見ざる聞かざる言わざる
あかりんりん
見ざる聞かざる言わざる
「見ざる聞かざる言わざる」
これは孔子の言葉の一つで、
「他人の欠点や短所は、“見ない”“聞かない”“言わない”、これを守っていれば、人と争いはしなくてもすむこと」をいう。
僕はつい他人の事情に首を突っ込む体質のようだ。
あるいは、実は、僕本人が他人の諸事情に首を突っ込むことで、それから起きる事柄(良い結果でも悪い結果でも)を望んでいるのかもしれない。
そもそも誰かにとって良い結果であれば、それは他の人にとっては悪い結果になる事も少なくない。
具体例を出せば、受験の合格や野球や吹奏楽などの部活にて、レギュラーに選ばれたことだろう。
合格または選抜された自分にとっては良いことだが、それは他の人の合格やレギュラーの席を奪ってしまうことにも繋がる。
そう考えると、全員にとって良いことはあるのだろうか。
例えば“地球環境を守ること。”
それは一見良さそうに聞こえるが、過去から地球の環境に合わなくなった種族から絶滅していった。
その代わり、新しい環境でも合う種族達が存命したり、新たな種族が産まれたりしてきたのだ。
すなわち、地球環境を守ることは人間にとって都合の良いことだと思うが、他の種族の誕生を妨げているのかもしれない。
“陰と陽”や“光と影”とは良く言ったもので、宇宙のありとあらゆる物事をさまざまな観点から陰と陽の二つのカテゴリに分類する古代中国の思想である。
前述した例を出すならば、合格した人は“陽”、不合格の人は“陰”である。
ただし、これも一概には言えない。
それはなぜか、これも具体例を出そう。
僕は学生時代に一年間で363日の練習がある、とても厳しい卓球部に所属していた。
僕の同期は5人いたが、上手い人ほど期待され、より厳しい特訓を与えられ、団体戦のメンバーにも選ばれたが、結局、上手い人から部活がイヤになり退部していき、一番下手でやる気の無い僕がキャプテンとなり、もう一人やる気も無くて下手な友達が副キャプテンとなった。
いわゆる昭和の考えのパワハラ顧問の先生には納得いかないことが多々あったため、僕はよく逆らっていたので、その頃にはすでに僕達の練習には興味を無くしていたが。
結果、部活を辞めなかった僕達はやる気も無かったが「3年間の厳しい部活を耐えきった忍耐力をつけることが出来た」や「キャプテンとしての重要な役割を担った」など、就活にはとても役に立つステータスを得ることが出来た。
一方、上手くて期待された人達は「部活を途中で辞めた」とマイナスのレッテルを貼られることとなり、就活に不利となってしまった。
つまり、団体戦のメンバーに選ばれた人が“陰”となり、選ばれなかった僕が“陽“となる結果となったのだ。
そう考えると、その時の環境で、“陰”となったり“陽”となったりと変化するのだろう。
話がかなり脱線してしまったが(これも僕の悪い癖だ。いや、あるいは先ほどの理論だと、これも僕の良い部分となるかもしれないが)、話を元に戻そう。
冒頭に話をした、僕は人の事情につい首を突っ込む体質のようで、友達が恋をしているなら応援するし、仕事で何か頼まれたらなんとか解決に向けて動いている。
その結果、僕が関与しない方が良かったこともあったのかもしれない。
(いや、それはパラレルワールド、すなわち並行世界で僕が関与しなかった世界線を見て、それぞれを比べることができないと分からないが)
なんにせよ、僕はそういう性格であるが、いつからこのような性格になったのか考えてみた。
するとまっさきに浮かぶのは、日本の子どもたちの中で最も有名であろう「アンパンマン」の影響となる。
(あるいは、最近ではピカチュウの方が有名になっているかもしれないが)
アンパンマンはご存じ、ジャムおじさんと命の星から命を与えられて誕生し、困った人を助けたり、お腹の空いた人がいたら自分の顔を差し出して空腹を満たしてくれたりするヒーローである。
ある時、アンパンマンとジャムおじさんとバタコさんで山にピクニックに出かけた際、ジャムおじさんが山の崖から落ちてしまった。
アンパンマンは自らを顧みず、必死でジャムおじさんを助けようとした結果、初めて空を飛ぶことが出来たのだ。
それ以来「誰かの役に立ちたい」と思うようになった。
生物が生きていく限り、食物連鎖(他者を食べたり、他者に食べられたり)は必ず関与するが、アンパンマンは「常に誰かに与える」存在、すなわち、自己犠牲思想の頂点の存在となった。
これは作者である“やなせたかし”さんが、戦後の日本で常に空腹で育ち、漫画家としてはかなり遅めの出世であったため、なおさら空腹に対する気持ちが強かったのだ。
なやせたかしさん曰く、「誰かを倒すヒーローはいても、空腹を満たしてくれるヒーローはいない」ことから、アンパンマンを生み出すきっかけになったそうだ。
そんなアンパンマンがよく使う言葉の一つに「僕はみんなが大好きだよ」と、下心一つなく言う。
これは、アンパンマンにとって敵であるバイキンマンやドキンちゃんですらも、悪いことをしない限りは受容して愛してあげる。
本当の意味で、アンパンマンが出会った全ての人を愛しているのである。
ある映画にて、アンパンマンに助けられた王女が、アンパンマンを好きになり思い切って告白したが、アンパンマンは
「僕も大好きだよ」
といつものように答えてしまう。
これは、前述したように、アンパンマンは「王女だけを“特別”に好き」なのでは無く、「みんなが好き」なのである。
アンパンマンの友達であるちびぞうくんは幼いながらそのことを理解しているが、王女はそれで勘違いしてしまい、あろうことか王女がそのこと(自分だけが特別では無いこと)を理解した時にアンパンマンを恨んでしまい・・・。
ネタバレになってしまうのでこれ以上は書かないが、このようなアンパンマンのような完璧に近い思想(あるいは、僕がそう思っているだけかもしれないが)ですら、“陰と陽”が発生してしまうのだ。
さて、また話がそれてしまったが、僕は前述した通りアンパンマンの「みんな大好き」な思想に憧れているのだろうと思う。
「僕と出会った人全てが幸せになるように」そんな偽善者のような言葉だと感じる人が多いだろうが、本気で思っているから、近所でも噂で親に愛されていない子どもですら、つい話かけて仲良くなってしまい、我が家にあげてしまうのだ。
(あるいは、親に愛されていないのは僕や近所の勝手な噂で、僕はつい首を突っ込んでいるのかもしれないが)
さて、そんな性格の僕が、やはり「見ざる聞かざる言わざる」に再び出会うことが出来たことを、僕は周りの友達や会社の人たちに感謝している。
有名である栃木県の日光東照宮に約8年前に訪れた時に、「見猿、聞か猿、言わ猿」を見て、それまでも聞いたことはあったが、初めて本質を理解することになったが、改めてこの言葉と出会うきっかけとなった。
僕の人の事情に突っ込むアンパンマンのような性格と、「見ざる聞かざる言わざる」の本質は、やはり“陰と陽”で真逆の思想であろう。
だが、どちらもその時は“陰”でも、あとから“陽”になるように(あるいはその反対も)、何が良いかは誰にも分からないのである。
だからこそ、僕はそのどちらも思想も理解し、上手く使いこなせるようになりたい。
あるいは、今後どちらも試しているのだと思う。
これが、僕の成長に繋がっていることだと信じている。
以上です。
読んでいただきどうもありがとうございました。
見ざる聞かざる言わざる あかりんりん @akarin9080
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