白薔薇の筆頭聖女

 


 どうぞと言えば、赤毛を一つに束ねて編んだものを肩から垂らした少女が遠慮がちに扉を開けて顔を覗かせた。

 グレースの愛すべき頬のそばかすは今日も可愛いと、ユフィリアは柔らかく微笑む。


「この本、読んでたんだ」


「……ん?」

「こんなにボロボロになるまで何度も読みこんで。ユフィったら、よほどお気に入りなのね」


 にっこり微笑んだグレースが、文机の上に置かれた一冊の薄い絵本を手に取った。

 四隅の紙が捲れ上がっていて、古びて色褪せかけた表紙には細かい皺が寄っている。


「ぅん……と」


 絵本を開いて眺めるグレースに、ユフィリアはひどく照れくさそうにする。


「ユフィはに懐いてたもんね。ほら……これを私たちが小さい頃に読み聞かせてくれていた……んと、誰だっけ」


「筆頭聖女のステラ様」

「そうそう、ステラ様っ。この本、ステラ様にもらったんだよね。 ヴェルダール皇帝陛下に所望されて、帝国に旅立たれる時にユフィが泣きじゃくったから!」


「……もうっ、それ言わないで? でもおかしいよね。小さい子が読むをずっと読んでるなんて」


「ユフィはこのお話が実話だって、信じてるんでしょ?」


 ──権力者に能力を査収されながらも、貧しい者を救い続けた聖女が尊い神力の加護を受け、自由を勝ち取る物語を──。


「そっ、そんなのただの絵本だもん。信じてなんかないよっ。ほら……昨日はちょっと、眠れなくて」

 

 そっか! と言いたげに慌てて絵本を卓上に戻し、グレースがユフィリアの寝台のそばにやってくる。


「……背中の傷の具合はどう、痛まない?」


 正直——痛い、すごく痛い。

 けれどそう言えば大切な治癒の力を使ってくれたグレースを傷つけてしまう。


「ううん、平気! グレースのおかげですっかり治ったわ」


 笑顔で両肩をぐるりと回して見せれば、そばかすの頬が嬉しそうに緩んだ。


「グレースこそ、私の背中にグラシアをいっぱい使ってくれたんだもの……今朝はまだ辛いでしょう?」


 聖女が持つ治癒の力・グラシアは、一度使うと最低でも半日の休憩が必要だ。

 症状が重篤なほど治療にかなりの精神力と体力を消耗してしまい、長時間休まなければ元のレベルには戻らない。この特性はユフィリアがグラシアの乱用を拒む理由の一つでもあった。

 

 ——グラシアは安易に使っちゃいけない。

 治癒の力を本当に必要とする人にこそ使うもの——。


「実はね。背中がまだ痛むかなって、ユフィの髪を結いにきたのよ。ほら座って?」


 ヘアブラシを持ったグレースに促されるまま、ドレッサーの椅子に座る。

 ありがと……親友の気遣いへの感謝の気持ちを乗せて、つぶやくように言った。


 鏡の中のグレースが、ユフィリアの艶やかに波打つ長い髪を半分に分ける。細いリボンで両耳の上に括り、指でくるくると巻いてほぐせば見事なツインテールに仕上がった。

 たっぷりと量のある銀糸のような髪が、窓辺から直線的に差し込む朝日にかがやいている。


「綺麗な髪をまとめちゃうのは勿体ないけど、ツインテールはユフィのトレードマークだもんねっ」

「みんなには『聖女のくせにぶっ飛んでる』って言われてるけど?」

他人ひとにどう思われようと全然気にしないのがユフィでしょ……!」

「グレース、私、これでも繊細な心の持ち主なのよ?」


 ふふっ! と互いに笑みがこぼれた。

 ユフィリアが満足そうな笑顔を作る。言葉を交わさなくても、グレースとならいつだって気持ちが通じ合っていた。


 グレースが部屋を去ると、

「やばい、午前の礼拝に遅れそう……!」


 背中の痛みに耐えながら着替えに奮闘していると、何やら窓の外が騒がしい。

 気になって覗くと、十名ほどの人びとが純白の聖衣をまとった聖女を囲んで雑談している。身なりの整った彼らは貴族だとすぐにわかった。


 ——朝っぱらからレイモンドの金儲けに利用させられた聖女がいるのね。


 ユフィリアの部屋は建物の二階なので、窓を開けていれば階下の音が風に運ばれてくる。聞くともなく聞いていると、集まった者たちは聖女を称える言葉を口々に叫びはじめた。


「聖女イザベラ様、腕の傷跡がきれいさっぱり消え去りました。本当に有難うございます」


 ——イザベラ……


 耳に届いたその名を聞いたとたん、ユフィリアの頬が糸を張ったように引き攣った。


「聖女様のおかげで娘は社交場で恥をかかずに済みます。年頃の娘ですから、腕の小さな傷跡一つが良い縁談のなりかねませんもの……! 感謝の気持ちとして、提示額の倍額をお支払いいたしますわ」


 ——心配はわからないでもないけど、過保護すぎるでしょう。

 それに、倍額って……たかが腕の傷跡ひとつ消すために幾ら払うつもりなの?


類稀たぐいまれなる美貌に加え、弱き者たちに救いの手を差し伸べてくださるイザベラ様はまるで天使だ!」


 老夫らしき人物が大袈裟な抑揚と身振りをつけて声高に叫んだ。

 天使だと言われ、当人のイザベラは上機嫌だろう。


「いやいや、天使どころか聖都の民の聖母様だよ〜筆頭聖女イザベラ様は」


 飲みかけた水を吹き出しかけた。

 ユフィリアの呆れはピークに達したようだ。よくもこんな歯が浮くようなセリフを軽々しく口にできるものだとユフィリアは苦い顔をする。

 

 ——聖母様の定義があるなら教えて欲しい。

 それがイザベラのことなら、そんな世界、私はいらない。


 イザベラを賞賛する声は尚も続いている。

 窓辺から見下ろせば、白金色ブロンドの髪を風に遊ばせながら微笑む美しい聖女の、凛とした立ち姿があった。


「夜な夜な聖都に現れては民を救うという、あの『月夜の女神』はイザベラ様なのではありませんか? 周囲の皆がそう噂しておりますのよ」

「ああ、その噂は私も聞いたよ。銀狼に跨って月夜を飛ぶというあの女神様だ。どうやら貧民街に頻繁に現れるというじゃないか」


 豪奢なローブを羽織った小太りの男性が放った言葉には、さすがのユフィリアも驚いてしまう。


 ——《月夜の女神》がイザベラ……?!


 確かにイザベラは他の聖女たちを圧倒するグラシアを持つ、有能な聖女だ。

 目鼻立ちの整った見目麗しいかんばせはもちろん、どんな時も笑顔を絶やさず優しく情に厚い。

 人望があり、頭も切れる。文句のつけどころのない才女だと讃えられるのが——数ある教会の中で孤高の権力を誇る中央大聖堂の筆頭聖女、イザベラ・マレーだ。


 ユフィリアの背中に、またズクリと重い痛みが走った。

 同時に聖騎士ルグランの端正な横顔が浮かぶ。ユフィリアが好きだった、澄み渡った空のようなあのあおい瞳が。


 ——イザベラの本性ほんしょうを、あの人たちは知らない。


 視線に気づいたのか、イザベラが顔を上げる。

 頭上にユフィリアの姿を認めると、にっこりと——白い薔薇の花が開くように甘やかに微笑んだ。





 *┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*





「呑気なものだな」


 背後で抑揚のない低い声がして、振り返ったユフィリアは丸いみどりの瞳を更に大きく見開いた。

 眩しいほどの朝日が真横から差し込んでいる。

 大聖堂に続く外廊下に人の気配はすでになく、閑散としていた。


「礼拝が始まっている。急ごうという気はないのか?」


 大理石造りの円柱に背中を預けて腕を組んでいた黒い人影が「やれやれ」と呟きながら気怠けだるそうに身を起こす。


「またあんたなの。そんなところに突っ立って、朝っぱらから私に何のご用…………?」


 ユフィリアは思う、どこか爽やかさをまとった「青年」という響きすら、この胡散な「男」には不似合いだと。


 昨夜見たままのくたびれた職服に、今にも破れそうなマントを肩から重そうに垂らしている。背まで伸びた黒灰色の髪を無造作に後ろに括り、前髪はやはり伸びきっていて、男の顔の半分を隠していた。


 ——けっこう綺麗な顔をしてるのに、これじゃ台無しね。



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