合軍でも誰よりも戦果を上げ、戦後は剣闘士として両国の民を熱狂させるはずだった。

 二つの国が争いを始めた時にこそ得物を離し、彼を慕う十人の騎士と闘技場に残った。

 実質的に自国を滅ぼした敵国に服従する体となったが、彼を非難するランページ人はもういない。ランページ国最後の王族であるランゼと同じく、同胞には関心を持たれなくなった。

 それでも、姫だけは騎士を求めた。

『正しい闘争』の意味はまだ分からないが、とにかく放っておけない。このような密室に閉じ込められ、あんな下品な催しに利用されるだけというのはあまりにも惜しい。

 ランゼは異質な立場だからこそ、彼らを救い出せるのは自分しかいないと決意を固める。


 彼らを救出する理由が、ランページ国の姫だからではないのがまた異質だが……。


 ザイは壁に寄り座ったまま。礼節を重んじる気質だという印象があるため意外に思うランゼだが、ザイこそランゼの挙動に注目している。

 今度は大人しい……と、シャンナが隙間から中を窺ったタイミングで沈黙は破られた。

「貴方をここから出す前にいくつか確かめておきたい事があるのです」

「だろうな」

 敬語を使ってこない騎士に対し、怒りは皆無だが不思議に感じる姫。

「それじゃ、失礼して」

「ん?ああ……」

 ランゼは独房の中央、ザイと正面から向き合う地点で膝を畳んだ。

 幼い頃も、少女の今も、大人たちを我が儘に巻き込んでいるというのは離れた場所にいても知れる。ここまでやって来るのもザイは想定していた。他の王族が滅べばランゼは今までより更に多くの人々に迷惑を掛けるようになると分かっていた。

 その印象があるから男装により清楚さが増す容姿と、反する風評と実態で頭が混乱する。ザイの方は幼い頃のランゼを知っているため、余計に整理がつかない。

 ザイは昔から知っている。考えれば誰でも分かる当然だが、経緯に関心を持たないランゼは見落としている。

 皆にとっての当たり前にも気付けず、おかしい娘として映るのだ。

「他に入り口があるのを初めて知った」

「え?」

 自ら切り出して内心の惑いを誤魔化すザイ。見込み通り強者となったようだが、白く細い首を傾げる仕草は戦いと無縁の世界に生きる健気な少女のそれで、また混乱する。

「俺たちがいつも向かう方と違う場所から扉の開く音が聞こえた。その地点に外へ繋がる扉があるなど知らなかった。これは貴重な情報で、そっちからしてみればとんだ失態だ」

「はぁ」

「はぁ?」

「どうせ脱出するんですからどうでもいいじゃないですか。そんなこと」

 円らな瞳のまま情報漏洩を些事とする姫に騎士は溜め息も出ず、ここに来た理由も分かるものの、あの異端児は結局異端のまま大きくなるのか……と、亡き彼女の両親に同情した。

 ランゼはザイの気など知らず、覗き込むように首を伸ばして「んー?」と精悍な顔に付け入る。降参のポーズも取れないため、代わりにザイは手枷を空へ持っていった。それが「話を聞いてやる」のサインとして正しく伝わったため、馬鹿なだけでもないと感心してしまった。

 素行はともかく、女性の王族という繊細な身分と、両国の架け橋という今や崩れかけの役割を一身に負い、それでもあの日、敵うはずもない獣へ挑む勇姿を示したのは……ザイが自分の目に焼き付けた事実だ。

 蛮勇であれ、少なくとも心の強さだけは指導者に能う。

「貴方の言っていた『正しい闘争』について考えてきました」

 ザイも自らの発言が主君を悩ませていることを悔やみはしない。好条件で決戦に赴くには、その道を切り開くしかないのだから。

「いえ、いくら考えても分からないというのが正直なところです。戦いは戦い。奪われないように、また奪われたものを取り返すために必要な……尊い命の弾き合い。そう教わってきました」

「教わった?」

 ザイは訝しむ。常人であれば「本来避けるべきこと」だと付け足すところ、それをしないランゼが案の定だったから。

「はい。私は戦場に出ることを禁じられていましたから、現場の事情も知りません」

「憶測で物を言わないのは好感が持てるが、結局は無知だ」

「どうやら私は頭が良くないらしいのです。真面目に勉強するようになったのも最近。戦争をやる意味、その価値、いかに『避けられないこと』かも最近教わりました。ほら、外の彼に」

 ランゼが扉を振り返ると、盗み聞きしている教育係が隙間から手を振っているのが見えた。

「名もなき島国だったここは、私たちが現れるまで戦争そのものが空想の出来事だったのです。滅んだ私たちの国での戦争、コヨーク兄様の死を皮切りに勃発したカームズ側による一方的なランページ人殺し、始まった人類対ランページの獣による生存競争。……どれもこれも私たちが原因で起きた悲劇です。私たちが来なければ無駄な血は流れなかった」

 ランゼが自身の重責を吐露するのはこれが初めてで、耳を傾けていたシャンナも苦しくなる。

 架け橋の姫君・ランゼに責任などない。他の為政者が全員退場してしまったことで重荷を請け負うことになっただけの、哀れな人柱なのだ。

 彼女の味方でいられる王城の大人たちは、どうにか無辜の少女を解放できないものかと密かに計画されている。

 解放の術などあるはずもない。王城の裏手にある桟橋から船を出してランゼや戦いを望まない者たちを逃がす手段もあるが、それでは六年前と同じになる。良い判断かもしれないが、失敗の経験から誰もそれを決行できずにいた。

 ランページ国に報復する。あるいはこちらが滅ぶ。

 いずれかしかないと誰もが思い込んでいて、一先ずの指導者たるランゼもこの通り、政治を学ぶ気など無く戦意だけ。復讐心を育む騎士団の一部も、既に彼女の号令を待機している状態にある。

「私たちが共存を許されていた頃、戦争を知らないこの国の民たちを私は見くびっていました。だというのに、いざ両国が衝突すればこの通り。私たちの側は少数の反逆者と非戦の民、それに私たちを残して全員殺されてしまいましたね」

「しかし、今や形成は逆転している。獣はもうカームズ領内には来ないようだが、戦力差は歴然。この国の残る戦力を総動員しても塔の破壊は不可能だろうな」

「ええ。ですから貴方達の力を貸してほしいのです」

 この場にオルダルがいたら正論で言い負かされていただろうと思うランゼだが、ザイもこれには呆れた。

「カームズ国側につき、ランページ国の残存戦力を排除するために戦えと?」

「同胞を斬るのは騎士道に反しますか?」

「非常時であれば仕方ない。そして、それは今こそ必要な決断でもある。何よりかつてのランページ国王家よりいただいた信条を第一とするのであれば正しい行いと言える」

 ランゼは気付く。彼はまだここを出るつもりがないようだが、闘志は今も闘技場を超え、聖戦の舞台を見据えていると。

「ザイ、貴方にとっての『正しい闘争』とは、恩に報いることですね?」

 ランゼは確信に至り早く喋ってしまう。悩んだ問題の答え合わせが済みそうで爽快な気分だからだ。

「然り」と頷くザイは同時に、指針を他者に丸投げするランゼの、穴だらけの心情を看破してみせた。

「だが、これは俺の、ここに残る最後のランページ騎士団の忠義だ。あんたが今から『これまで自分を匿ってくれたカームズ国に借りを返すため戦うのだ』などと抜かしても、それは便乗に過ぎん。あんたの意志ではない」

 ランゼは口角を引き上げたまま固まった。こういう調子乗りな部分こそが『浅さ』を如実に表す。

「『正しい闘争』の意味は分からなかったと言っていたな?それでは話にならない」

「恩返しをしたい気持ちは本物です」

「それはあんたの主軸となっているか?」

「えっと……」

 狂っているという噂はあれど、血も涙もない悪魔ではない。それならとっくに自分たちを処刑しているか、より残忍な娯楽に利用しているはずだから。

 頬杖をついて悩むランゼはそれが降参の合図だと自覚せず、言われていることの意味を考え始める。交渉は交渉とならず決裂したのだ。

「ここまでだな。今日はもう帰ってくれ」

「まっ、待ってください!」

「少女よ、気に病むな。俺だってもう一つの理由を明かしていない。このままでは明かすことなく亡国を増やす結果になるかもしれんがな」

 ザイは目の前の少女ではなく外の保護者を……いや、より遠く、自らの充足を満たせる理想郷を夢見て目を細める。

 その憧憬を慌てふためく少女が遮る。

「その理由って何です?」

「答える時期じゃない」

「私には難しい問題を与えてそれですか!?」

「『正しい闘争』のことか。それはもう忘れてくれ。お嬢さんの頭では理解し得ない難題だったな。すまん」

「くっ……」

 ランゼは酔っ払いみたく密室で踊るように逡巡し、前後から同情の眼差しを受けていることに気付くとより恥辱の想いに駆られた。

「いや、本当に俺のミスなんだ」

「はっきり言ってくださいよ」

「人が大勢死ぬのに正しさなどあるはずもない。あるいは未来のためだ……と。大方はそのように考えるだろう」

「未来」

「しかし、あんたは幼稚で適当な発想に加えて『分からない』ときた。これはむしろ珍しい。ずっと考えてきてそれとは、まるで脳味噌が機能していない」

「オルダルみたいで嫌な感じ……」

 憧れの男が、いざ面と向かって話してみると嫌な男を呼び起こす。伝説の正体がこれでは、ランゼにとって落胆と不満が積もるのみで……。

「正義の意味について考える時間などもう無いかもしれませんのに」

「あんたが直々にここを訪れるくらいの余裕はあると分かった。辛うじて平和ということもな」

「もういいです。一生ここで暮らしなさい」

「すまんな。あんたは戦いと無縁の生涯を――」

「もういいです」

 謝る彼がどのような表情だったのかも見逃して、ランゼは独房の扉に触れる。

 そこでザイが声を大にした。重低音が響き、地下独房の厚い壁を振動させる。

「クロス殿、彼女はやはりそういう存在のようだ」

 話し掛けた相手はクロスだった。しかも自分が間に挟まるこのタイミングで、自分のことを侮辱するような言い回し。心底腹が立った。ザイが付け足した「俺たちは別に正しくない。ただ、見失わない方が格好良いと信じているだけだ」という言葉も受け止められなかった。

 ランゼは早足で地下を去ろうとするも、鍵を閉め忘れたことでクロスに呼び止められる。ジャラジャラ鳴る鍵の束を投げて渡した。



 シャンナは慌ててランゼを追い、クロスはその場に残っていた。

 それぞれ違う立場でランゼを見定める男たちが別れる前に確認を取る。

「クロス殿、申し訳ない」

「いいえ。しかし、貴方でも無理となれば、もう無理なのでしょうな。ランゼ様とは本当にあのまま、そういう存在なのかもしれません」

「他に姫の本質を見出せる者がいるやもしれんが……時間はあまりないのでしょう?」

「はい。獣の数が日に日に増している。攻められれば一巻の終わり。ですから、いざとなれば彼女自身が望むよう強引に」

「それは俺として……いや、私としては不服に思うのが正直なところです。たとえランゼ様の本性が時折垣間見る無情さそのものだとしても……」

「報いるために槍を穿つ。そんな取って付けたような志では駄目でしょうか?」

「恩返しが全てではないのは私も同じですがね。貴殿はどうか?クロス殿。貴殿はランゼ様の本性がそれだと知り、それでも忠義を果たせるか?」

「私は従いますよ。退屈から救っていただいた身の上なのでね」

「フッ、やはり恩なのだな」

 陰鬱な蓑にて、久々にザイは痛快な気分を味わった。

 大袈裟な足音を立てて去る主君の背中を同時に見つめ、クロスは「オルダル殿にも伝えておきます」と残して独房に鍵を掛けた。

 また独り。ザイは「槍を選んだのか」と呟き沈黙に帰った。

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