第11話 深夜渦中の原色王
目の周りに電流のような刺激が奔った。開けた視界は水の青。留めるのは透明な水槽。だがそれは、海水を物ともしない青色のカイエによって破壊された。
海水が一気に解放される。
水たまり程度に水が残った槽の中で、わたしは咳込んだ後、最愛の人の名前を叫ぶ。
「ソノア……? ソノアっ! ソノアっ、ソノアぁ!!」
置いて行かれた子どものように、わたしは泣きながら名前を叫んだ。
呼ぶことに必死だったから、足がもつれて転んでしまう。
足元に残る水たまりが、わたしの姿を反射する。
―――わたしの前髪の横側は、綺麗な青色になっていた。
ソノアのカイエと同じ色だ。それで、本当にソノアはもういないんだと分かって、わたしは声をあげて泣き出した。割れた水槽から、どこまでも遠くまで声が響いた。
「あなたはノアと違って、殴られた子どもみたいに痛々しく泣くのねぇ」
割れた水槽の破片が踏まれ、敵がやって来たのだと告げている。
屋外スペースから回ってきたアズリは、わたしを遠目に見ている。
「ノアのやつ、よっぽどあたしが怖かったのねぇ。ヒトメスにカイエを渡して、自分は死んで逃げるなんて。……まあいいわ。あたしたちが欲しいのはカイエだし――新しいおもちゃも、見つけたことだしね」
思いがけないものを貰えたように、アズリは頬を紅潮させながら近づいてくる。
「あたし、泣いてる姿って大好きよ。涙とよだれで綺麗な顔をぐちゃぐちゃにしながら、地面に這いつくばって泣かれると……あっはぁ、想像するだけでゾクゾクしちゃう」
アズリは快感で身体をぶるりと震わせる。
そうやって多くの人を痛めつけて、殺してきたから――ソノアがこの身体を乗っ取ったんじゃなくて、わたしにカイエを残して死んだと分かったんだろう。
泣いてる声で分かるくらい、こいつはソノアを傷つけてきた。
「あんたはあたしのド
侵触体の脚力で、アズリがわたしに向かって跳ぶ。腰から伸びるは血染めの殺意。侵触体をこの宇宙において、絶対的な捕食者たらしめる生命性。先端を釘のように尖らせたカイエは、内臓をかき混ぜたいと叫び、わたしに向かってくる―――。
これは……カイエは、押し付けられたんじゃない。
ソノアがわたしにくれたものだ。
自分が死んでもいいから、わたしには生きて欲しいと――こんなわたしを愛してくれたソノアが、一つだけ残していった大切なものなんだ。
だからこれは――これだけは、誰にも奪わせない。
ぜんぶぜんぶ、わたしだけのものだ。
わたしの目の周りに、龍の鱗のような文様がヒビのように刻まれる。それは捕食者の片鱗。命を貪る捕食器官の発現に伴う、部分的な先祖返り。かつて侵触体が持っていた鱗という防御機構が顔周りに現れた。
「な―――ッ!」
わたしの腰から立ち上がった純青のカイエに、アズリが絶句する。
水のない水槽を、わたしの〈青〉いカイエが駆け抜ける。それは鞭のように鋭くしなり、アズリの腹部を思い切り打ちつけた。
水槽の外まで弾かれたアズリは、衝撃と動揺で、視線がグラついていた。
「―――二人分」
わたしの声に、まだ動揺が残るアズリは顔を上げる。
「わたしとソノアの二人分、あなたにやり返す」
自分でも驚くほど、強い言葉が喉から出る。前にソノアは「侵触体はカイエに記憶が宿る」と言っていたから、これはカイエを継いだ影響だろうか。
それとも、アズリが苦しそうに這いつくばっている姿に、卑屈が覆い隠してきた本当のわたしが顔を見せているのか。――確かに、この女が泣く姿は見てみたいと思った。
わたしは、水槽の外に踏み出す。
アズリもまた、口内に残った血を吐き出して立った。
「泣いてる声が好きなんでしょ? その耳に一番近いところから聞かせてあげるよ」
「……っそう。あたし、ソロプレイには興味ないの。あんたこそ、さっさとヒトらしく
「べつにいい。―――わたしは、人じゃないから」
「はっ! カイエを手に入れたからって調子乗ってんじゃないわよッ!」
アズリが駆ける。その速度は、どんな陸上生物にも追い付いて狩れそうなほど迅い。侵触体は血流に乗ってカイエの因子が循環しているから、それを操作すれば素手は鉄を貫き、肉体の傷もすぐに塞げてしまう。
だから心臓を潰す。そうすれば因子も循環しないから、再生速度も落ちる。
〈青〉と〈朱〉のカイエが激しく衝突した。鋼鉄よりも硬くなった二つの殺意は眩しい火花を咲かせ、人も魚もいない水族館を溶接所に様変える。
わたしのカイエを押し留め、アズリが切迫する。女性特有の細くて色の白い手。だが侵触体である以上、それはわたしのあばら骨も心臓もまとめて貫くだろう。
絶対に避ける――わたしを人だと思っているアズリは、そう高をくくっていた。
僅かに身を捻ったことで、アズリの手刀はわたしの片肺を貫いた。――生憎だが、わたしはソノアが彼女から受けてきた痛みの記憶も、少しだが継いでいる。
この程度の痛みで動きは止めたりしない。
「捕まえた。この距離なら外さない」
がしりと、彼女の腕を握りしめた。
アズリのカイエが、わたしのカイエに絡みつく。反撃しようにも動きを止められてしまう。どうやら彼女は殴り合いでわたしを完封するつもりのようだ。
だから―――わたしの二本目のカイエに刺し貫かれたとき、彼女は混乱していた。
「なん、で……ッ!? ノアは一つしか……ま、まさか、あいつ隠し持って……!?」
戦意が混乱に潰される彼女に、わたしは囁く。
「踏まれる蟻に、靴の数なんて関係あるの?」
「お、おまえ―――ッ!」
憤懣で顔を真っ赤にしながら、アズリは何か言おうとした。だがその前に、わたしのカイエがうねりをあげた。アズリは宙で大きく振り回され、投げ飛ばされる。
人も空っぽになった水族館には、音がよく響いているのに。
わたしの耳には届かない。
ずっと、ソノアへの想いだけが反響していた。
―――雨が降ったら、世界の全部が溺れるような。
日当たりの悪いあの狭い部屋だけが、わたしの全部だった。
地面に転がったアズリが立ち上がろうとし、だがより速く接近したわたしが彼女を壁に叩きつける。カイエで刺し貫いて、壁ごと抉って館内を引きずり回す。
―――例えば、わたしが子どもみたいにうずくまっていた、雨の降る真夜中に。
泣いているわたしの頬に、あなたが触れてくれた小さな手の温度を覚えてる。
こちらを引き剥がそうとするアズリの手を掴んで、わたしは振り払う。
彼女の瞳に映るわたしの表情は、泣いているようだった。
―――永遠につらくて、報われなくて、死にたい想いで自傷したって。
あなたと一緒にいられるだけで、それだけでわたしは、ユメを見てるような心地で。
外壁さえも破壊して、わたしはアズリを投げ飛ばした。
外はもう真っ暗だった。
わたしたちが戦っている間に世界中のものが何もかも一つに融け合わさって、色が混ざってしまったみたいに暗かった。
―――あなたが死んでしまった今になって、ようやく。
ソノアを失って初めて、わたしは幸せだったんだと識った。
なにもかも終わった後で、もうあなたはこの世界にいないけれど。
言葉が銃やナイフよりも、強くて、世界で一番尊いなら。
どうかあなたまで、届いてほしいと思う。
―――わたしは、ソノアがいてくれるだけで幸せだった。
わたしはきっと、あなたと出会うために生まれてきたんだよ。
空中。水族館のすぐ傍にある浜辺の真上。
アズリは慣性と風圧で体勢が乱れている。上下左右。何度もひっくり返る中、変わらず血潮を循環させる彼女の心臓を、わたしはカイエで刺し貫いた。カイエという肉体の器官。それが心臓を潰す初めての感覚……気持ち悪くて、思わず動きを止めてしまった。
その一瞬の隙を、生命の危機に瀕した侵触体は見逃さない。
アズリはわたしのカイエを、血で汚れた朱いカイエで弾いた。
「げほっ……あは、あはははっ! カイエがあっても、所詮はヒトねぇ! 加工された命しか食べたことのない、虫しか殺したことがないような殺人処女! 二人分やり返す? その程度の奴が、あたしに勝てるわけないでしょ!? こんっの――ヒトメスがああぁぁぁぁぁ!!」
艶笑の混じった叫び声をあげながら、カイエを鋭く尖らせた――。
アズリの喉を、わたしのカイエが刺し貫いた。
「なっ……!? ふ、二人分って、あんたさっき……っ!!」
確かにわたしは、彼女に「二人分やり返す」と言って、彼女をカイエで二回貫いたけど。
「わたしは二人分って言ったの。二回じゃない。……まだ、一人分も終わってない」
「ひっ……!」
夜の暗さでも塗り潰せない明瞭な殺意に、アズリの目が恐怖に淀んだ。今になってアズリはようやく、自分が相手にしているのが、人間じゃないことを理解したようだった。
アズリの「殺人処女」という言葉が、頭の中に浮かんだ。その浮袋が、意識の海溝に沈めていた記憶を水面まで浮上させる。……荒らされたリビング。壊れた電灯。わたしの首を絞める義父の太い腕―――わたしは、窓ガラスの破片を握りしめて義父を刺す。
二人の体勢が変わる。アズリが下でわたしが上に。
深淵まで続いていそうな暗い夜空を背景に、わたしは彼女に冷酷に告げる。
「――――悪いけど、わたし処女じゃないから」
わたしは二つのカイエでアズリを貫いた。
抜いて刺して抜いて刺して抜いて刺して抜いて刺して、一回二回三回四回五回六回七回――ああもう数えんのもめんどくさい。まだ気分は晴れないからきっとまだゼロ回だ。
そうして何度もカイエを穿ち、最後は二つで同時に打擲した。
引き延ばされていた時間が等倍に戻り、アズリの身体が砂浜に叩きつけられる。
舞い上がった砂が、いつの間にか出ていた月の光を感動の涙のように煌びやかに反射した。これを見ている神様も随分と楽しんでいるようだった。
ぱらぱらと降り落ちる砂明かりを、わたしはカイエを振って払う。
夜の海岸線。滞留する砂に、アズリは埋もれていた。押し寄せる海水に洗われている姿は、まるで打ち上げられた古木のように非生命的で、命を時間に任せていた。
わたしは自分の腰から伸びる、海のように青い――ソノアのカイエに触れる。
「……仇とったよ。じゃあ……帰ろっか、ソノア」
さざ波の音にも消されてしまうほど、小さな声でわたしは囁いた。
わたしの胸の真ん中には、ぽっかりと大きな穴が空いている。時間と共に「死にたい」が湧き上がる空洞だ。夜の寂しさで肥大化するこの空洞が、なにかで塞がっている時を幸せと呼ぶんだと思う。ここにソノアがいた。彼女がわたしの「死にたい」を止めてくれた。
でもソノアが死んで、胸には前みたいな空洞が出来てしまった。
―――帰ろう。
早くあの家に帰ろうと思った。ソノアと二人きりで過ごしたあの家に、あのベッドに横になれば、この空洞も少しは埋まってくれる。なにか……新しく埋めてくれる古いなにかが、あの家になら残っているかもしれない。
足に絡みつく砂を払って、わたしは夜の海岸線を歩く。遠くに見える街明かりを見つめて、どうにかあの場所まで帰ろうとしていた。
ぱらぱらと、砂が靴から滑り落ちる……違う。
この音は、ずっと後ろから聞こえている―――ッ!
わたしは背後から襲ってきたカイエを防ぐ。柔い足場で踏み留まれず、弾き飛ばされてしまった。
内臓と筋肉がぐちゃぐちゃに混ざった肉体で、アズリは前かがみで立っていた。血で汚れた眼球は、まるで地獄から見上げているかのよう。
「この宇宙の王は……次の、アザトースは……〈緑〉でも〈青〉でもない――あたしたち〈赤〉の侵触体だあああアアアァァァァ!!」
獣のような咆哮を上げながら、アズリが砂浜を速く駆ける。
今度こそ彼女を殺そうと、わたしはカイエの先端を銃口のように向けた。
ざざざざ――とノイズにも似たそれは、海の音だった。あまねく侵触体の生命性を剥奪する海水。夜の黒色が溶け込んだ墨のようなそれは、陸上に上がった全ての生命を海に還らせようとするかのように、砂と一緒にわたしの足を呑み込んだ。
瞬間、全身から力が抜けて膝を付いてしまう。
―――まずい、カイエが動かせない……っ!
海水に触れてカイエが麻痺したわたしに、アズリが差し迫ってくる。
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