いつかの私に贈ることば。

夕白颯汰

私を信じられるのは……私なんだね。

 へとへとに疲れた私は、黒いドアをゆっくりと開けた。

 真っ暗だった私の部屋に、光が入り込む。そこには本や服が無秩序に積まれていて、悲しくなるほどに汚い。

 それらを踏まないように注意しながらベッドに向かい、学校指定のカバンは投げ捨てて、制服から着替えずに倒れ込む。


「っうあぁ…………」


 ベッドの優しい弾力に肢体を包まれ、どこから出しているのかわからない声が漏れる。

 体の節々が悲鳴を上げていたが、うつ伏せになると痛みも霧散した。

 重力から解放された私は、すぐに瞳を閉じて船を漕ぎ始めた。


 もう、動きたくない。ずっと、ずっとこのままで……。


 胸の中で呟くと、私の意識は霞んで、深いまどろみの中へと飲まれていった。




 どれくらい寝ていただろう。


 不意に目が覚めた。


 白い電気の光が私の目を刺す。

 ごしごしと目をこすってから起き上がる。

 体にまとわりつくだるさはまだ残っているが、頭から爪先までほとんど回復した。

 頭を振って、二度寝という甘美な誘惑に抗う。


 ……やらなきゃいけないことがある。休んでる場合じゃない。


 そう自分に言い聞かせて、ベッドから下りて椅子を引いた。

 ギシッと軋み、預けた背中が押し返される。

 ベッドとはまるで違う、無機質な感触だった。


 制服のポケットからメモを取り出し開く。

 付箋が貼られているページには、シャーペンでいくつもの課題が記されていた。


『理科、レポート課題、期日は来週末』

『英語、教科書132P』

『数学、参考書を確認』

『大会のメンバー決め』

『新しいノートを買うこと』

『塾の課題、未了分に手をつける』


 あまりの多さに私は机に突っ伏して、はぁぁぁーーと長い溜息をついた。


 なんでこんなにたくさん……学校だけじゃなくて塾も。いつになったら休めるのかな……。


 心も体も、深い闇の中へと沈みゆく。

 毎日毎日、同じことの繰り返しだ。

 朝早く起きて、自分で弁当を作って、一時間歩いて学校に着く。退屈な授業を六時間うけて、友達としょうもない会話をして。

 放課後には部長として後輩の指導をし、最後の一人が校門を出るのを見届けてから片付けをする。

 痛む足でようやく家についた頃には、すでに八時を回っている。

 すぐにでもベッドに飛び込みたいのを必死に抑えて、誰もいなくなった食卓で夜ご飯を食べ、皿を洗い、風呂に入る。

 そうやって寝支度が整った後も、私にはやることがある。

 明日提出の課題を急いで終わらせ、授業の復習をこなして、徹夜で机に向き合う。

 何時まで続けていたのかはいつもわからないが、気づいたら布団の上に倒れ込んで朝を迎えている。

 六時になれば一階に降りて、顔を洗ったらすぐに、冷蔵庫から昨日の残り物と冷凍食品を見つけ出し、自分と妹の朝食、そして学校に持っていく弁当をつくる。

 まだ寝ている妹を起こして朝食を食べさせ、皿洗いが終わればすぐに家を出る。

 一秒も休んでいないのに、学校に着くのはいつも始業時刻ギリギリだ。

 そこから先は、月火水木金、どれもほとんど同じ。

 土日も部活と塾で時間を奪われ、もはや休日ではなくなっている。

 スマホを開けるのは毎日の帰り道のみだ。


 メール上で弾む会話に加わろうと、おすすめの動画を見ようと、人気の音楽を聞こうと、気分は晴れない。私の心には暗い雲が立ち込めたまま消えない……。

 

 ふと、埋めていた顔をゆっくりと上げる。首を回して、なんとなく部屋を見渡す。

 木製のベッド、茶色のカーペット、長いこと開けていないクローゼット、小さな本棚、壁にかかった制服とカバン。あるのはそれだけだ。

 洒落っ気も可愛さもない、生活感の欠如した部屋。その空気を色で表すとすれば、白……いや、灰色だ。

 

 今はもう何もない、部屋の隅を見つめる。

 そこには昔、父からもらったギターが置いてあった。

 幼い頃の私は父が趣味で弾くギターに憧れて、使わなくなったやつを譲ってもらい、何度も練習していた。

 父と並んで座って、そうじゃない、ああそっちじゃなくて、と手取り足取り教えてもらっていた。

 だけど、そんな時間は長くは続かなかった。

 私が中学に入って大人になっていくにつれ、少しずつ父との会話も減り、あのギターも触らなくなった。

 私と父のあいだにあったギターはいま、クローゼットの中のどこかで眠っている。

 

 感傷的な気分になったところを、ぽーん、と時計の音が小さく響いた。

 いつの間にか九時になっている。部屋に帰ってきてベッドで寝てから、もう二時間も経っている。

 ご飯食べてないし、お風呂にも入ってない。カバンから取り出した今日の課題も、白紙のまま。はやくなんとかしなきゃ……。

 陰鬱とした気分で立ち上がり、一階に降りようとしたとき――

 

 視界が黒一色に染まった。


「っとうわっ!」


 すぐに体がふらつく。

 何も見えぬままその場に倒れる。途中、右肩に鈍い痛みを感じた。

 なんとか手をついて、カーペットの上で四つん這いになった、その直後。

 ドサァッッ!


「いいっ……!」


 背中にとてつもない重みが加わり、思わず声を漏らした。

 うつ伏せのまま、まだ霞んでいる目で周りを見ると、本や参考書や紙が大量に散乱していた。

 倒れたときに本棚にぶつかってしまったらしい。本棚が私の上に覆いかぶさっている。

 呆然と固まっていると、徐々に視界が回復してきた。数秒後、ぱたぱちと瞬くともとに戻っていた。

 どうやら私は、立ち眩みを起こしたようだ。体に力が入らなくなって倒れ込み、本棚に潰されてしまったが、幸い腰の高さまでの小さく軽いものだったので、大事には至らずに済んだ。

 寝るまでにやらなければならないことがまだまだあるのに、面倒事を増やしてしまった。

 本棚に収まっていたものは全て外に出て、山のように積み重なりなかには折れてしまっているものもある。

 小さいとはいえども本にしてみれば五、六十冊入るサイズで、一度出してしまっては戻すのに時間がかかる。

 倒れて私に乗っかっていた本棚から脚を抜くと、何冊かの本が下敷きになった。

 押しつぶされるそれらのうち一冊を引っ張って抜き出すと、それは何年も前に父が買ってくれたギターの解説書だった。

 初心者向け、初めてでも簡単、と記されたその表紙は、左下が大きく折れていた。

 それを、つつぅと指で撫でる。


 不意に、涙が零れそうになった。


 それは決して、痛みのせいではなかった。


 私の手はもう、ギターの弾き方など忘れてしまっただろう。

 ひとつひとつ歳を重ねていくなかで、弾く理由を失ってしまっただろう。

 この本を見ると、今はもうない昔の私の姿が脳裏に浮かぶ。

 日々いろいろなことに笑い、泣き、怒り、喜ぶ。ギターを楽しんで弾く、その姿が。


 私はいつから変わってしまったのか。


 いったいいつから、何にも喜びを見いだせず、眼の前に並べられた仕事を淡々とこなすだけの人間になってしまった?


 きっと私には分からない。


 周りにはただ責任と義務があるだけで、気づかせてくれるものは何もないから。


 このままつまらない人生は続いていくだろう。


 やるべきことだけをやって、疲れて寝て、起きてまた動いて、それの繰り返し。

 散乱した本を前に、心が深く沈んでいく。

 人生なんて、そんなものだ。

 やりたいことができるのは一部で、夢を叶えられるのは一握りで、楽しんで生きられるのはごく僅か。

 私の人生が、普通なんだ。

 ほとんどの人が、決まり切った道を逸れることなく進んでいく。私もその一人。

 そうして何も得ぬまま、何も残せぬまま、私はこの人生を――。


 カサッ。


 そのとき、積み上がった本の頂上から、小さな紙が落ちた。


 手に取ってみると、それは真っ白で、桜のシールが貼ってある――便箋だった。


 こんなところに、なんで……誰の……?


 裏返してみるが、差出人の名も宛先も書いていない。

 白い便箋を裏返しては戻してを数回繰り返したが、それが何なのかは分からない。光に透かしてみたら中に黒い影が見えたので、手紙が入っていることは確かだ。

 凝視したまま首を捻る。

 手紙なんてしばらく書いていないし、貰う相手もいない。

 学校で課題として出されたというわけでもない。

 だが私は、何故だろう、出どころがさっぱり分からないその便箋に見覚えがある気がした。


 もしかしたら、何年も前に貰ったのを放っておいちゃったのかな……? それとも、私のものじゃないのかな?

 でも、私の部屋にあったんだから、開けても大丈夫だよね……。


 封の切られていない綺麗なままの手紙を開けてしまうのは躊躇われたが、ここにきて再び放置することもできず、結局はそう言い聞かせてそれを開けることにした。


 表のシールを、破かないようにゆっくりとはがす。

 ずっとそのままだったからか、手紙に固くくっついていた。

 便箋の三角部分が少し浮き上がる。それをめくると、中には折りたたまれた白い紙があった。

 これで、開けることができた。

 私は意味もなく一息吸って、吐き、紙を抜き出した。

 便箋の中にあった手紙は、一枚だった。


『はいけい』


 一番上には、平仮名でそう書いてあった。


『こんにちは。わたしは今、学校の受ぎょうでこの手紙を書いています』


 拙い字で、漢字を混ぜながら綴られていた。


『今は七月で、とてもあついです。夏はおまつりやおいしい食べ物があって楽しいけど、あついのはきらいです』


 それは他愛もない、心の声。


『夏休みになったら、わたしは家ぞくとおばあちゃんとおじいちゃんの家に行きます。海があるといっていたので、たくさん泳ぎたいと思います。すいかも食べたいです。

 自由けんきゅうでは、先生は好きなことを調べてねと言っていました。だから、わたしは大すきなギターについてしらべたいです。みんなにギターのおもしろさを知ってもらえたらいいなと思います。

 わたしはさいきん、お父さんにギターを教えてもらっています。お父さんはすごく上手で、わたしにはぜんぜんできないところもかっこよくひいてくれます。休みの日には、わたしにひきかたを教えてくれます。おかげで、さいしょよりずっと上手になりました。これからもギターを練習していきたいです』


 手紙を持つ私の手は、いつの間にか震えていた。


『あなたは今、なにをしていますか。べんきょうをがんばっていますか。ぶかつをがんばっていますか。それとも、好きな男の子にドキドキしていますか?

 わたしには想ぞうすることしかできないけど、まだギターをひいていたらうれしいです』


 目の奥から、温かい何かが押し寄せてきた。


『きっと、中学校に行っても高校に行っても、大学生になっても、おとなになっても、好きなものはかわっていないと思います。だって、わたしはお父さんといっしょにひくギターが大すきだから!

 でも、いつかは、つらいことをけいけんするかもしれません。泣いちゃうくらい、くるしいことにぶつかるかもしれません』


 私はそこで、強く瞬きした。瞳は潤っていた。


『そんなときは、大すきなものを思い出してください』


 その言葉だけ、筆跡が他よりも強く残っていた。


『じぶんをたすけてくれるのは、すきなものだけです。それはお母さんでも、お父さんでも、友だちでも、ギターでも、なんでもだいじょうぶです。ぎゅうっとだきしめてみたら、ぬいぐるみさんがだきしめてくれるみたいに、返じをしてくれます』


 視界がぼやけてきた。

 私はもう少しで、いつからか失っていた何かを再び掴めそうだ。


『わたしがつたえたいのは、たった一つです』


 心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。私の心が、いま、強く強く揺さぶられる。


『だいじにしてください。すきなものを、すきな人を。それに出あえるのは、この先ないかもしれないから。それは、きせきだから』


『こころからすきだと思ったものは、いつまでもとなりでささえてくれるから』


「っあ……」


 声にならない音が漏れる。

 もはや抑えることはできなかった。

 とめどなく溢れていく涙。私はそれを零さぬように、手で目元を拭った。


 ――あぁ、分かったよ。


 私はようやく分かった。


 失ったもの、それはきっと「好き」だ。

 目に映るものに心を踊らせ、言葉を交わした者と共に歩み、この世界を生きていくなかで感じる「好き」。

 責任と義務に追われる日々で、それをどこかに置きっぱなしにして忘れてしまったんだ。


『そろそろこのてがみもおわりです。さいごに、言っておきたいことがあります』


 手紙には続きがあった。

 最後の三行には、幼い字で、されど力強く綴られていた。


『たいへんなことがあると思うけど、がんばりすぎないでね。たまにはしっかり休んでね。みんなを大切にしてね。ギターのれんしゅうをつづけてね。おじいちゃんとおばあちゃんに、いっぱいお話してね。おかあさんにいつもありがとうってつたえてね。お父さんに、じょうずになったギターをきかせてあげてね。いろいろなところに出かけて、いろいろな人となかよくなってね。わらうことをわすれないでね。大きくてりっぱなおとなになってね。やさしい人になってね。長生きしてね』


 最後の言葉は、視界が霞んでいるのにはっきりと私に届いた。

 ――誰かの声を、伴って。


『たのしく生きてね』


 雫が一筋、頬を伝って手紙に落ちた。

 涙は止まらず、次々に落ちては鉛筆の文字を滲ませていく。


 やがて涙は枯れた。私は手紙を折り畳んで便箋に戻す。

 胸の中で立ち込めていた暗い雲は消えた。あたたかな光を微かに、確かに感じる。

 もう一度だけ、手紙を開いた。



 その右下には、「しょうらいのわたしへ」と書かれていた。

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いつかの私に贈ることば。 夕白颯汰 @KutsuzawaSota

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