あの頃、揚げ物と彼女と

@thrice

第1話(終)

 栄養士の彼女はことあるごとに俺の食生活に口を挟んできた。

「あなた、もっと食事には気をつけた方がいいわよ。三十を越えるとてきめんに数字に出るんだから」

「ジャンクフードはほどほどにしないと。脂肪や添加物をいっぱい摂ることになってそのうち体を悪くするわよ」

「ジュースはほどほどにーー」

 といった具合にまるで母親のように俺をたしなめるものだから、俺も冗談まじりに子供のように反抗して、それこそポテトチップスなんか目の前で食べてみせるものだから、彼女は呆れて最後にはそれを許容する、というのがいつものお決まりのパターンだった。

 そんなだらしない私生活の俺を見かねた彼女が、ある日の仕事終わりの夜に俺の家に来て野菜の天ぷらを振る舞ってくれることになった。

「本当は揚げ物だってそんなに体にはよくないんだけど。あなた、どうせいつも野菜なんか摂ってないんでしょ」

 そう言って彼女は台所に立つと手際よく野菜をカットして衣を作ってしまい、油を入れた鍋に火をかけて換気扇をつけた。菜箸で次々と鍋に放り込まれていく野菜は、油の跳ねる小気味良い破裂音を立てながら美しく衣をまとっていった。

「さぁ、どうぞ」

 テーブルに置かれたトレイにはキッチンペーパーが敷かれ、その上に様々な種類の天ぷらがはみ出さんばかりにこんもりと載せられていた。

「言っても、どうせ野菜だろ」

 乗り気のしなかった俺は彼女に促されるままに、しぶしぶブロッコリーの天ぷらを箸に取っておそるおそる口に運んだ。

 率直に言って、旨かった。これには思わず意表を突かれてしまった。生で食べると独特のエグ味とぼそぼそした食感で苦手だったブロッコリーが、ほくほくの芋のような食感になって口の中に広がっていった。それなら、と思った俺は今度は茄子の天ぷらを口に入れてみる。これもいける。茄子の特徴的な匂いが消えて、衣のサクッとした食感と茄子本来のクリーミーな味わいだけが残って俺の味覚を十分満たしてくれた。俺が食べる様子を嬉しそうに眺めていた彼女は「仕方ないから今夜だけよ」と言うとビールを飲むのを許可してくれた。

 ごぼうや他の野菜も美味しかった。後から出してくれた特製の天つゆとの相性も抜群で、つい箸が進みすぎて、結局、彼女の分までたいらげてしまったが、彼女は「もう、しょうがないわね」と言って笑って許してくれた。

 その後二人で洗い物を済ませると、ソファーに並んでDVDを観始めた。『あの頃、ペニーレインと』という二十年以上前の古い映画だ。俺がサラミをつまみながら映画を観ている横で彼女がつぶやいた。

「どうしてペニーは簡単に騙されるのかしら。人気絶頂のロックスターなんて、ファンの女の子なんか本気にするわけないって、ちょっと考えたらわかりそうなものなのに」

 しかし俺が「世の中、お前みたいに合理的にものごとを考えられるような子ばっかりじゃないんだよ、きっと」と言うと、彼女はまだ不服そうに「私だったら絶対に騙されないのに」とぶつぶつ一人でつぶやいていた。

 それから二年ほど付き合った後に彼女と別れることになった。原因は幾つかあったが、一番の理由はお互いの心の成長の遅さだったと思う。俺は自分ではそうじゃないと思い込もうとしていたが、心の底では結婚は恋愛の延長線上のような甘くロマンティックなものだと思っていたし、彼女は彼女で完璧主義者のような部分があって、ルーズな俺の性格を許容することができなかった。最後は喧嘩別れのような形になって残念だったけれど、これでよかったんだ、と当時は思っていた。

 ほどなくして会社の健康診断で、俺は自分の身体の異常を知らされることになる。コレステロールや尿酸の値が軒並み基準値をオーバーしていて、保健師には「このままいくと生活習慣病まっしぐらですよ」とのお墨付きもいただいた。そこで初めて、それまで異常がなかったのは彼女が俺の健康を守ってくれていたからだということを思い知らされた。

 このままではいけない、と一念発起すると、俺は食生活や運動習慣の改善を試みた。元来が凝り性の俺はすぐに料理や筋トレに熱中し、半年後には十キロのダイエットに成功して健康診断での値も正常値に戻っていた。

 そんなある日の休日、暇をもて余して駅前をうろついていると、なんと偶然彼女と再会した。彼女もすぐに俺に気がつくと二人で歩道の真ん中で話し始め、ここじゃなんだから、と近くのカフェに行って少し話をすることになった。

 三年ぶりの彼女は前よりも少しふっくらして見えた。以前はもっとシャープな輪郭をして神経質そうな印象だったのに、今はとても穏やかな表情をしていて、隣の家族連れの子供がぐずる様子を微笑ましそうに見つめている。

「じゃあ、私はチョコレートパフェで」

 彼女はメニューを見るとさほど迷うことなく店員に注文を告げた。付き合っていた頃なら絶対に選ばなかったであろうメニューに面食らっていると、彼女はいたずらっぽく笑う。「ずいぶん変わったと思ってるでしょ」

 お互い様だろ、と俺が言うと、彼女はそうね、と返した。

「あなたは前よりも少しかっこよくなったわ」

 俺はずっと気になっていたことを指摘した。「結婚したのか」

 彼女の左手の指輪を指すと、彼女は指輪を優しくさすって微笑んだ。「ええ。職場の人と。半年前に長男が生まれたわ」

 そのとき、はしゃいでいた隣の子供がテーブルにぶつかるとパフェのチョコレートが跳ねて彼女のスカートの上に落ちた。母親が慌てて「すみません!すみません!」と平謝りするが、彼女は笑ってそれを許した。

「いいんですよ。うちにも小さい子がいますから。順繰りだわ、きっと」

 彼女はおしぼりでスカートを拭き始めたが、幸いスカートは黒だったので染みは目立たずに済みそうだった。

「最近、あなたと付き合っていた頃のことをよく思い出すの」 スカートを拭き終えた彼女は遠くを見つめるような表情で言った。

「あの頃の私はあなたのだらしなさが許せなかった。『どうしてこの人はちゃんとできないんだろう』、『どうしてこの人は先々のことまで考えられないんだろう』、『後で困るのは結局自分なのに』。そんなことばかり考えながら毎日憤っていたわ」

 そう言うと、ふと彼女の表情が真剣味を帯びていく。「けれどある日、誰かと一緒に生きていくならそれだけじゃダメだってことに気がついたの。お互い、いいことも、よくないことも両方受け止めていくことが大事なんじゃないか、ってね」

 そう言うと彼女はチョコレートパフェを一口食べた。

「甘い物もジャンクフードも、たまに食べると美味しいものね。おかげで五キロも太っちゃった」そう言って彼女は笑った。

 その後、三十分ほど取り留めのない話をしてから俺達はカフェを出ることにした。夕飯の支度があるから、と帰ろうとする彼女に、何か言い残したことはないか、と思った俺の脳裏を、ふいにあの日の思い出が横切った。

「あの、俺の部屋で一緒に食べたブロッコリーの天ぷら、覚えてるか」

 驚いた顔をして振り向いた彼女は、やがてゆっくりと笑みを浮かべた。

「もちろん。だってあなたったら、私の分まで食べちゃったんだもの」

 それだけ聞ければ十分だった。俺達は「お互い、元気で」と言い合って別れた。彼女が視界から消えるまで俺は彼女の後ろ姿をずっと見つめ続けていたが、彼女は俺の方を一度も振り返ることなく雑踏の中に姿を消していった。そして、俺もまた歩き出す。

 もうおそらく彼女と会うこともないだろう。きっと二人が別れてから歩んできたこの三年間は、お互いが大人になるために必要な時間だったのだ。彼女は今はきっと、夫のためにブロッコリーの天ぷらを揚げてやって、たまにはビールやおつまみも許してあげるのだろう。

 最近、飲み会続きで食生活が乱れがちだった俺は、少し遠回りしてスーパーでブロッコリーと天ぷら粉を買って帰ることにした。






 

 

 

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