第一章 深夜渦中の原色王
第1話 生活の底で
ただひたすらに「死にたい」とだけ思っていた。
凍てついた心を溶解させる熱じゃなくて、それを砕ける凶器を探していた。
でもそれは、平穏と団欒で形作られたこの八十平米にないことだけは確かだ。
「夜河さん。それ十番テーブルにお願いね!」
「は、はい……!」
わたしより一年早く入った先輩に言われ、トレーの上に何皿も乗せる。
鉄板でじゅうじゅうと焼けるサーロインステーキは千三百円もする。
わたしの人生の一時間は、牛の肉片よりも安い。
だけど、厨房から渡された料理を機械のように運ぶのは嫌いじゃなかった。あれが好きで、これが嫌い――その感情すら作り物だというのなら、この胸を押しつぶす「死にたい」だってプログラムされた偽物でしかない。
そう考えると、つらい気持ちも和らいでくれた。
注文も減って暇になったので、わたしはドリンクコーナーのグラスを補充しに行く。
……そこでいつもの、笑い声が耳についた。
その内の一音が「笑い声」から「足音」に変わる。ドリンクバーを取りに来るんだと分かった。早く下がらないといけないのに、わたしの足は全然動いてくれなかった。
「あれ、夜河じゃん」
わたしの名前を呼ぶ声は、よく弾むボールでも見つけたように楽しげだった。後ろで結ばれた髪は薄い茶色をしていて、高校に入ったのを機に染めたものだと言っていた。
「ま、丸山さん……」
「なんだよ、お前。今日いないと思ってたら隠れてたのかよ。ほら、こっち来いよ」
「え、あ……」
視線を彷徨わせるわたしは、手を引かれるまま、笑い声がする方へと連れていかれる。テーブルには彼女と同じ制服に身を包んだ女子が二人いた。黒髪と金髪の二人はわたしを見つけた途端に、その笑みを粘着質で陰湿なものにした。
「みんな、夜河いたぞ。こいつ裏に隠れてた」
「えー、そんなにうちらのことが怖かったの?」
「そんなからかうなよ。泣いちゃったらどうすんだよ」
「中学の時みたいにね」
彼女たちはわたしを傍に待たせると、いつもみたく中学時代のことを話し始める。わたしをどんな風にいじめて、泣かせたのかを、楽しそうに笑いながら話すのだ。
人の少ない店内に、わたしの恥ずかしい過去が大声で伝わっていく。店中にいる人たちから見られている気がする。恥ずかしさで顔が熱くなった。自分が二本の足で立って、普通にしているのも何かの間違いのように思えてきた。
「夜河さん、ちょっと来て!」
バッグヤードから顔を出した先輩が、わたしのことを呼んだ。
それでわたしは、彼女たちに謝ってからその場を離れた。
裏に戻ったわたしに、先輩が迷惑そうな顔で言う。
「あのね、今はバイト中なんだから友達と話すのは後にしないと」
「え……」
「お店は夜河さんが遊ぶのに時給を払ってるわけじゃないんだから。ドリンクコーナーのグラスを補充したり、やることは探せばあるでしょ?」
「……はい、ごめんなさい」
消え入りそうな声で、わたしは謝った。
誤解を解くことなんて出来なかった。彼女たちは友達じゃありません、わたしをいじめている人たちです……なんて言葉は、自尊心が喉に詰まって声にならなかった。
「ほら、料理が来たよ」
先輩に促されて見ると、厨房からの受取カウンターにが用意されていた。
おずおずと先輩に頭を下げてから、わたしはホールの方に戻る。
料理の運び先は、わたしをいじめる彼女たちの奥だった。
どうか気づかれませんように。わたしのことなんて無視しますように。そんな情けないことを祈りながら、前だけ見て歩いていた。彼女たちの方を見ないようにしていたのだ。――だからテーブルの下から足を出されても、全然気づけなかった。
ガッと足を引っ掛けられ、わたしは思いっ切り転んでしまった。
お皿は手ひどく割れて、破片と綯い交ぜになった料理が床の上にぶちまけられた。
彼女たちの嘲笑に頭を踏みつけられて、顔が上げられない。涙も目に溜まらず、ぼろぼろと零れ落ちた。
―――この
ぐちゃぐちゃになった料理を、わたしは両手で搔き集める。残飯を独り占めしようとしてるみたいで、あまりの惨めさに生きてるのも恥ずかしくなった。
俯いたままバッグヤードに戻ったわたしに、先輩は呆れた様子だった。
「夜河さん、ぼーっとしすぎなんじゃない? もっと周りを……って、ちょっと!」
「え……あ……」
視線を辿って見ると、わたしの指先がばっくりと切れていた。皿の破片で切ったんだろう。丸山さんたちから離れて安心したように、だらだらと血が滴り始めた。
傷口を手で覆い隠したわたしに、先輩は更衣室の方を指した。
「床は拭いとくから止血しておいで。……それとも、今日はもう上がる? 顔色悪いし」
「……ごめんなさい。そう、したいです」
出血はすぐ止まってくれるだろう。でも目に見えない傷の方が痛くて仕方なかった。
わたしは蛇口で手を洗い、先輩たちに頭を下げて更衣室に歩いた。
―――ソノアがいるあの家に、今すぐ帰りたかったのだ。
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