手の鳴る方へ

六番

手の鳴る方へ

 道を尋ねる相手に私を選ばないでほしい。私のせいで予定通りに目的地へ辿り着けなかったらと考えると、その負い目や責任感に恐怖を覚えてしまうから。

 そもそも私は今、金髪で黒いジャージの上下に黒いキャップとサングラス、更にはヘッドホンをつけていた。自分で言うのも何だが、知り合いでもなければ相当話しかけにくい出で立ちだろう。

 だから、俯きながら歩く私の顔を覗き込んでまで声を掛けてきたその小柄な中年女性は、てっきり自分を知っているのだと思った。

 緩くパーマのかかった濃い栗色のショートヘアに、飾り気のない濃紺のワンピース。年相応に品の良い佇まいで、顔立ちも彫りは浅いが整っている方ではある。しかし、肌は病的に青白くて張りもなく、目元のくまが異様に目立つ。私を見つめる大きな瞳は充血しており、その視線からは縋る気持ちが表出しているかのような滾る熱を感じる。

 初対面だが、自分よりも一回り以上は年上であろう人のこんなにも切に乞う様相を前にしては、無下に拒む気などすぐに失せていった。

「ここに行きたいのですが」

 か細い声でメモの切れ端を提示する女性。走り書きの薄い文字で記されていたのは、ここから徒歩で十分程の距離にある老人ホームの名前だった。具体的な場所は知っているが、大通りからは離れた住宅街の中にあるので口頭での端的な説明が難しく、私の思考はまごついた。

「……そっちの方向にちょうど用事があるので一緒に行きましょう」

 嘘だった。元々は近所のコンビニに行くだけだった。今日は一つも予定がなく、部屋で菓子と惰眠を貪るだけのいつもの休日を過ごすつもりだった。

「助かります」

 その人は小さな声で、しかし、心底嬉しそうに笑みながら熱を帯びた眼差しを向ける。

 ふと、この人のことをもっと知りたいと思った。一体何が彼女をこんな瞳にさせるのか。行き先に答えがあるのだとしたら、それがどんなものなのかを確かめたくなった。

 目的地に向かう道すがら、私は変に思われない程度に詮索を試みた。

「会いたい人がいるんです」

 彼女は朝から電車を乗り継いで一時間以上かけてこの街まで来たが、目当ての老人ホームの正確な場所が思い出せず、昼過ぎの今まで途方に暮れていたらしい。地図はおろか携帯電話も持っておらず、何人かに声を掛けてようやく今の場所まで近付き、そこに私が通りかかったのだった。

「でも、私はそこの職員から出入り禁止を通告されているんです」

 そして、お互いが会いたがっているにも関わらずいつも門前払いされるので、今日は連絡もせずに向かってどうにか忍び込もうと考えているのだという。

 出入り禁止に門前払い、挙げ句に忍び込む。一見すると人畜無害で弱々しい彼女から唐突に飛び出したインパクトの強い言葉。垣間見える心の淀んだ暗影に、私は静かに息を呑んだ。

 そうまでして会いたい人というのは誰なのかと問うと、彼女は少し間を置いてから「母です」と呟いた。親子の面会を第三者が拒絶するなど有り得ないと私は思わず言い放ち、彼女は今にも泣き出しそうな表情で口をつぐんだ。

 何かを誤魔化している気がした。本当は相手が彼女と会いたがっていないか、「母」というのが私の想像している関係のものではないか。それとも、私には考えが及ばないような、より複雑な事情があるのかもしれない。

 いずれにせよ、彼女が切望する願いは今日も果たされないだろうと直感した。住所もろくに調べず、携帯電話も持たず、会いたいという欲望だけを抱きながら彷徨い続ける、その情念に塗れた姿は人ならざる捕食者のような醜悪さすら覚える。

 しかし、そんな彼女を私は忌避できなかった。彼女の欲求と本能を根源としたむせ返るような熱情が、私の思考を煮立てて鈍化させているのだろうか。

 昼下がりの穏やかな時間が流れる住宅街の中、程なくして目の前に件の施設が現れ、私達は同時に足を止めた。小さな駐車場の先、白いモルタルの壁が陽光によって眩いほどに輝いている。

 彼女は私に頭を深く下げてから背を向け、ゆらゆらとした足取りで入口の方へと進み始める。その姿に対して、私の心は無性に粟立ち、反射的に喉が震えだした。

「あの、良かったら一緒に少し休みませんか。……この近くに雰囲気の良い喫茶店があるんです」

 それはまるで決められていたような台詞。意味など持たない、ただ気を引くための合図。

 彼女は即座に足を止めて振り向き、深紅の瞳で私を捉える。警戒して様子を窺うような表情。不意な音に対する原始的な反応だ。

 心地よい静謐な緊張感の中、私は自分が笑っていることに気付く。すると、それに呼応するかのように彼女も微笑み、こちらへとゆっくり近づき始める。

 そう、それでいい。私はここにいる。簡単に捕まる気はないけれど。


 了

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