アナクシマンドロスの鎖

つきかげ

【短編】アナクシマンドロスの鎖

 長年の夢だった彼女との同棲生活がはじまった。


 彼女――佐藤優子とは大学時代から交際していた。


 社会人になってからもずっと『いつか一緒に住みたいね』と言い合っていたのだが、お互いに仕事が忙しかったりして、なかなかその夢は叶わなかった。


 そんな彼女だが、先日退職したという知らせを受けた。職場のストレスで疲れてしまったのが原因らしい。


 実は、これまでも何度か職場での悩みを打ち明けられたことがあった。


 僕はできるだけ彼女の支えになってあげたいと思っていたが、結局、僕には大切な彼女に優しい言葉をかけてあげることしかできなかったのが悔しかった。


 仕事をやめた彼女は、すっかり実家の自室に引きこもりがちになってしまったようだった。彼女の両親から憔悴しきった彼女のようすを聞くたびに、心の奥が痛んだ。


「もしよかったらうちのアパートに来る? 狭い部屋だけど、一緒に暮らせばきっと楽しいよ」


 ある休日、デート中に僕がそう提案すると、彼女は少し驚いたあと、頬を赤く染めて了承してくれた。


「しばらくニートしてていいからね。貯金もあるし、しばらくふたりで暮らせるから」僕は疲れた彼女の心をできるだけ癒やしてあげたいと思った。


 彼女はすぐに僕のアパートに引っ越してきた。


 結果的に、勇気を出して同棲の提案をしてよかったと思っている。


 共同生活をはじめてからは、表情に暗い影を落としていた彼女も徐々に元気を取り戻していったからだ。


 そして彼女の笑顔が増えるたびに、僕もなんだか心が温かくなるのを感じた。


 優子は子どもっぽいところがあって、よく笑ってよくはしゃいだ。


 少し変わっているな、と感じることもあるけれど、それも彼女の魅力のひとつだ。


 僕は朝から晩まで仕事で忙しくしていたが、帰宅して優子の明るい笑顔を見ると仕事の疲れも一気に吹っ飛んだ。彼女に癒やされているのは、僕のほうだった。


 ◆


 ある日、僕が会社から帰宅すると、優子は興奮気味に「おかえりなさい! 見せたいものがあるの!」と言いながらリビングルームに僕を引っ張っていった。彼女にスーツの袖を掴まれながら、思わずバランスを崩しそうになる。彼女の目はいつも以上に輝いていて、そのエネルギーに僕は少し圧倒されそうになっていた。


 一体、なんだろう?


 そう思いながらリビングルームに入ると、出窓に大きなガラスのケージが置かれていた。


「これ、なに?」僕は驚きと戸惑いを隠しきれずに尋ねた。きっとけげんな顔をしていたと思う。


「ヒョウモントカゲモドキ! 可愛いでしょ?」優子は満面の笑みを浮かべながら答えた。その目はまるで子どものように輝いていて、僕もつられて笑ってしまいそうだった。


 僕はケージの中を覗き込んだ。ケージの中で、小さな爬虫類が砂の上をゆっくりと動き回っていた。


 この生き物が彼女の言うヒョウモントカゲモドキなのだろう。


「ヤモリの仲間なんだけど、壁にはくっつかずに地面を歩くんだって」


 彼女は喜々としてヒョウモントカゲモドキの説明をはじめた。


 独特のまだら模様がヒョウを思わせるために、このような名がついているらしい。夜行性で、昼間は岩陰や穴に隠れていることが多いのだという。


 ヒョウモントカゲモドキは僕の存在に驚いたようにこちらを一瞬見たあと、命の危険を感じてケージ内に設置されたシェルターへと逃げていった。


「ペットを飼うなんて一言も聞いていなかったから、びっくりしたよ」と僕は正直に言った。飼いたいなら相談してくれてもよかったのに。「しかも爬虫類が好きだなんて全然知らなかった。結構、長い付き合いなのにさ」


 優子は少し申し訳なさそうにしながらも、「ごめんね。今日ペットショップに行ったら、どうしてもこの子が欲しくなっちゃったの」と続けた。


 僕はケージの中のシェルターからちょこんと顔だけ出しているヒョウモントカゲモドキを見つめながら、優子の気持ちを理解しようと努めた。よく見ると愛嬌があるように見えなくもない。


「ちょっと驚いたけど、優子が喜んでいるなら僕も嬉しいよ」と僕は微笑みながら言った。その瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなり、僕もなんだか幸せな気持ちになった。


 その晩、僕たちはふたりで一緒にヒョウモントカゲモドキのケージの前で過ごした。優子はこの爬虫類の生態や飼い方を熱心に説明してくれた。ペットショップで一通り説明を聞いたらしい。さらに、僕が帰ってくるまでの間、YouTubeなどで勉強をしたのだと言った。


 彼女の声には子どもみたいな興奮が混じり合っていた。彼女の熱にあてられたせいか、僕も次第にこの小さな生き物に興味を持ち始めた。優子と一緒に彼の動きを見守りながら、ふたりで静かに話をしているのが心地よくて、つい時間が経つのを忘れてしまいそうになる。


「名前、もう決めてあるの?」と僕はたずねてみた。


「うん」彼女は少し恥ずかしそうにもじもじしだした。「ポテトチップってどう?」


「え、ポテトチップ?」


「うん。変かな?」


 変だ。


「個性的な名前だね」僕はなるべく本心を表情に出さないようにして言った。


「チョコとかココアとか、クッキーみたいに、お菓子の名前をペットにつけるのって普通じゃない? わたし、ポテトチップ好きだし」


 彼女はいつの間にか持っていたポテトチップスの袋をあけ、中身を2、3枚取り出して、ぱりぱりと音を立てて食べ始めた。


 僕もポテトチップスを1枚もらった。なんだか腑に落ちない気持ちを抱えながらも、彼女が楽しそうにしているならいいか、と思うことにした。


 ◆


 こうして僕たちの新しい生活が始まった。


 ヒョウモントカゲモドキのポテトチップと共に過ごす日々は、思っていた以上に楽しかった。


 彼は爬虫類なので、生きた虫を食べるらしい。


 生きた虫を食べるということで最初は抵抗があったものの、不思議なものですぐに慣れた。優子なんか、今ではなんでもないような顔をして素手でミルワームを摘んでいる。


 ケージ内に生き餌のミルワームを落とすと、ポテトチップは、その瞬間目つきが鋭くなって、なんというかワイルドに追いかけていく。命の危機が迫ったミルワームは必死に逃げようとするのだが、結局追いつかれてしまう。むしゃむしゃと美味しそうに食べ始める姿にはなんとも愛嬌があった。


 充実した毎日を過ごしているうちに優子もすっかり元気を取り戻したようだった。


「ねえ、ごっこ遊びしてみない?」ある日、突然彼女がそんなことを言い出した。


「ごっこ遊び? 子どもがやるやつ?」


「そうそう。ちょっとやりたいなって思って」


「別にいいけど……」僕はスマホをいじるのをやめて彼女の方を見た。「で、どんな遊びをするの?」


「赤ちゃんごっことか……?」と彼女は言った。


「えっ!」


 僕は驚いて彼女の顔を見た。


 ごっこ遊びって、そういうこと……?


 眼の前には彼女の子どものような無邪気な顔があるだけだった。特に、深い意味はないのかもしれない。


「そういう変態っぽいのはちょっと……」きっと僕の顔は赤くなっていたことだろう。しかし、優子は僕が照れている理由がよくわからない様子できょとんとした顔をした。


「えー。じゃあ、ヤモリごっこは?」


「ヤモリごっこ?」僕は首をかしげた。


「そう。ポテトチップの真似をするの。やってみてよ」


 僕は困惑した。ヤモリの真似なんてしたことがないし、どうやってやるのか見当もつかない。しかし、優子の期待に満ちた顔を見て、やらざるを得ない状況に置かれているのを理解した。とりあえず、ケージの隅で丸まって眠っているポテトチップの姿を思い出して、その姿を真似してみることにした。


 床に横たわり、両膝を抱えて小さく丸まる。自分でも滑稽な姿だと感じた。


 すると、


「あはは! うまいうまい! 上手だね!」


 優子の笑い声が部屋に響き渡った。彼女が喜んでいるのを見て、僕はほっと胸を撫で下ろした。


 どうやらお気に召したみたいだ。


「次はわたしの番ね」と優子は言って、今度は彼女がポテトチップの真似を始めた。


 その動きは驚くほど滑らかで、まるで本物のヒョウモントカゲモドキがそこにいるかのようだった。


 僕のとはレベルが違う。


 彼女はさっと四つん這いになり、静かに部屋の中を徘徊し、時折ピタッと止まったかと思うと虚空を見つめだし、かと思えば次はなにかに怯えたように部屋の隅にバタバタと四本脚で駆けていく。そうして何も映していないようなまんまるな瞳でじっとこちらを見つめ続ける。まるで爬虫類そのものだ。ポテトチップが彼女に憑依したかのようだ。


「すごい。すごいけど、似すぎていてちょっとこわいよ」僕は若干ドン引きしながら感想を述べた。


「昔からこういうのが得意だったの」優子は満足げな笑顔でそう答えた。


 それから僕たちはケージの前でポテトチップの動きをじっと見つめていた。優子はうっとりとした表情で、「わたしもヤモリになりたいな……」とつぶやいた。その声にはなんだか憧れに近い感情が含まれているような気がして、僕は一瞬どう反応すべきかわからなかった。


「ヤモリになりたい? どうして?」僕は少し驚きながら尋ねた。


「だって、彼らの生き方って素敵じゃない? 自由で、どこか神秘的で……悩みがなさそうで……」優子の瞳は夢を見るようにポテトチップを見つめ続けていた。


 社会に馴染めずに一度挫折してしまったことに対して、彼女なりになにか思うところがあるのかもしれない。


 しかし、彼女が楽しんでいるならそれでいいと思うことにした。


 今はこうして、元気になってくれたのだから。


 ◆


 それからというもの、優子はことあるごとにヤモリごっこを始めるようになった。最初は可愛らしい仕草や、爬虫類らしい警戒心を見せたり、僕の近くに来てお腹を触らせてくれたりする程度だった。僕は内心、少し嫌だな、と感じながらも彼女の元気な姿を微笑ましく見守っていた。


「似てる? 似てる?」と彼女は無邪気な子どもみたいな仕草で僕にたずねる。


「うん。似てるよ」僕は彼女の頭を撫でてそう答えた。すると彼女はとても嬉しそうにするのだった。


 ある深夜、僕はふと目を覚ました。隣に優子の姿はない。


 代わりに、なにか気配を感じた。


 部屋の片隅で優子がじっとなにもない空間を見つめていた。目がぎらぎらと光り、不気味なほど静かだった。まるで夜行性の生き物の本能を発揮しているかのようだった。


「うおっ」僕は思わず声をあげた。


「優子? なにしてるんだ……?」恐る恐る声をかけたが、彼女は何も答える気はないみたいだ。ただただその場にいるだけだ。僕は不安になりながら、それでもしだいに眠気がやってきて、再び眠りに落ちてしまった。


 翌朝、僕は昨夜のことを彼女に尋ねた。「昨日の夜、部屋の隅で何してたの?」


 優子はきょとんとした顔で、「え? 何のこと?」と答えた。


 まるで本当になにも知らないようだ。誤魔化そうとしている感じはしない。僕は困惑しながらも、それ以上追及するのはやめた。昨日は僕も寝ぼけていたし、夢でも見ていたのかもしれない。


 しかし、優子の奇妙な行動はその後もおさまることはなかった。


 日中は普通の優子であったが、夜になると変わってしまった。


 彼女がヒョウモントカゲモドキのような動きをする頻度が上がっていったのだ。彼女が部屋の隅でじっとするようになったり、四つん這いの姿勢で家具の下に隠れて静かに動き回ったり、突然の音に驚いて身を縮めたりといった奇行が続いた。


 僕は仕事から帰ると、まず優子の様子を伺うようになった。


 彼女が一人で何をしているのか、どこにいるのかを気にせずにはいられなかった。僕は自分がノイローゼ気味になっていくのを感じずにはいられなかった。夜中にふと目を覚ましては、優子が部屋の片隅でじっとしているのを見かける度に恐怖を感じた。


 そしてある日、事件が起きた。


 キッチンでゴキブリを見つけたのだ。


「優子、ゴキブリが出たよ! 叩くものある!?」


 僕が叫ぶと、優子はその声に反応し、目を鋭く光らせながら素早く四つん這いになった。


 彼女の動きはまるで爬虫類そのもので、風のような速さでゴキブリに近づくと、口を開けて一瞬でゴキブリを捕らえむしゃむしゃと食べ始めた。ゴキブリの体液がぴゅっと彼女の口から飛び出して、弧を描いて床に落ちた。彼女はよく噛んで咀嚼そしゃくすると、恍惚こうこつとした表情を浮かべ、ぺろぺろと口のまわりを舐めた。


 僕は思わず目を疑った。


 あまりの出来事に、しばらくのあいだ体を動かすことができなかった。優子がゴキブリを食べる姿はまさにヒョウモントカゲモドキそのものだった。


「優子、何しているんだよ!」混乱した頭のまま、僕は叫んだが、優子は無表情のまま、まるで何事もなかったかのように立ち上がり、微笑んだ。


「ふふ、どうしたの?」と、いつもの優しい声で尋ねる優子。その目にはどこか暗い光が宿っていた。


「馬鹿な真似はやめてくれ。もう、ヤモリごっこはたくさんだよ!」


 彼女はきょとんとした顔をした。まるで、僕の言葉が通じていないみたいだった。


 僕は後ずさりし、彼女との距離を保ちながら、なんとか平静を保とうと努めた。しかし、僕の心には恐怖が芽生え始めていた。彼女は狂っているのだ。そして、このまま一緒にいたら、自分も彼女と同じように狂ってしまう。


 ◆


 優子は日を追うごと奇行が増えていった。彼女は次第に人間の言葉を喋ることが減っていき、代わりに喉の奥の方から奇妙な音を発するようになった。動きもますます野生的になり、なんでもないような顔で四つん這いで部屋を自由に闊歩かっぽする姿が目立つようになった。


 親や友人に相談するものの、誰も僕の話を真剣に受け止めてくれなかった。


 僕がどんなに必死に説明しても、みんな冗談だと思って笑い飛ばすか「ストレスでおかしくなっているんじゃないか」と軽く流されてしまうかのどちらかだった。


 無理もない。


 もし仮に僕が彼らと同じ立場でも、こんな突拍子もない話は信用できないかもしれない。


 ある日、僕は嫌がる彼女を引きずって無理やり心療内科を訪れた。


 病院につくまでは暴れに暴れたが、いざ診察室に入ると、昔のようにおとなしくて愛嬌のある、普通の優子に戻っていた。彼女は穏やかな表情で座り、僕の不安をよそに、まるで何も問題がないかのように振る舞った。


「最近、彼女が奇妙な行動をするんです」と僕は説明を始めた。「夜中に四つん這いで動き回ったり、言葉を喋らなくなったり……」


 優子は「そんな馬鹿な」と呆れ顔で僕の方を見ていた。


 医者は優子の様子を見た、そして、次に僕の顔をみるその瞳は冷ややかだった。「そうですか。今のところ優子さんは正常に見えますがね。もしかしたら、あなたの方がストレスや疲れで過敏になっているのでは?」


 医者でさえ自分の話を信じてくれない。


 優子が異常な行動をしていることを証明する手立てがない。僕は孤立無援の状態に追いやられてしまったのだ。


 病院からの帰り道、僕は無言で歩き続けた。優子は彼の隣で微笑んでいたが、その微笑みの奥には何か不気味なものを感じずにはいられなかった。僕は心の中で叫びたくなる衝動を抑えながら、どうすれば優子を元に戻せるのか、そして正気を保つために何をすればいいのかを考え続けた。しかし、いくら考えても答えは出なかった。僕はまだ彼女のことを愛していた。思い出の中の彼女はいつも優しくて可憐だった。


 その夜、僕は電気を消してベッドに横たわりながら、暗闇の中で優子の動きを見守った。


 彼女は再び四つん這いになり、静かに部屋を徘徊していた。もう声をかけようとも思わなかった。その姿を見ながら、僕はひとり、深い孤独を感じていた。


 優子の奇行を見る度に心がすり減り、ついには昼間の仕事にも支障をきたすようになっていった。ありえないようなミスを連発する僕の様子に同僚たちも心配して、声をかけてくれた。


「お前、大丈夫か? 最近、顔色悪いぞ」


「ちょっと疲れてるだけだよ」と僕は力なく笑った。


 彼は僕の肩を軽く叩き、「まあ、彼女のことで悩んでるんだろうけど、別に浮気をされたわけでもないんだろ?」と軽い調子で言った。


 僕はその言葉に対して、無理に笑顔を作った。


 浮気している方がまだマシだった。


 彼女が狂ってしまったのか、僕が狂ってしまったのかさえわからなくなりはじめていた。


 その夜、アパートに帰ると部屋は真っ暗だった。


 僕は電気をつけず、静かにリビングルームに入った。優子の姿はどこにも見当たらなかった。まるで彼女は最初から存在しなかったかのようだ。人の気配すらない。


 ふと、僕はかすかな物音に気づいた。音の方向に目を向けると、物音はポテトチップのいる水槽から聞こえているようだった。おそるおそる水槽に近づき、覗き込むと、思わず体が硬直した。


 水槽の中には二匹のヒョウモントカゲモドキがいて、激しく交尾していたのだ。  


 一匹はポテトチップで間違いなかったが、後ろから乗っかられて苦しそうにしている、もう一匹の方は……。


 僕は思わず自分の目を疑った。


 ケージの中で、二匹のヒョウモントカゲモドキが絡み合っている。


 ケージの前には、優子の着ていた服が散らばっていた。


 僕は何度も目をこすり、現実を否定しようとした。


 しかし、眼の前の光景はいつまでも消えてはくれなかった。


<了>

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