第10話 深海で願う


 ……。

 …………。

 ……………………。

 落ちていく。ずっと底まで落ちていくのを感じた。それは物理的に。生物的に。生命として最も優れている侵触体の身体が、塩によって分解されて、無害なものへと還られていく――。

 瞼を開けるのすら億劫な倦怠感に逆らい、ソノアは目を開けた。

 天の川の真ん中に来てしまったみたいに、仄暗い水中は、青い光で満ち溢れていた。

 糸のような赤い線が、仰向けに浮かぶソノアの横を通る。

 体勢を変えて下を見ると、そこにはミウナがいた。ソノアと同様に青い光の粒に囲まれて、海底に沈んでいく古木のように、ずっと下へと落ちていく。千切れた命綱のように、胸からは血の線が立ち上がっている。

 それを引っ張り寄せるようにして、ソノアはミウナの元まで泳いだ。

 ―――このままでは、私もミウナも死んでしまう。

 海水に浸かりながら水槽を壊せる余力はなく、出れたところでアズリには勝てない。

 ミウナの血を全て吸い尽くせば、どうにか出来るかもしれない。

 それが分かっていても、ソノアにはそんなこと出来なかった。ミウナもそれを望んでいる。むしろ出会った時に、そうして欲しいと言われた。自分もそうするつもりだった。

 でも、今はその行為が、世界で最も忌まわしいもののように感じた。


 ……だから、どうしてそうしようと思ったのか……私自身も分からない。

   ただミウナには、ずっと、生きて欲しいと思ったから―――。


 落ちていく。二人でずっと底まで落ちていくのを感じる。

 ソノアは、ミウナの両頬に優しく手を添えた。

 そして、眠るように目を閉じているミウナに、ソノアは唇を触れ合わせた。


       …


 目を開けると、わたしは家のベッドで横たわっていた。

 水滴で濡れた窓は夜景を漫然と映し、微かに動いている様で、わたしたちの時間も止まってはいないんだとわかる。

 雨が降る景色と、空気と、音、雰囲気の全てが、現実よりも強い現実感を持っていて、記憶よりも色鮮やかで――だからここは、わたしの心象風景の中なんだと思った。


「ミウナ」


 優しい声に呼ばれて、わたしは天井の方を見る。

 わたしのことをソノアが見下ろしていた。夜の闇の中にある瞳は、けれど世界の醜さを無視できるほどに澄んでいた。そんな宝石のように綺麗な瞳に、見上げるわたしが映っていた。

 この部屋は全部偽物でも、ソノアだけは本物だった。


「……ミウナ。嘘をついていて、すまなかった」


 今日で世界が終わってしまうかのように、ソノアは静かに言った。

 その様子を見て――わたしたちはもう、死ぬんだと思った。


「私は……本当の私は、ミウナが思っているような奴じゃない。私以外の〈青の侵触体〉は、もうみんないなくなってしまった。女王だったのも、気が遠くなるほど昔の話だ。今は……あいつらに弄ばれ、辱められ、蔑まれるだけの奴隷でしかない」


 過去を話すソノアの身体は、強張っていて、震えていた。息を吸って吐くことすら、満足に出来ないほどに。それがあまりにも可哀想で、わたしはソノアの手を優しく握ってあげた。それでソノアは、少しだけ息しやすくなったようだった。


「地球に来たのだって、本当はただ逃げてきたんだ。もう、耐えられなくなって……どこでもいい。どこか遠い場所に行こうと思った。だが地球まで来ても、私の心はずっと牢獄に囚われたままだった。……どうして生きてるのか、分からなかった」


 それが、ソノアがずっと抱え込んできた本心だった。


「仲間も、何もかも喪ったのに……私だけが、まだ生きていることが恥ずかしかった」


 大勢の誰かから攻撃されて、それに耐えられなくなって逃げ出した。

 でも心は過去の痛みを忘れられなかった。女王の立場も、同じ意志を持った仲間も、すべて失って――生きる理由すらも擦り切れた。

 わたしもそうだ。孤児院では周囲に馴染めず孤立した。引き取って貰った家では気味悪いと蔑まれ、最後には義父に首を絞められ殺されそうになった。

 新しい生き方を始めても、死にたい想いは消えてくれなかった。

 わたしたちはよく似ていた――だからソノアは、わたしに寄り添ってくれたんだろう。


「でもミウナがいてくれたからっ……! 私は、生きようって思えたんだ。こんな風になった私でも、まだ生きていていいのかもって……ミウナと触れ合って、私は私を許せたんだよ」


 頬に水滴が触れる。それはソノアの流したものだった。わたしを見下ろすソノアの両目から、わたしたちの思い出が涙に換わって落ちていた。


「―――私に、生きたいって思わせてくれて、ありがとう」


 その言葉を受けた瞬間、わたしの目からも涙が流れ始めた。自分なんかが、ソノアの生きる理由になれたことに、嬉しくて泣いてしまったのだ。

 胸の奥から想いが溢れ、わたしも言葉にしようと思った。きっと今が最後だから、全部の想いを伝えたかった。


「わたしもだよ、ソノア。わたしも、ずっと死にたかった。……ううん、生まれてきたことを後悔してた。自分さえ生まれなければ、誰も不幸にならなくて……その方がわたしも幸せだったって……ずっと、そう思ってた」


 でも、今はそう思っていない。

 だってソノアは、わたしのおかげで生きたいと思えたのだ。

 わたしが生まれて、死なずに生きてきたことで――わたしが大好きなソノアは、生きることを選んでくれた。生きたいって思ってくれた。それがわたしは、たまらなく嬉しいのだ。


「ソノア。わたしに……生まれてきてよかったって思わせてくれて、ありがとう」


 嬉しくなって笑みが溢れて、わたしの両目に溜まっていた涙も零れた。

 それを見て、ソノアは大きく目を見開いた。生まれて初めて、暗い夜空に星明かりを見たかのように、驚きの感情を伴って陶然としていた。


「……なんだ、これは。いったい、この気持ちは……」


 戸惑いながら、ソノアは自分の胸に手を当てた。

 ふいに、窓の外から明かりが差し込んできた。

 薄い明かりだ。まだ夜の闇にも敗けるくらい、弱々しくて小さな明かり。でもそれは、たしかに世界に光を振り撒いて、空を青くしている。

 窓の外に広がるその光景を見て、ソノアは、胸の前で強く手を握った。

 そこにあるものを、永遠に失くさないように。

 来世でも忘れてしまわないように――その温度を、ソノアは言葉にした。


「ああ、そうか……この、胸の中に灯る温かいものが……これが、愛か」


 世界で最も尊いものを見つけたように、ソノアは嬉然と目を細めて、愛おしそうに笑った。薄明に照らされるソノアの笑顔が、強い生彩で、わたしの瞼の裏側に焼き付いた。


「ミウナ」


 二人きりの部屋。雨も止み、夜も明けていく世界の中で、ソノアの声だけが響く。


「私は、ミウナを愛している。この宇宙の全てを敵に回してでも、私はミウナを愛している。だから―――ミウナには死んでほしくないんだ」


 天井から垂れ下がる照明のスイッチ紐を、ソノアは指でつまんだ。

 心の真ん中で、ソノアが遠くに行ってしまうと理解わかった。


「待って、ソノア……! お願い、やめてっ! そんなっ……だって、ずっと一緒にいるって約束したのにっ……! そんなのいやだよ、ソノアぁ!」

「ねえ、ミウナ」


 わたしの想いも置き去りに、ソノアは、これまでで一番優しい声で名前を呼んだ。


「愛してる。どうか、生きて幸せになって」


 わたしは涙の混じった声で、ソノアの名前を叫んだ。

 照明のスイッチが引かれる。


 世界の全部が暗転して、空模様も部屋も――――ソノアもいなくなった。

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