ハイヌウェレ 水


 日本にて、かつて戦争があったことは国民ならば誰もが知るところだろう。当時は徴兵制が布かれ、多くの日本国民が兵隊として徴収されていった。

 それに関して、このような逸話が残っている。

 日本のある地にて、兵隊にはなりたくない、戦地には行きたくないという国民がいた。国民は仮病を用い、徴兵を免れようとした。そのために、国民は升に醤油を注ぎ、それを一気に飲み干したのだそうだ。醤油を大量に取り込むことで、体内の塩分濃度が上昇。それに伴い、不整脈、発熱、脱水症状、気絶、などの各種身体的異常症状が発生する。兵役を逃れたい国民はこの他にも様々な手段を用いたのだという。

 そして私は先刻、一升を優に超えるほどの量の醤油を一気飲みしてしまった。

 その結果、気絶した。

 目を覚ますと、私はキッチンの床に仰向けで倒れていた。上体を起こすと、ボウリングの球のように膨らんでいた私の腹部が元の通りに戻っていた。驚いて腹を触る。膨らんだが故の張りや弾みもない、触り慣れた訳ではないが、見慣れた私自身の腹だった。不思議になってさすっていると、何の変哲もない我が両手の甲に目がいった。そうだ、私の右手の甲と左手の甲からは緑色の蔓が伸びていたはずだ。ところがその蔓は、影も形も無い。蔓が食い破って出て来たと思われる皮膚の傷すら、すでに塞がりかけていた。さらに左腕と右肩も確認する。この部位からも、緑色の蔓は生えてきていた。だが、その箇所も同様に、蔓も傷も存在しなかった。しかし衣服の、蔓が出て来ていた部分は、ちょうど蔓と同じくらいの穴が開いていた。私は隣の食器棚へ顔を向けた。ガラス戸に顔が反射して、左右がひっくり返った私の顔面が映っている。黒い縦縞などは微塵も存在しない。両手で頬をつねりまくる。軟らかい。硬い部分は全く無い。本来あるべき私の顔だ。

 やはり、塩だった。あの西瓜の弱点は。本来ならば大量の醤油を飲んだ時点で私は心肺停止になってもおかしくはなかった。しかし、塩分のほとんどは私の体内を巣食っていた西瓜に吸収されて事なきを得た。また、西瓜自体も塩分を吸収したことによって水分が失われ急速に衰退したのだろう。それでも、人体には有害な量の塩分が残っていたはずだ。だが、こうして身体の各部位に異常が無いのは、恐らく私の日頃の行いが大変よろしかったからだと思われる。運気をすべて使い果たしてしまったかのような気もするが、この命が助かっただけ万々歳というものだ。めでたしめでたし。

 しかし、醤油の飲み過ぎは身体に堪えたようだ。昨晩の比にはならない程度だが、少々喉が渇いた。冷蔵庫の中にあった牛乳はすべて飲み干してしまったし、あまり気は乗らないが蛇口からの水で我慢しようか。

 コックを捻ろうと手を伸ばすと、がしりと我が手が掴まれた。掴んできたのは紛れもない、醬油飲ませ屋のぱっつん娘だった。

「いけませんよ。ここで水分を摂ってしまえば、またあの西瓜が復活するかもしれません。どうしても水分が摂りたいというのであれば、そこに転がっている半玉の西瓜を食べてください」

「馬鹿な。ほんの少し前まで、あの西瓜のせいで生きながらに死んでいたのだぞ。これ以上西瓜を食べるなど、御免被る」

「ですが、あの西瓜はどなたかが顔面を滅茶苦茶に近付けて咀嚼したものですよ。それを他の人に食べさせるなんて、衛生的に看過出来ません。ふざけた食べ方をした当の本人が責任を以て処分すべきでしょう」

「ふざけた食べ方など……あれは非常時であったが故に」

「それとも『食べ過ぎて飽きちゃった~西瓜なんてもう要らな~い』などと我儘を言って、まさしく処分するおつもりですか? まだ痛んでも腐ってもいない西瓜を、まるまる半分も?」

 秋雨の翌日に歩道に散乱しているイチョウのような、黄色い声で演技するぱっつん小娘。誠に、非常に、心の底より、癪で癪で癪でしかないことだが、彼奴の言うことに間違いはない。正論だ。客観的に見れば私は、一時の感情に身を任せ、下品な食べ方で食物を占有した挙句、自分勝手な理屈を述べて可食部を廃棄しようとする悪漢だ。食べ物を粗末にするのは、私が最も許せない行為の中の一つである。私も腹を決めよう。生殺しの身まで追い詰めてきた西瓜ではあるが、それでも感謝の念を込めて、美味しく頂戴しよう。

「まあ、種を三角コーナーに捨てるなり何なりすれば無問題という訳だし、万が一食べてしまったとしても、塩分を取りさえばいい話だしな」

「その通りです。そして、ここにはトッピング用のしょっぱーい品々が種々様々御座います」

 小娘が手提げ袋からてきぱきと食材を取り出し、システムキッチンの上にずらずらと並べていく。

 まず初めに、でっぷりと肥えた大きな鮭。またしても魚、鱗がきらきらと赤色の光を反射する立派な真鯛。対してこちらは、雪のように真っ白なモッツァレラチーズ。それから、真っ黒な瓶に詰められたオリーブオイル。

 そして、棍棒のような巨大な物体。

「この……棍棒のような巨大な物体は、何だ?」

「生ハムですね。生ハムの原木です」

「いくらなんでもこの量は多すぎるだろうが」

「まあ、二人分ありますからね。私はその西瓜を食すことが出来なくなってしまったので、どうぞ全て召し上がってください」

「こんなに食えないぞ。半分くらい持って帰ってくれるか」

「何をおっしゃいますか。ここにあるものは全て生モノですよ。今日この日のうちに食べてしまわなければ、真の味を知ることが叶わなくなってしまいます」

 小娘は真剣の抜き身を晒すと、真鯛の尾を掴んで

「じゃんじゃん食べて、ばんばん感想を述べてくださいね」

 と、すこぶるにんまりした貌で私に語った。





 

 @

 




 それからしばらくして、私が家の近くを散歩していたある日。

 生ゴミ集積場が荒らされているのが目に入った。

 朝によく鳴いているカラスたちの仕業だなとぼやきつつ、撒かれたゴミを直す。すると、その中に黒い羽根が落ちているのを見つけた。やはりお前たちだったか。掃除がてら摘まみ上げる。黒い羽の付け根には、ほつれた収集ネットであろう、緑色の糸らしきものが付着していた。これは不味い、ほつれたところからどんどん穴が大きくなってしまう。破損個所を探ろうと糸を手繰り寄せていると









 緑色の蔓が巻き付いた、腹の丸いカラスが引っ張られてきた。

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ハイヌウェレ @RGSnemo10110104

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