第9話 ほんとうのソノア


 薄暗さの中に青色が混じる、水族館の雰囲気が好きだった。だが今は、暗さは捕食者の潜む陰に。青さは自分たちを照らし出す光源にしかなっていない。

 アズリから逃げ出したわたしとソノアは、水族館の中を走っていた。落ち着いて水槽の魚を見ていた人たちも、徐々に広がっていく騒ぎを感じ取り、不安そうにしている。

 ずっと後ろの方では、命が喰われる声がしていた。


「そ、ソノア……ちょっと……ちょっと、待って……」

「ダメだミウナ……! 早く逃げないと、あいつが――」


 そこまで言って、ソノアは言葉を打ち止めた。

 死の恐怖と狂騒。それに加え、侵触体であるソノアのペースで走っていたから、両肺が擦り切れそうになっていた。

 過呼吸になりそうになるわたしを、ソノアが支えてくれる。


「す、すまない……! ごめん…………ごめん。ミウナのこと、私は……」

「だい、じょうぶ……それより、どこに逃げるの?」

「あ、ああ……。これだけ派手に動けば、アビストスが来るはずだ。私たちはそれまで、どこかに隠れていよう」


 酸素不足の頭で、わたしは思い出す。

 人間を守っている侵触体の組織がそんな名前だったはずだ。彼女たちの庇護があるから、残虐な侵触体が派手に人間を襲わないんだと……前にソノアが言っていた。

 その人たちが来てくれるのを待つというのが、ソノアの提案だった。

 わたしたちは、アズリがいた方とは真逆に移動する。

 わたしの手を引くソノアの手は、頼りなさげで、だけど必死で、切実だった。

 身体を硬直させる恐怖心に抗って、わたしを守ろうとしてくれていた。

 わたしが見てきたソノアは、凛としていて、落ち着いていて――いつもわたしのことを心配できるくらい、余裕があった。そんなソノアが、ほんの一時でもわたしのことを忘れていた。

 アズリに名前を略されても怒らないで、耐えるように震えていた。

 ソノアは、いったいどうやって生きてきたんだろう。

 そう思って……わたしは気が付いた。

 わたしが、ソノアのこれまでを何も知らなかったことに。

 段々と、ソノアが走る速度を落とし始めた。ここら辺に隠れるつもりなのかと思って、顔を上げる。

 壁に沿ってはめられた水槽と、柱のように立ち並ぶ縦長い水槽。荘厳性さえ感じさせる配置のずっと向こう――わたしたちの反対側から、アズリが現れた。

 彼女の背後で黙しているカイエは、さっきよりもずっと赤かった。

 狭窄して細くなった喉から、ソノアのか細い声が漏れた。


「な、なぜ、私たちの場所が……っ!」

「奴隷を首輪なしで歩かせる飼い主がいるわけないでしょ? しかも一回逃げてんだから」


 アズリがぐいっと不可視の何かを引っ張る。

 途端、ソノアの首元で陽炎が揺らいだ。それは焚火のような温かみとは無縁の赤。真夜中を歩く者を凝視する非常ベルの色合い。

 輪郭が作られ、出来上がったのは首輪だった。付随している半透明の千切れた鎖は、アズリの手元に向かって伸びていた。

 首輪を付けられ、ソノアは驚愕と羞恥で声を漏らす。


「『主従』の愚能指数グノーシス……っ! いつの間に……!?」

「さっきカイエをぶつけた時よ。よっぽどあたしが怖かったみたいねぇ。……あっはぁ。すごく似合ってるわよ、ノア。戻ったら前みたいに死ぬほど泣かせてあげるわ」


 下唇を舌で舐めあげ、アズリがこちらに向かって歩き出す。アズリの足音だけが響く。水槽で守られている魚たちも、泳ぐ音を消して息を潜めている。

 ソノアは動こうとしなかった。たぶん動けないのだろう。強制的に付けられた首輪に物的な作用は何もないようだけど、それに縛られるように、ソノアは身を硬直させていた。

 それで、わたしはというと―――。


「泣かせるって……あなた、ソノアに……なに、したの」


 狭窄した喉を開き、萎んだ舌を動かして言葉を吐いた。


「ソノアは……〈青の原色王〉で、名前は略されるのが嫌いで、それで……!」


 アズリがきょとんとしたのも束の間……ソノアを一瞥すると、いやらしく嗤った。

 見たことがあると思ったその顔は、わたしをいじめる丸山さんと同じものだった。


「あっはぁ! もしかして、あんた知らないのぉ? そいつが女王だったのは、何千年も昔の話。もう仲間の一人だっていない。〈赤の原色王〉の所有物――元女王の奴隷、ノアよ」


 言葉が、鼓膜のあたりで停留して動かない。頭の中まで入ってこない。

 ……冷静で、強かで、誇り高い、侵触体の女王の……青の原色王のソノアが……奴隷?


「ソノア……?」


 信じられなくて、わたしはソノアに視線を落とす。

 ソノアは下を向いていた。そうしてわたしと目を合わせないようにしていた。表情は前髪で判らない。でも髪の隙間からは、熱されたように赤い耳が見えた。


「あっははは! 本当に何も知らなかったのねぇ!」


 そんなソノアを見て、アズリは虫をいじめる子どものように嗤った。


「ほら、ちゃんと自己紹介しなさいよ! 嘘ついてごめんなさいって。奴隷の分際で惨めったらしく女王のフリしてましたって、あたしに前やったみたいに、地面に頭擦りつけながらそのヒトメスに謝ってみなさいよ!」


 館内にアズリの嗤笑が響き渡る。

 ソノアは首まで真っ赤にしながら、体を震わせていた。

 薄暗いセカイ。そこで震えながら、泣いている姿に既視感を覚えて――これは、わたしだと思った。今のソノアは、昨夜のわたしにひどく似ていた。


 ―――わたしとソノアは姉妹だった。


 頑張って今を生きているけど、本当はギリギリで、いつも過去の苦痛に蝕まれている。

 真っ暗な夜は、自己嫌悪でぐずぐずになった自尊心を抱きかかえて、これよりかはマシな、いつもの自分に戻れる朝を待っている。そうやってソノアも生きてきたのだ。


「…………がう」


 わたしの小さな声。だけど芯が通っている声は、アズリの耳まで届いた。


「え? なに、なんか言ったぁ?」

「……ちがうって、言ったの……!」


 顔を上げるのが怖い。戦おうと、堂々と背筋を伸ばすのが怖い。体に力を込めるのが怖い。声を出すのも怖い。目を合わせるのも怖い。―――それでもソノアは、わたしを連れて逃げてくれた。わたしのために戦ってくれたのだ。

 だから今度は、わたしがソノアのために頑張る番なんだ。


「ソノアは惨めなんかじゃない……! 昔のソノアは知らない……でも、今のソノアは違う! どんなに過去の痛みで苦しくたって、わたしを見捨てないで戦ってくれた! あなたの言いなりにならないで頑張ってた!」

「ミウナ……」


 たぶん、幻滅されると思ってたんだろう。持ち上げられたソノアの顔には、驚きと嬉しさが混じっていた。

 わたしが言葉を紡ぐたびに嬉しさが増えて、羞恥の赤色は消えていく。


「だからソノアは惨めじゃない……ッ! わたしにとってソノアは、初めて会ったあの時からずっと変わらない! 強くて、誇り高くて、美しい――ガタルソノアだった!!」


 ソノアの両目から、大粒の涙がぽろぽろと零れる。ギリギリの瀬戸際で耐えていた自尊心の堤防も壊れ、過去は涙に変わって落ちていった。

 野生の動物に手を噛まれたように、アズリの目が苛立ちでたわんだ。


「食われるだけの家畜が、あたしたち侵触体に随分と偉そうにするのねぇ。脱走した犬が出先で豚と仲良くなったってところかしら?」


 アズリが歩き出す。歩調はさっきまでと変わらない。なのにそこには、確かに得物を食らう捕食者特有の殺意が混ざっていた。愉悦のための殺戮ではなく苛立ちを解消するための殺害。感情ある生物が取る最終手段に、アズリは乗り出すことにした。


「決めたわ。ここを去る前に、そのヒトメスは殺していく。あんたの内臓を、あたしのカイエでぐっちゃぐちゃにかき混ぜて、その口から流し込んであげる」


 アズリの殺害予告に、ソノアはわたし以上に顔色を悪くした。


「ま、待て! わかった……大人しく戻る、もう逃げない! だからミウナだけは……っ!」

「戻る? 逃げない? ―――なに勘違いしてんのよ、ノア。戻る戻らないなんて選択肢は、最初からあんたにはないわよ。あるのは『戻されて二度と逃げ出せない』だけ。いつから選べる立場にいると思ったの? 帰ったらお仕置きから始める必要がありそうねぇ」


 愉悦を感じさせるアズリの言葉に、ソノアは泣き出しそうな顔になる。

 ソノアがここまで恐怖で追い詰められるなんて、いったいどんな仕打ちを受けて来たのか。そんなの、考えたくもない。


「ソノア、逃げよう……!」


 わたしはソノアの手を取って走り出す。さっきソノアがやってくれたように、今度はわたしがソノアを引っ張る番だった。館内から屋外スペースに出る。空は星さえ蝕むような黒に沈んでいる。こんな場所は出て、早くあの家に帰ろうと思った。

 わたしたち二人だけが暮らす、あの静かで穏やかな部屋に―――。


「―――ミウナっ!!」


 呼ばれて振り向いたのと、ソノアがわたしに飛びついたのは同時だった。

 蛇の舌先のようにうねりながら伸びてきたカイエが、庇ってくれたソノアごとわたしを刺し貫いた。左胸から全身に激痛が奔り、意識が明滅する。

 足元がふらつき、わたしはたちそのまま、イルカショーか何かの水槽に落ちた。

 視界いっぱいが水で満たされる。

 その光景は、ソノアと二人きりの、雨が降る夜のあの部屋のようだった。


        ◇


「あーあ、もっとゆっくり愉しむはずだったのに。あんな煽るみたいに逃げられちゃ、カイエだって冷静に動かせないじゃない」


 そう悔やむように言いながらも、アズリの口元は楽しそうに笑っていた。

 ヒトメスの方は今ので死ぬだろうが、ソノアはあの程度で死にはしない。女の死体を目の前で食うのもアリかと思いながら、アズリは二人が落ちた水槽を見る。


「これって……ちっ。海水か」


 忌々しそうにアズリが舌打ちをした。

 邪悪な穢れを払うとされる塩。それが溶け込む海水は、侵触体たちには劇毒だった。なんの準備も無しに入れば、先祖返りを起こして醜い姿になってしまう。


「まあいいわ。下から回って水槽を割ればいいだけの話だし。――どんな姿になってるか楽しみね、ノア」


 生存者のいない水族館に、女の哄笑が響き渡った。


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