Into the VOID

 無数の声が聞こえる。

 無数の声が……。


 嘲弄する女が告げる。『アルファ型機関式高性能人工脳髄スチーム・ヘッド試作二号機モナルキア、メイン人格記録媒体プシュケ・メディアをリーンズィへと移行します。同期中。自己連続性の確立を確認。エージェント・アルファⅡを構成する全人格記録媒体プシュケ・メディアの正常稼働を確認。人格連鎖再生の検証を開始。……不確定因子<リーンズィ>の確立に成功。共鳴統御におけるエラー発生率が規定値を上回っていることを確認。連鎖崩壊式疑似人格演算、安定しています。おはようございます、リーンズィ。最も新しいアルファⅡモナルキア』


 挨拶を返す程度の余裕も無かった。

 留保されることの無い、真なるアルファⅡモナルキアの権限を獲得したリーンズィは、全能に浸るでも無く、ただただ困惑していた。


 コロネーション・プロトコルは、『アルファⅡモナルキア』を実行する不死病筐体と人格記録を変更するための手続きである。

 推奨環境においては、このプロトコルに然程の意味は無い。汎用性を重視されたスチーム・ヘッドにとって、肉体ボディの換装はしばしば起こり得ることだ。

 変異の限界で、あるいはさらなる性能向上のために、スチーム・ヘッドは肉体を乗り換えていく。

 アルファⅡモナルキアが特異なのは、想定される肉体換装の回数であり、そして換装の対象に自己連続性を規定する人格記録すら含んでいる点である。

 通常、スチーム・ヘッドの肉体変更は五回程度で終わるが、これは人格記録媒体の耐久性の限界と直結している。おおよそ五回ほどの『乗り換え』でおおよその人格は行き止まりにぶつかるのだ。

 しかしアルファⅡモナルキアは、その本質的な任務を完遂するまでの果てしない過程において、肉体の換装に関して言えば、実に数千ものオーダーで発生すると想定されていた。

 異常な数字であり、かつ、不確かな想定である。開発に携わったものは、アルファⅡがどのように終わるべきなのかは理解していたが、任務を終了する地点については、統一的な結論を出せていなかった。

 旅は想像を絶して長いだろう。

 ところが、起動した瞬間に終わるという可能性さえある。

 それ故に、数千のオーダーという想定は、過大かも知れないし、過小かも知れない。


 ……何より重要なのは、アルファⅡモナルキアの筐体となった不死病患者は、ある側面において究極的に変質してしまうということだ。

 不死病患者は、永久の安寧、精神活動の消滅した箱庭で、世界が終わるまでを過ごすものだが、アルファⅡモナルキアに選ばれた者は、不可逆的な形でその権利を失う。その性質については、誰しもが常に肯定した。一つの異論も唱えられることはなかった。涜神の領域はとうに通過していた。


 無数の声が聞こえる。

 無数の言葉が……。

 不滅の肉体は、あるいは不滅そのものの本性は、疑いようも無い実体として、彼らの手に成った。見ることも触ることも可能になった。精神の転写、複製も、ある特異な言語を研究する過程で完成を迎えた。

 しかしその先の領域を見通せない。炎上する不定形の影によって預言されていたとおり、ついに、望む存在は作り出せなかった。

 魂のような何かを、彼らは遙か遠い時に目撃していたが、ではそれは本当に魂だったのか? どのように扱えば良いのか?

 仮に人に魂があるとして、では人間を素体として作成されるスチーム・ヘッドに魂はあるのか?

 魂しか無いものは、人間なのか?

 神と人とのあわいが霧の如く曖昧だった時代、魂と命に差異は無かった。それは現在もそうだ。理解を超越した存在であるプシュケそのものと、意志のもたらす呼吸プシュケに、明確な差異などあるのか? 

 どうすればそこに至れる?

 検証という段階にすら至らなかった。当然、回答も無い。

 彼らは理解し得ぬものを、やはり理解を超えたものとして看過した。


 無数の声が聞こえる。無数の声が……。

 本質を掴めなくとも、地に落ちた影を扱うことは出来る。

 魂それ事態が扱えなくとも、魂の影たる肉体とその混沌は再現出来る。

 アルファⅡモナルキアにとって重要なのは、である。その設計思想からは、逆に究極的な到達目標が除外されていた。決戦兵器としての機能さえ十全に果たせば良い。不滅にして不朽の冠が暗示する力、棺のような重外燃機関によって象られた忌むべき未来――それ自体の具現であれば良い。

 例としては相応しくないにせよ、裁き主をあらしめるのは茨の冠と聖痕、そして権能であり、真か偽かは、余人の目には計り知れない。

 それが誰であるかは、相応しいと定められた後に認められる。

 アルファⅡモナルキアにしても同じだ。それを、それとしてあらしめるのは、不滅の蒸気甲冑と重外燃機関である。

 それが誰であるかは、結末を迎えた後に定められれば足る。


 歴代の戴冠者は消滅しない。全ては継承され、昇華され、ポイント・オメガで変性する。

 戴冠とは、即ち最後に在って在る者となる権利を、ただ、受け継ぐことに他ならない。

 自ら存在に至る者へと成ることを、承服した。その黙契の証に他ならない……。


 無数の声が聞こえる。無数の言葉が――世界は盲目なのだ! あるいは、世界は、我々に興味が無いのだ。区別などまともにつけてはいない! やがて終端を招く災厄。その可能性世界を保持し、自分自身をしてアルファⅡモナルキアであることを示すことが出来るならば……ポイント・オメガへ至る存在であるならば、世界はその存在の外形的な差異を検出しない!

 偶然性を信奉する世界はその実、那由多の彼方までを必然という名の理不尽によって支配されている。言わば微睡む白痴の闇であり、しかし人間だけは、しかと目を開いている……!


「だから?」


 少女は、まだ産まれて間もない少女は……。

 血の繋がらない母に、産まれるよりもずっと早くにリーンズィと名付けられたその少女は、息が出来ない。

 血の繋がらない父がかつて聞いた、無数の声が聞こえる。

 無数の言葉が……。

 しかし理解出来ないのだ。


「だから、何だというのだ? ……何だというの?」


 頭痛が酷い。

 少女は狭苦しい、出口の無い牢獄、アルファⅡモナルキアという蒸気甲冑の内側で、苦悶に喘ぐ。

 瞬きの間の出来事だった。

 フルフェイスヘルメットのバイザーを通して見える世界は奇妙に歪んでいて、静止しており、一切変化していない。


 聞こえてきた無数の声。おそらくリーンズィという擬似人格が、アルファⅡモナルキアへと再編される際に発生した、譫妄の類だ。

 ユイシスが傍に寄り添っているような感覚はあるが、肉の感触さえ危うい。

 何もかも確かでない。

 それだから、頭痛が生体脳の過負荷に由来するものか、ヴァローナの造花の人工脳髄が押し込まれる痛みなのか、アジャスト機能によって頭部に固定器具がねじ込まれているからなのか、判然としない。

 幻影が視界を横切る。

 見たことも無い貌だ。「……頭蓋骨にねじ込んだわけじゃあないよな……」……そんなことを呟いている……リーンズィには聞き覚えがある。

 以前、エージェント・アルファⅡが廃村で出遭ったエージェント、シィーだ。

 ケットシーとはあまり似ていない。ヒナは母親に似たのだろうか?


 そして疑問に感じる。

 頭に浮かんだシィーの顔貌は、リーンズィが知るそれとは全く異なるものだったからだ。

 彼は明らかに東洋人で、装備も似ても似つかない。何もかも寒村に打ち捨てられていた筐体と重ならない。

 リーンズィの、彼についての知識は限定的だ。ミラーズと体を相乗りして、彼女と同じ顔をしていた時期のエージェント・シィーしか知らない。シィーから収集したデータ類を検証すれば自ずと分かる事実もあるだろうが、アルファⅡモナルキアによる存在再編の衝撃からか、リーンズィはデータベースの扱いを見失っていた。

 論理的には、その男がシィーなのかは、まだ断言できないはずだった。

 だが、これがシィーなのだと直観で分かる。

 見も知らぬ男は囁く。「あんた本当にろくでもないやつに捕まってしまったぜ。アルファⅡは人間が人間として滅びることを否定する機械だ……」


「これは記憶の再現では無く、アルファⅡモナルキアの言葉なのか……?」


 視界の片隅に、高速情報処理に奔走しているユイシスの言葉が表示される。


『肯定します。アルファⅡモナルキア本体が乱数に従って出力する情報に、一定の規則性を持たせているにすぎません』


「君の言っていることが全然分からない……」


 呻いている間に、また知らぬ顔が現れて、耳打ちをして行く。

 何もかもが目まぐるしく、無秩序に展開していく……。


 リーンズィは、自分自身が真のアルファⅡモナルキアとなれば、膨大な情報が脳裏に流れ込んで、そして真の力とか……なんかそういうのに目覚めるのだろうと予期していた。

 しかし実態は期待外れだった。


 機能がアンロックされたのは事実だ。

 現にアポカリプスモード、その第一段階も使用出来た。

 だというのに、

 目次の無い台帳を渡されて、勝手にページをめくられているに等しい状況だ。

 しきりに視界が明滅し、誰かが囁いている光景が瞬く……。



 暗い部屋で誰かが丸椅子に腰掛けている。女だ。誰かは分からない。彼女はこう言っている。私から伝えられる情報は、そうね、WHOだった組織の事務局の安否を確認すれば良いと言うこと。たぶん私たちのためのマイルストーンになると思う。辿り着けるかどうかは問題では無いの。確認をしに向かうという意志を忘れないで。探して、辿り着くの。意味を問うてはいけない。重要なのはそこに向かおうという思惟の力なのよ。

 暗い部屋で、誰かが丸椅子に腰掛けている。男だ。もはや極点に達した。全ての争いは無益となった。それらは停止されるべきだ。悪性変異体ばかりが増えては本末転倒だ。お前は全ての争いを止めるのだ。人類文明の終局を求めよ。


 無数の声、無数の眼差し、無数の言葉が反響する! 

 彼らは口々に叫ぶ。

 探せ! 止めろ! 辿り着け!

 探せ! 止めろ! 辿り着け!

 探せ! 止めろ! 辿り着け……!


「ポイント・オメガへ到達せよ」ポイント・オメガとは何だ?「ポイント・オメガに到達せよ!」


 エージェント・アルファⅡとなったリーンズィは、今再び、その任務を信じる。それこそが己の生まれた来た意味だというならば。

 可能だとは、やはり思えない。

 クヌーズオーエを見よ。世界は無秩序に組み替えられ、同じ名前、同じ形態、それでいて全く違う歴史を持つ街が、どこまでも接ぎ木されて、回廊を形成している……。

 だがリーンズィは、不可能だと断じつつも、まだ諦めてはいない。

 何故なら、彼女の人生には、愛しい希望がある。

 ミラーズと一緒なら、レアせんぱいと一緒なら、不可能な道筋も、いつかは終わらせられると信じた。

 解放軍の面々も好意的に接してくれている。

 可能性は完全には潰えていない。そう強く信じることが出来た。

 あるいは、無力だった。

 信じることしか、リーンズィには出来ない。


『何故心に疑いを持つのか』誰かが囁く。『お前には無数の前途があると言うのに……』


 ただ信じろ、とその七つの目を持つ炎上する影は告げた。


 そこで無数の声たちは霧散し、耳を元を飛ぶ羽虫のようなノイズが、微かに意識に残った。


 リーンズィが了解したのは、つまりその程度のことだった。

 いずれも模糊とした論理と来歴であり、存在証明に至るような大層な前提の共有でも無い。

 何も分からなかったと言っても良いだろう。

 二連二対のレンズを備えたそのフルフェイスヘルメットを装備した瞬間に、確かにリーンズィは己自身に備えられた機能の全てを見た。

 それと同時に、正確な認識に失敗したのだ。



 時間感覚が正常領域に復帰する。

 そうあれかしと創造された悪性変異体、ディオニュシウスは、己の片腕を千切り取って生成した大剣を片手に、どことなく俯いた姿勢で、塔の前に立っている。


「……ユイシス、私は何になった?」


 息苦しくて、フルフェイスヘルメットの固定螺旋を後退させ、面を外す。

 ぷは、と甘やかな息を吐いて肺腑の酸素を入れ替える。

 アポカリプスモード・レベル1の使用法は掴んだが、自分が何を生み出したのか、リーンズィにはまだ分かっていなかった。


「お疲れ様、リーンズィ。良く頑張りましたね」


 頬にミラーズの口づけを受け入れながら、少女はエージェント・ヴォイドの成れの果ての姿を、首のない異形の騎士を見据えた。

 塔の不滅者、ヴェストヴェストが蠕動する。

 今回は単純な増殖では無いと一目で分かった。塔のあちらこちらから触手の如く枝が伸びており、接近して増殖を妨げる悉くを打ち砕く算段と知れた。


 楯となりし首無し騎士ディオニュシウス、さらにはリーンズィたち自身も、ただでは済むまい。

 回避も防御も出来ないな、とリーンズィはミラーズを抱きしめる。

 ミラーズは薄く微笑んで、「ハレルヤハ」と詠う。


「リーンズィは騎士様を見たことが無いのね?」


 轟音が最高潮に達した。

 進路所の全てを粉砕せんとして、中央部から新たな塔が送出され、最前線へと移送される。

 そして塔は音速の数倍の速度でもってリーンズィたちを打ち砕く――。

 まず最初にディオニュシウスが砕け散った。

 不朽結晶と変異体で編まれた筐体は呆気なく破壊され、頭部からウィル・オー・ウィスプの青い光が無秩序に散乱する。

 やがて蒼い炎は爆発的に燃え広がり、リーンズィたちをも飲み込んで……。


 ――塔が切断された。

 リーンズィは目を瞬かせる。

 何が起きたというのか。

 ディオニュシウスが塔の背後に回り込み、儚い少女ら二人が打ち砕かれる前に、その巨大な塔を須臾の時間で切断・破壊していた。

 細切れにされて加速力を簒奪された塔はあらぬ方向へと飛び散り、アルファⅡモナルキアを害することもなく消えた。


 一命を取り留めた。

 それなのに、舞い降りたのは困惑と、闇夜を彷徨うものに特有の、青ざめた感情だけだ。


「う、ん……?」

 リーンズィはヘルメットとミラーズを抱えたまま、目を瞬かせた。

「ディオニュシウスは……砕かれたはずなのに……」


 押し合いに負けて、粉砕された。

 だというのに、当然、そうなってはいない。

 首無し騎士のディオニュシウスは無事な状態で自身の使命を果たしているのだから、砕け散ったという過去が論理的にあるのはおかしい。

 だが、あるべき現実と異なる点が、一つだけある。

 それは致命的な程の違和。

 無貌にして隻腕の騎士、ディオニュシウス。

 リーンズィがアポカリプスモードで作成したその変異体は、一歩も動いていないのだ。


 塔を滅多斬りにしたのは、先ほど作成したディオニュシウスではない。

 それは突如として塔の背後に現れていた。

 確かにディオニュシウスとしか表現が出来ない変異体ではあるが、明白な矛盾がある。ディオニュシウスはここに、リーンズィたちの目の前に、作成された瞬間と寸分違わぬまま、対応するでも二人を守る特別な行動を見せるでも無く、当たり前のように存在しているのだ。不滅者たちのように自己を復元したのだろうか……?

 いずれにせよ、この時間軸に、どうしてか、ディオニュシウスが二体いることになる。

 唖然としているうちに、リーンズィが生み出したディオニュシウスは自身の頭部を構成する蒼い空白、燃え上がる暗黒の白で、周囲を見渡した。

 声では無い声で『私の……花嫁……どこだ』と呟いた。

 そうして、不意に青い光をまき散らすと、それから……。

 虚空へ、ふと、消え去ってしまった。


 跡形も、足跡も無い。

 ただ、消え去った。

 ユイシスの受信機にはヴォイドの信号が届かなくなった。

 残されたのは後から現れて塔を薙ぎ払った無貌の巨人、もう一体のディオニュシウスだけだ。こちらからもヴォイドの首輪型人工脳髄と同じシリアル№が発信されているのだが、そんなことがあろうはずもない。

 しかし、もしもそうだとするなら、ヴォイドは、確かに入れ替わってしまったのだ。

 どこの誰か分からない、自分と同じ何かと。


 塔はいよいよ本格的な対処を行うと決めたらしいが、次の増殖と同時に、またも新たな塔の背後に全く違うディオニュシウスが出現した。

 蒼い残光を涙のように引きながら、首の無い騎士はあっさりと不滅者ヴェストヴェストを斬り倒した。

 ただし、先ほどリーンズィたちの窮地を救った個体では無い。


 今回の増殖では、九本の塔が害意を振りまこうとしていた。

 今度こそ絶命の光景が事実の情報としてリーンズィの脳随に書き込まれる。

 だがそれすらも全て打ち砕かれた。

 九本の塔の背後に出現したによって、全て破壊されてしまった。


 それらは、先ほどリーンズィたちの窮地を最初に救ったディオニュシウスとも異なる。

 瞬間的に、何も無い空間が揺らめき……彼らはバラバラに出現した。

 そうして先ほどの最初のディオニュシウスと入れ替わって現れたディオニュシウスは、呆然とその光景を見送った後、やはりまた何処へ消えていった。

 どこに向かったのかは、リーンズィには分からない。


 因果律が崩壊していた。

 人形のような顔立ちのケットシーまで目を白黒させているのだから、事態は掃討に異常なはずだった。


「この現象は一体……?」


 金色の髪をした、偽の天使がリーンズィの前に舞い降りた。


『ディオニュシウスは、単一にして無限に連なる変異体です』


 無貌戦士群ディオニュシウス。

 それこそが、ヴォイドの最終到達点の正体である。



 お前はそぞろ歩く。

 花嫁の影を追う。

 1995年の夏の日。お前は路地裏で目覚める。あの少女の姿が見える! 背後から、彼女に掴みかかった暴漢の首を刎ねる。武装し、組織化された怨敵の首を、片端から刎ねる。少女は柔らかな印象の頬に恐怖の色を滲ませて、へたりこみ、失禁し気を失う。お前は存在しない顔で覗き込む。これはお前の花嫁ではない。

 お前は次の可能性世界へ向かう。

 1999年の春の日。お前はある屋敷のベッドの上で少女を見つける。あの少女の姿が見える! 彼女は酩酊して、投薬され、自由を失っている。お前は彼女を縛ろうとする悪漢の心臓を刺し貫く。そして記憶より幾分か美しく成長した彼女を睥睨する。お前は存在しない顔で覗き込む。これはお前の花嫁ではない。

 お前は次の可能性世界へ向かう。

 2000年の夜の日。クレーン車が操作を誤り建設資材を少女の上に落そうとする。あの少女の姿が見える! お前はそうなる前に運転手を殺害した。驚愕のうちに空を仰ぐ乙女をお前は存在しない顔で覗き込む。これはお前の花嫁ではない。

 お前は次の可能性世界へ向かう。

 1997年の冬の日。お前は鉈を持つ集団が少女を殺害しようとしているのを発見する。あの少女の姿が見える! 全ての首を刎ね、少女と向き合う。少女は声でむせび泣く。どうか私を、ここから連れ出してください。お前は存在しない顔で覗き込む。だが彼女もまた、お前の花嫁ではない、お前がかつて求めた花嫁では……。

 お前は次の可能性世界へ向かう……。

 出会えるはずも無い。

 何故ならば、お前の花嫁は、お前が見捨てて、すっかり変わり果てているからだ。

 それならば、いったいどうして、真なる花嫁と出会える?

 どこにもいるはずがないではないか。

 ヴォイド本物の虚無だ。いくら可能性世界を渡ってもお前は決して彼女に到達しない。

 お前は彼女を見捨てた。

 だからこそ、お前が目覚めた。


 それを夢うつつのうちに忘れ果て、無貌の騎士は歩く。

 騎士の骸は、花嫁を探している。お前はそぞろ歩く。お前は存在しない顔で覗き込む。これはお前の花嫁ではない。無限に繰り返す。永久に救い得ない、お前の花嫁を救うために。

 固着した妄念に突き動かされるがままに、世界を渡り続ける……。

 この永劫の虚無に、その姿を探し続ける。


 この時、この都市、この廃屋の群れで、少女が増殖する塔に押し潰されそうになる。

 お前は剣を振るう。

 花嫁か否かさえ、あるいは、お前にはどうでもいい。

 存在しない可能性を掴むために、ただ形骸の騎士は、無限の都市、無限の時間、無限の可能性、無限の空漠、無限の悲嘆、無限の悲劇、無限の死について検証を繰り返す。

 報われることなどないと知りながら、虚無を行く。

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