この世界は現実で、ファンタジーなんてなくて、ただ、そこには何かがあった。

「これらの物語は、お客様から直接聞いたにございます。もちろん、その真偽のほどを確かめることは出来ませんが……」


 目の前のバーテンダーは、そう言いながら笑みを浮かべる。


「さて、今まで語らせていただいた物語の主人公には、何かがありました。奇跡、空想、劣等……お客様には、何があるのでしょうか?」


 さて……困ったな、どうしたものか。


 僕がいるのは物語バー『ノンフィクション』

 バーテンダーが客から集めた話を語ってくれるという、風変わりなバーである。


 集めた話を聞かせてくれる時点で変わっているが、それだけではない。

 このバーでは酒代とは別に、物語代というものを支払わなければならないのだ。


 物語代といっても、お金を支払うわけではない。

 自分で実際に経験したノンフィクションの物語をひとつだけ、提供すればいいのである。


 さて、このバーで語られる物語は店名の通り全てがノンフィクション。

 事実は小説より奇なり、などと言うが、そんな物語のような人生を送っている人間がいることに、驚きしかない。


 そして僕は平凡な人間。

 流されるままに生きてきた、そんな人間だ。

 物語代として支払えるエピソードなど、1つもないのである。


 ある少女が奇跡で命を繋いだように、ある青年が空想を追いかけ続けたように、ある少年が勝利を求め続けたように、僕にも何かがあればいいのにと切に願った。


 何かがある、というのも変な話だ。


 奇跡で命を繋いだ少女には、奇跡しかなかったのだろうか?

 否、そこには苦難や喜びがあったはずである。


 空想を追いかけ続けた青年には、空想しかなかったのだろうか?

 否、そこには努力や希望があったはずである。


 劣等に苛まれた少年は、劣等しか感じなかったのだろうか?

 否、そこには怒りや誇りがあったはずである。


「……そろそろ物語代をいただきたく存じます」


 グラスを拭いていたバーテンダーがこちらに目を向け、圧のある声で僕に話しかける。


「そうですね……では、僕が生まれてからこれまで、ただそれだけの話をさせていただきましょう」


 この世界は現実で、ファンタジーなんてなくて、ただ、そこには人生があった。

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この世界は現実で、ファンタジーなんてなくて、ただ、そこには〇〇があった。 文字を打つ軟体動物 @Nantaianimal5170

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