第2話 少女と触手
汚れた雪のような色のアパートが見えてきた。背の低い門扉を通り、雨でくすんだコンクリートの通路を歩く。格子付きの小窓からは、生活する人たちの光が漏れていた。
その中の一つで、わたしは足を止めた。
バッグの内ポケットから鍵を出し、かちゃんと回す。
わたしはドアをゆっくり開けて、玄関に足を踏み入れ――。
「おかえりなさいっ! 今日は早かったな!」
家の中から飛び出してきた少女が、わたしに思いっ切り抱き着いてきた。
まん丸い青の瞳は、嬉々とした感情で月光虫のように煌いている。わたしとよく似た深海のような青みがった黒髪は、少しだけぼさぼさになっていた。お腹が空いて寝ていたんだろう。彼女は子どものように、お腹が空くと寝る癖があるのだ。
「ただいま、ソノア」
わたしが髪を撫でると、ソノアはくすぐったそうに笑った。そしてもっと撫ででほしそうにわたしの手に頭を押し付ける。横髪が尻尾のように揺れ、動物みたいで愛らしい。
わたしが手を洗っている最中も、ソノアは今日は家で何をしていたか教えてくれた。わたしが中古で買ったゲームをやったり、敵を殺しに街へ行ってたそうだ。無傷なのを見る限り、結果は徒労に終わったようだ。ソノアが無事で良かったと思った。
「みゅう。今日の夜ご飯はなに作るんだ? 今日テレビで『はんばーがー』っていうのを見たけど、すごく美味しそうだったぞ! みゅうは『はんばーがー』作れるか?」
「は、ハンバーガーはちょっと無理かも……。オムライスとかはどうかな?」
「それ、前に失敗してなかった?」
「あう……。こ、今度は大丈夫だよ……! 毎日見てるから。……完成したやつだけど」
わたしたちは台所に立ち、夜ご飯を作り始める。ソノアと一緒に並んで立って、料理を作ってる時間がわたしは好きだった。
昨日の残ったご飯が電子レンジの中で、くるくる回転するのをソノアは眺めていた。
開閉扉に反射するわたしのことを見つめながら、ソノアは不満そうに言う。
「みゅう、またバイトでなんかあったのか」
「……えっ、な、なんで……?」
「だって、私といるのに暗い顔している。またあの女共が来たのか?」
「う、うん……。でも、今日は早退させてもらったし、大丈夫だよ」
「ふんっ。私ならみゅうをいじめるようなメス豚なんて、秒で殺せるのにっ!」
ソノアは嫌なことに憤慨する子どものように、全身をばたつかせる。
身長が小学生くらいのソノアから「メス豚」なんて言葉が出て、わたしは苦笑する。
はたから見ればとんでもない家庭環境だと思われそうだけど、ソノアの背景からすると仕方がないのかもしれない。
―――なにせ彼女からすれば、人はあくまで捕食対象でしかないのだから。
ソノアを見ていたせいで、わたしは卵黄の入ったボウルに手をぶつけた。
それをソノアが受け止めた。
手で掴んだわけでも、足を伸ばしたわけでもない。
―――ソノアの腰から生える一本の触手が、受け止めてくれたのだ。
淡い輝きを秘めるその触手は、金砂で飾られた海底のような青色をしていた。表面は宝飾品のように精緻な鱗に覆われ、その静淑な気配は眠りに就いている女王を連想させる。
ソノアの触手は指のように嫋やかにうねり、わたしにボウルをくれた。
「ほら、落としたぞ」
「う、うん。ごめん」
わたしはそれを受け取り、今度は手をぶつけないように壁際に置いた。
電子レンジが軽快な音を鳴らして、白米が温め終わったのを告げる。ソノアは火傷しないように鍋掴みでそれを持ち、シンクの上に置いた。湯気の上がる様子を見るソノアは、完成したオムライスを想像して口元をにやけさせている。
「食べるのが待ち遠しいな。次はなにをすればいい?」
ソノアが人懐っこい笑みを浮かべながら、わたしに言った。四つ葉のクローバーを見つけた子どものように。そのあまりにも無邪気で稚い笑顔は、これから先にある幸せの全部が、この六畳半に全て掻き集められているかのようだった。
触手の色は、初めて出会った一年前とあまり変わっていない。
でもソノアの表情や雰囲気は、初めて会った時よりも、ずっと明るくて幸せそうだった。
それは一年前の――ソノアに「わたしを食べて」とお願いした、月が綺麗な夜のこと。
外では雨が降り出したようだった。
それは、ぽつぽつと緩やかに勢いを強めていく。
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